よき友人

 人生におけるよい友というのは、そう頻繁に出会えるものではない。困ったときの友こそ真の友と言う。飲み会で勘定の際に足りない分を快く貸してくれる人。失恋したときの酒と愚痴に付き合ってくれて、最後に一片の助言を置いていくヤツ。
 数年前、高級コンドミニアムや洒落たレストランが建ち並ぶランスワン通りに立つ、とあるサービスアパートの最上階の一室に一ヶ月ばかり居候していたことがある。好意から住処を与えてくれたその部屋の主もまた、真の友と呼ぶにふさわしい。
 タイは雨期の後半。日本も、特別に暑かった夏が過ぎ去ったばかりのある日、当時の家主であったところの彼から、携帯電話にメッセージが届いた。それはまたとても素敵な申し出だった。
 曰く、知り合いからマツタケを少し分けてもらったので、ついては料理をしてくれはしまいか。
 土曜日の夜、我が家へやって来た彼から渡された袋を開けると、土がついたままの10cmくらいのものがごろごろと10本以上。感動に値する贅沢である。しかしながら、マツタケに対して「キノコの一種である」というほどの茫漠とした理解でいる、タイ人であるところの彼の奥方は「こんな少なかったら、わざわざ人様のところへ持っていくのが恥ずかしい」と思っていたそうだ。価値観の相違。
 泥を拭い取り、もったいない気もしつつ石突を切り落とす。手で縦に裂いて、新米のコシヒカリを使ってマツタケご飯。昆布と水を入れた鍋をゆっくりと火にかける横で、鰹節を削りだしを取る。シンプルにエビと合わせてお吸い物。本当はあぶらの乗った上品な白身魚を使いたいところだが、残念ながらかなりの確率で生臭味が強いものに出会うことになるので、無難にエビにしてみた。ワイルドに香りを楽しむホイル焼きは、醤油を振り、ライムをきゅっとしぼって。
 マツタケを食べるというのは何年ぶりのことだっただろうか。
 海外に暮らすなかで、渇望する日本の食べ物というのが確かにある。まず、何よりもお刺身だ。ぷりっとしていて、甘みが口いっぱいに広がる新鮮な魚介類。特に鯛や平目や真冬の鰤を思い描き、口の中にむなしく唾がわくことが、ままある。また、ミョウガの香りというのもなかなかである。みじんに切って味噌汁に浮かべる、浅めに糠に漬ける。あるいは、きめ細かな泡にぴっしと覆われた、日本の生ビールも、想像するだけで喉がごくりと鳴る。
 しかし、そのような食べ物がいくつかある中で、マツタケへの思いは、さほど大きなものではなかった。もちろん嫌いではないのだが、なければないで、あまりかまわない。思いついたら夜中でもぱっちり目が覚めて頭をかきむしる、ということはない。日本にいても、そもそもあまり縁がなかったからだろう。
 だがしかし、こうして久しぶりに口にしてみると、やはり美味いものは美味いと、今さらながらに感動的な体験だった。調理中に部屋に漂う香りからしてうっとりするもので、炊飯器から噴き上がる湯気をメンバー全員で嗅ぎに行ったほどだ。
 マツタケをくれた彼は、やはりよき友人である。感謝。
 よき友人と出会えることは、確かに希なことであるとは思う。ただ、この彼については、住居やマツタケに留まらず、その「良き」性を存分に与えてもらっている。もう5年以上前のことになるが、彼が一人の女性を紹介してくれた。その当時には想像すらしなかったのだが、今となっては僕の妻である人物だ。
 いや、待て。妻となる女性を紹介してくれたことも、本当にその条件に含めておいてよいのだろうか。何となくぼんやりした感覚に過ぎないのかもしれないが、稚拙な即断は避けるべきではないだろうかという気がする。とりあえずこの先20年くらいは、保留事項としておこう。


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