1週間の避難生活

 タイの首都バンコクの中心部を、反独裁民主戦線(シンボルカラーから「赤シャツ」と呼ばれる)が占拠して既に1ヶ月以上。交差点には竹槍と古タイヤでバリケードが築かれ、それと対峙するように軍人と警官。迷彩服や防弾チョッキ、POLICEと書かれたプラスティックの盾、肩からぶら下げられた銃には実弾、無造作に展開されたようにも見える鉄条網の束が歩道の所々に。
 住んでいるアパートは、直接の衝突の通りにあるわけではないが、昼も夜もなく時折の銃声と爆音が聞こえてくる程度の距離の所。日本大使館からのお知らせ、「部屋の中でも爆弾等による第2次被害を避けるため、窓はカーテンで閉じ、窓際近辺には決して、近寄らないなどの安全対策を」というメッセージが現実味を持っている。異常な状況である、確かに。
 5月13日には非常事態宣言が発令されていた。14日からはデモエリアを中心に封鎖措置が取られ、各所で交通が遮断。兵士の一団が詰め所を作り、土嚢が積まれている。
 17日の月曜日、いよいよ政府が強制排除に向けて動くのか、午後3時以降は封鎖エリアから出ることが禁じられることになった。うちもその対象地域に入っている。日に日に緊張感が高まっていることを肌で感じていたので、身の安全のために一時的に住まいを離れることにした。
 封鎖エリアの東の端は、発表ではウィッタユ通りだったが、実際にはもう少し東、ソイ・ルワムルディを越えたスクンビット・ソイ1の向かい側辺りから。しかしこの先、アソーク辺りまでは波及しないだろうと、スクンビット・ソイ16にあるサービスアパートへ。
 初日の夕食はスクンビット33の馴染みの居酒屋、その足で豚のスープ屋台で締めの一杯。二日目はスクンビット・ソイ19で評判だけは聞いていた、やはり居酒屋へ。普段とは異なる状況への精神の高ぶりか、逆にこれくらいの息抜きをしておかないと気持ちが保たないからか、とにかく何か美味しい物を食べようという発想からだった。
 2泊した後の19日午前8時、強制排除開始。装甲車とそれに連なる軍隊が、サラデーン交差点のバリケードを突破。激しい銃撃戦が展開され、市街戦へ発展。午後1時半過ぎ、白黒がついた。集会解散が宣言され、赤シャツ幹部の一部は投降を始めた。
 だが、事態は収束とは逆の方向に向かうことになった。暴徒化した勢力は拡散し、都内各所に火を放つ。地下鉄クロントゥーイ駅、首都圏電力公社、タイ証券取引所、セントラルワールドプラザ、サイアムスクエア、センターワン、バンコク銀行の支店等々。30個所以上で火の手が上がった。しかも商店やショッピングセンターの中には、商品の略奪の後に火がつけられた個所もある。
 この日、都心から少し離れたところで仕事をしていたのだが、帰宅途上、真っ青な南国の空に向かって何本もの黒煙が伸びているのがくっきりと見てとれた。何キロも離れた所からなのに、とても具体的に、立ち並ぶ高層ビル群よりも存在感を持っていた。これは何かの映画なのだろうかと思った。
 だが、まぎれもなく目の前にある現実だった。僕らが避難していたすぐ近くの、アソーク交差点やシェラトン・グランデ・スクンビットの目の前でも古タイヤが燃やされ黒煙が上がっているとの情報。さらに妻の話だと、停電も続いているとのこと。まずいかな、と思う。もう少し離れた方がよいかもしれない。だが既に夕方に近く、動く先をじっくり選んでいるわけにもいかない(仮住まいとは言え、部屋の居住性とかデザインとか、近くの飲食店とか気にかけておきたいことはあるのだが)。
 妻が言う。「ヌープックが『うちが経営してるホテルで部屋を用意するからいつでも来てや』って言ってくれてんねんけど」。
 妻の高校の同級生の親切な申し出に従い、チャオプラヤ川にほど近い、バーンラック区にあるシャングリ・ラ・ホテル……の隣へ。チェックインして荷を解いたらすぐに外に出た。早めに夕食を済ませてホテルに戻っておきたかった。事態は深刻化を続け、今日の午後8時からの外出禁止令が発令されていた。
 チャルーンクルン通り、古めかしい成人映画館へ至る小道の入り口の、古き良きお粥屋台にて、ピータンと豚挽き肉団子の入った一杯で簡単に済ませる。夜はすることもないので、ホテルの付属の小さなバーでビールばかり飲んでいた。
 このホテル、部屋でのインターネット使用が不調で、いちいちロビーまで下りないと無線LANにつながらないという問題があった。情報収集に差し支えがあるので、一泊だけ世話になった後で、再度避難先を変えることにした。
 いくらなんでも、アソークを越え、プロンポンを越え、トンロー、エカマイを越えてここまで来ることはなかろうと、プラカノンにあるサービスアパート。
 国内外を問わずしょっちゅう旅行に行く夫婦なので、枕が変わることや、最適な荷造りを短時間で行うこと、移動を繰り返すことは苦にならない。だけど今回ばかりは、帰宅がいつになるのかも明確でなく、さらには唯一の楽しみとしていた外食も夜間外出禁止令のためにかなり制限されていた。普段の家より狭い空間に詰めているので、我々の間の空気感も時として重苦しいものが漂うことがあった。僕にとっても愛着のある街だし、妻にしてみれば生まれ育った土地がこのような形で蹂躙されていることへの思いもある。
 まだ鎮火していな個所も残るが、21日になると情勢は事後処理の様相を呈してきた。地下鉄やBTS、運河ボートなどの公共交通機関の運行再開発表、被害額の算定、復旧までの期間の試算。さらには死傷者数の集計も進んでいる。
 この日、僕の帰りが遅くなった。外出禁止時間に引っかかる恐れがあったので、買い込んであったカップラーメンとカップ焼きそばで夕食を済ませた。
 「昼も家で一人でカップラーメンやった。明日はまともな物が食べたい……」と妻がつぶやく。
 22日、土曜。そろそろ家に戻ってもよいだろうと思えるが、外出禁止令は明日の午前5時まで延長されているので、念のためそれに合わせて動くことにする。
 昼前、ベッドから離れずぐずる妻に「チャトゥチャックに服でも見に行こか」と引っ張り出し、ウィークエンドマーケットをそぞろ歩く。その夜、知り合いから「日本で日本酒買ってきたんで」と招待されていたので、美味しいお手製の夕食と共にご馳走になり、大いに人心地をつくことができた。だけど、やはり、夜間外出禁止令に引っかかる前にお宅を辞する。普段とは違う、人通りの少ないスクンビット通りをタクシーでプラカノンまで。
 23日、日曜。チェックアウト。少し贅沢めに中華料理屋で昼食を取り、スーパーで買い物をしてから帰宅。
 幸い、我々夫婦にも、住んでいるアパートにも直接的な被害は無し。居間のブラインドを開けると、窓の向こうは明るくよい天気。銃声や爆音は聞こえてこない。当たり前の光景がこの上なく気持ちよい。
 スーツケースを開き、持ち歩いていた物を家の中のあるべき場所に戻し、洗濯機を回す。そしてコーヒー豆を挽く。実に1週間ぶりだ。
 僕は妻の方を向いて、こういう場合にふさわしい日本語のフレーズがあるのだと伝える。
 「我が家が一番、って言うんや」
 「ワガヤ?」「私の家ってこと」


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