一ヶ月

 バンコクからデリーに移ってきて1ヶ月が経った。地元の客でごった返す食堂で日常的に昼食を取っても腹を下すこともない。美味しい店や良いバーの探索も徐々に始めている。家探しも、バンコクよりは時間も手間もかかりつつ(この間、妻も2回バンコクから飛んで来た)、60軒ほど足を運んで、ようやくなんとか満足できる一軒が見つかり、家具を選び、仮の宿からの引っ越しを算段というあたりだった。
 この間、文字通り土日も飛び回っていて、宿から一歩も出ずにしっかりと休息したなというのは一日だけであった。時折「走りすぎている、少し落ち着け」と自身に言い聞かせることもあったが、新しい環境への興奮や、色々の義務感などもあり、概ね、身も心も飛び回っていた。
 そのつけが出たのかもしれない。バンコクからTG315便で飛んで来た6月10日のちょうど一ヶ月後の夜は、病床にあった。
 前日から徴候はあったが、日曜の昼前には、高熱(自分で計ったピーク時は39.2度だった)、脈拍に合わせて割れんばかりの頭痛、喉の腫れ、絶え間ない腰の痛み、ふくらはぎのやるせないような鈍痛に襲われ、七転八倒していた。ただし、症状としては、何度か経験したことがあるものに近い。何かしらの細菌による感染症ではないかと思われた。
 これがバンコクなら、すぐにタクシーを拾って病院へ向かうところだが、オート・リクシャーとの価格交渉、また排ガスと騒音にまみれた道路を行くことを思うだけで、頭痛がいや増した。
 しかし待っていてもしょうがないので、午後の一番暑い時間だが、意を決し、とにかく部屋を出て表通り。オートリクシャーを捕まえ、病院の診察券(来てすぐに、B型肝炎予防接種の第二回目を受けていた)を見せ「ここへ行ってくれ」と。
 「150ルピーだ」「メーターで行かないのか」「150だ」「では、不要だ」「120でどうだ」。力なく手を振って追い返す。この期に及んで、100円するかどうかの金額の多寡は問題ではなく、そういう、ふっかけ過ぎるやり方が納得いかないからだ。つらい体調よりも意地が勝った。
 15分ばかり道端の木陰で待ち、乗客の乗っているリクシャーを10台ばかりやり過ごした末、ようやく捕まえた一台がメーターでオーケーだった。20分くらい走って62ルピーだった。
 病院の入り口で金属探知機とボディチェックを通過し、すぐの左脇にあるインフォメーションカウンターへ半ば倒れかかるように症状を伝える。「6番の扉を入ってください」と言われるが、割れんばかりの頭痛と全身の重たさに、もはや一歩も動きたくない状況だった。
 「車椅子、頼みます」と懇願する。
 願いはかなえられ、ぐったりした身体は、救急のコーナーへと運ばれていく。いったい、誰が医者で誰が看護師で誰が事務員で誰が患者で誰が付き添いなのかさっぱり分からず、しかもデリーの町中と同じ程度に、日本であれば何かの祭りだろうかと思うほどに、ごった返している。どこで何をどうしたらよいのかがさっぱり見えない。
 とは言うものの、宿のベッドで一人のたうち回っていたことを思えば、ここまで来ただけで大きな進歩だ。ここは病院であり僕は病人なのだから、根本のところで舞台と役者が合っていれば、後はそれなりに進行するだろう。それに、これ以上自分から何かができるほどの余力も残っていない。
 期待通り、車椅子を押してきた係員がしばらくは付き添ってくれたおかげで、血液検査用の採血までは比較的スムーズに行われた。その結果が出るまで3、4時間とのこと。
 しかしずっと車椅子に座っているのも、どうにももたない。「ベッドは空いていませんか」と近くの人に聞くが、「ない」との即答。ここで、はいそうですかで終わっては、この国ではやっていけないというのは、この一ヶ月で学んだことの一つだ。人を変え、何度も尋ねる。その度に、この世の終わりのようなつらい表情で主張する(実際、しんどいのだ)。すると、どこからかストレッチャーが一台出てきて横になれた。その内に点滴も始まる。
 医者だか看護師だが入れ替わり立ち替わりやってきて、症状について何度も何度も同じことを聞いていく。カルテで情報は共有されていないのか。その合間に「どこから来た」「トーキョーか」「デリーに来てどれくらいだ」というおしゃべりをしていくのが一人いた。勘弁してくれ。相手の状況を見て対応を判断するという能力が欠如している。
 最終的な結果、「数日間、入院してください」とのこと。問うてみると、やはり急性の感染症とのこと。血圧も体温も血液検査もX線の結果も、あるいはそもそもの診断内容すらも、こちらが聞かないと、特に何も教えてはくれないのだ。
 その病状から、一晩くらいの滞在は覚悟しており、歯ブラシだけは持ってきていたのだが、数日となると心許ない。幸いにして、よき友人がいて、電話で事情を説明すると、宿の部屋から着替えなどの必要なものを快く持ってきてくれた。
 午後7時を回ったころ、再び車椅子に乗り、ようやくと病室へ運ばれる。6人部屋。
 「個室をリクエストしていたんですが」と言うも「空きがありませんで」
 「とりあえずここに入りますが、とにかくもう一度確認してください」
 部屋の入り口頭上に設置された小さなテレビから、マサラムービーが大音量で流れている。にゃわわんにゃわわんと勇壮に轟くインドダンスミュージックが頭痛を加速させる。たまらず、スイッチを切ってもらうよう看護師に頼む。
 ベッドを仕切る右側のカーテンが開いたので、横になったまま枕の上の首だけをそちらに向けると、隣の患者が「ジャパニーズ?」と。ほっといてくれ。ジャパニーズかどうかよりも、今の僕は病人である。
 抗生物質を身体に入れ、一晩寝たことで、まず熱と下半身の痛みは引いたが、完治はまだ先だった。
 病床をとりまく騒音は、途切れることなくひどい。患者と付き添いの人との絶え間ない大きな話し声、テレビの音声、あちこちで大音量で鳴る携帯の着信メロディ。これらをシャットアウトする意味もあり、耳にはイヤフォンをつっこんで、iPodから気に入りの落語を小さな音量で流しながら、日中もぼんやりと寝たり起きたりを繰り返す。
 幸いにして食欲はあまり衰えておらず、消化器系はまったく正常なので、病院のインド食も少しずつではあるが普通に食べられる。美味い物が好きだし、できればそういうものばかりを口にしていたいが、いざとなれば大概のものが食べられるというのは、自身が生き延びていくことでの強みではないかと思っている。
 朝一番に処方される錠剤は「after tea」に服用するように指示があった。理解ができず、2度聞き返したら「after morning tea」と言われ、ようやくteaという音が「お茶」を意味しているのだと認識。実際に、朝食の前にチャイが供された。いやはやしかし、teaという簡単な単語であっても、自分の持ち合わせに無い文脈の中に置かれると、咄嗟には理解ができないものだ。「食前・食後、食間、就寝前」というあたりは知っているが、「お茶」が服薬のタイミングになるなんて新たな知見だ。
 大学時代のサークルの後輩が、数ヶ月先んじてデリーに家族で住んでいる。その奥方は医師である。ありがたくも、手作りのお弁当を持って見舞いに来ていただいた際に、抗生物質の投与を受けていることを説明し、口を開けて見せたり、喉辺りを触診していただいた結果、この病気は溶連菌(溶血性連鎖球菌)性咽頭炎だろうと教えてもらった。飛沫感染する細菌で、別にインドに限った病気でなく、抵抗力が落ちているとかかり易いとのこと。
 「身体が、無理はできないって教えてくれているようなものです」とも。やはり少し生活のペースは考えないといけない。もはや20代でないどころか、30代の後半に差し掛かっていることを自覚せねば。したかないけど。

 

P.S. 1
 情報共有のなさは笑ってしまうほどで、三日目の夕方、新たな一人、看護師だかインターンだか医者だか分からないが「どうですか?」とやって来た。
 「熱は引きましたが、喉の痛みはまだ残っています」
 「なるほど。では、そもそも、熱と喉の痛みの症状があったのですね」、ときたものだ。
 コミュニケーションが「藪の中」のように感じられることが、ままある。

P.S. 2
 日本やバンコクの病院に慣れた僕からすると、患者への説明が極端に不足しているように見える。検査数値を知ったからと言って自分でどうこうできるわけでもないが、その意味の説明によって自身が納得することで、それなりにほっとするものがあるのだが。
 検温すら、その結果を患者に伝えるような流れになっていない。一度、どんなもんだろうと思って看護師が脇の下から抜き取る前に、体温計のデジタル数値を覗いてみたら、95.5とあった。カ氏表示なので、見ても分からなかった。

P.S. 3
 注射のために入院中ずっと右手甲に突き刺さっていた針とチューブには、普段は血液の逆流を防ぐために途中に栓をする小さな部品がついている。何度か、その栓を外さないまま注射を試みられた。どれだけピストン部を押しても液体が注入されるわけがない。基本的な動作がマニュアルとして徹底されていないのか。
 さらには、一度、注射中に、そのジョイント部分が外れ、薬液が見事に辺りに飛び散ることがあった。この状況はもはや、おもしろ過ぎて、濡れたズボンを履いた姿のまま、ベッドの上から静かに微笑むしか術がなかった。
 担当者は動じるでもなく、「壊れてるのね。交換します」と言って、一度栓をしたまま、そして結局何の対処もなされなかった。
 結果的にそのままの器具で、別の人が半日後に注射した際には、何ら問題はなかった。

P.S. 4
 食事だが、最初の時点でベジかノン・ベジか、そしてタマネギは食べるかという問いがなされていた。前者は菜食の人も多いインドなのでうなずけるが、後者はどういう理由によるのだろう。肉類はマトンはなく全て鶏だったが、当地では皮を食べないらしく、全てから取り除かれていた。鶏皮好きとしては残念である。


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