インディゴでゴー

 「スターバックスでコーヒーを飲むこと」と、「空港のスターバックスでコーヒーを飲む」ことの間に格段の差があるように、空を飛ぶというちょっとした非日常においては、その入り口からして、何事につけ少なからぬ胸の高鳴りを覚えるものだ。
 飛行機での移動にまつわる高揚感は、程度の差はあれ、どこででも存在するのだと思っていた。
 インド、である。暮らし始めて半年弱。平均すると、2週に1度くらいは、どこかしらの街からどこかしらの街へ飛んでいる。その都度、イライラ、ムカムカ、あるいはげんなりとさせられる。空の旅が楽しくないんだ、と気付いたとき、ああ、世界はまだまだ広いのだと改めて知ることになった。落胆と共に。
 チェックインや保安検査の順番待ちに横から入り込むのは、こちらが呆気に取られるくらいに当然のごとく。手荷物をX線検査に通すときの係員には、丁寧さのかけらもない(日本ほど馬鹿丁寧にしなくてもよいとは思うが)。しかも機械を通った鞄は埃で汚れいる。テロ対策のため仕方がないのではあるが、金属探知機を通り抜けた後、全身をまさぐられるのは、決して気分のよいものではない。機内での乗客の携帯電話の使用は傍若無人。扉が閉まっても使い続けているのも、当たり前。
 パイロットの腕と気遣いの程度にもよるのだろうが、着陸のショックが強く、思わず悪態をつきたくなることも少なくはない。そして、ゲートに到着するまでもなく、すぐに何人かが立ち上がっては、乗務員に「着席ください!」と注意されている。
 ムンバイ発の最終便が3時間遅れで、帰宅したのが深夜3時近くになったという経験を筆頭に、遅延を食らう率は相当である。土日でのジャイプール旅行を計画し、事前にオンラインで予約・発券完了。後日、「9W7127便はキャンセルになりました」というメール連絡。そこには振り替え便や返金などの対応の案内は一切無し。コールセンターへ電話し、30分以上待たされたて、こちらから要求して代わりの便の予約を入れ直さないといけなかった。
 だけど、それでも飛行機に乗る。日本へ行くときももちろん、あるいは少し息抜きに、近隣のドバイやバンコクに出るにも。それにインドは広いから、大阪から東京に行くのに「今回は新幹線にしておこうか」と考えるのに同じように、「今日のムンバイ行きは鉄道で」、というわけにもいかない。デリーから飛行機なら2時間だが、列車では16時間はかかる。
 だけど、いったい、どの航空会社を使えばいいのだ?
 そう言えばインドで暮らすことが決まったときも、まっさきに思いがいたったのが、食事や買い物や治安や衛生のことではなく、この課題だった。ただしそのときはまだ、「どの航空会社を使おうか?」という、楽しみを予感しながらの積極的な方向性ではあった。
 老舗のエア・インディアをはじめ、同じく国有で、国内と近距離国際線を受け持っていたインディアン航空(2007年にエア・インディアと合併したものの、機体デザインとしてはまだ見かける)。民間だとジェット・エアウェイズ。2000年代半ばより勃興してきた格安航空会社であるインディゴ、スパイス・ジェット、ゴー・エア。ビール会社が運営している、瓶や缶と同じカワセミが尾翼に描かれているキングフィッシャー・エア。
 周囲の人に尋ねると「インディゴかジェット」を薦められる。「逆に、もっとも避けるべきはどの会社か」と問うと、インド人からは苦笑いと共に「エア・インディア」との答えが返ってくる。言わずと知れたナショナル・フラッグ・キャリアである。
 ジェットは全日空と提携しているので、ANAマイレージクラブにマイルが貯まるという。ただ何度か実際に利用してみて分かったのは、積算対象になるのは、個人的には利用機会のほとんどない、ある程度高額な券ばかり。
 エア・インディアだけは除いて、その他も一通り試してみた。結局、インディゴが答えになった。理由の第一は、時間に正確なこと。インドで一番のオンタイム率。そして、いつ乗っても、A320の機体は新しく、外観も機内もよく整備されている。搭乗に向けて、機体まで走るバスもきれい。
 「時間に正確」とか「清潔」だとかということが、航空会社として十分なセールスポイントになり得るのである。
 さらには、何度も乗るにつれ、次第にこの会社に好意を持てるようになってきた。
 インディゴにはスタイルがあって、そのスタイルを全員で保っていこうという気概が、ちゃんと感じられるのだ。これが、後からじわじわっと効いてくる。
 「紳士淑女、ならびに少年少女の皆さん、ようこそご搭乗くださいました」で始まる機内アナウンスも、ピリッとしている。客室乗務員(女性しか見かけたことがない)の制服は濃いブルーのワンピースに細いベルト。ショートヘアーにちょこんと乗せた同系色の小さめの帽子。暗めのアイラインで目元をくっきり目立たせるきりりとした独特のメイク。チーフパーサーは「リーディング・レディー」、他の人たちも「ミス・インディゴ」とか色々な缶バッジをつけている。
 機内に上がる階段には「できるものならつかまえてみて」とか「ほら、熱い階段が」とか、ちょっとしたフレーズがコーポレートカラーのブルーに白字で書かれている。機内の衛生袋には、同じ書体で大きく「早くよくなりますように」との文字。
 いずれも、言ってしまうと、五月蠅いしおせっかいだ。そもそも、そんなこと言わなくったっていいじゃないかとも思う。けれど、辛うじてなんとかまだ「遊び心」の側に留まっているように感じられる。
 こうなってくると、会社のロゴまでもがよく思え、何かしらとファンになってくる。
 数年は腰を据えてここで暮らしていく以上は、何かしらのポジティブな面を、意識して探していくべきなのだ。だから、先日なぞ、ハイデラバードからの帰路、思わず妻へのみやげに機内販売のインディゴTシャツを買おうか、とさえ思ったのだ。


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