チムチュム

 観音菩薩の父親は、残虐な性格がたたって牛に生まれ変わった。だから、観音自身は牛肉を口にしない。
 タイの華人の間では、こんな背景を持った観音信仰が強いため、牛肉を避ける人が少なからずいる。特にバンコクには華人系が多いため、結果的に肉としての牛の位置は鶏や豚よりも一段低い。
 一方で、ラオスと接する東北地方には、タイ族とも中国系とも異なるラーオ族が中心に暮らす。言語や文化の面でも独特なところがあり、牛は立派な食材の一つ。
 バンコクでおいしい牛肉を食べたくなったら、東北料理の店に足を運ぶ。
 ところで、タイ料理で鍋というと、いわゆる「タイスキ」が有名である。MKやコカといった大手のチェーンは、日本にも支店を出しているほどだ。エアコンの効いた店内で電気式の鍋を囲むのも、確かに楽しい。
 だが、多くの点でタイスキとは対極にある東北風の牛鍋、「チムチュム」の美味は、それより上をいく。発音もかわいいその名の意味は、「タレにつける(チム)」「スープの中にさっと浸す(チュム)」である。
 屋台か、せいぜい屋根が覆った程度の店のテーブルに、炭火のコンロに乗った素焼きの土鍋が登場する。
 だし汁は、ナンプラー、ナンキョウ、レモングラス、コブミカンの葉、トウガラシ粉、コリアンダーの根、シイタケなどで味付けされている。複雑な味と香りながら、すっきりした後味で、そのままスープとして飲んでも、目が覚めるほどにおいしい。
 肉だけでなく、レバー、ハツ、ミノなどの内臓も加わる。皿には生卵が添えられてくるので、全体によくからめてから鍋に投入する。タイの人は、「お肉が柔らかくなるから」と説明する。
 白菜、空芯菜、芹菜といった野菜類も豊富にある。スウィートバジルは生でかじっても、さっとだしにくぐらせても、生き生きとした香りに口がさっぱりとする。
 だしをたっぷり吸った春雨の味と食感も捨てがたい。
 つけダレには、生のトウガラシ、ニンニク、ナンプラー、砂糖、ライム、タマリンド酢などが混ぜ合わされている。
 食卓で気をつける点を一つだけ。「まずは内臓から」「春雨、早く引き上げて」との助言も、度が過ぎると「チャオキーチャオカーン」呼ばわりされかねない。
 この語には「世話好きの人」という良い意味もありつつ、その真意は「鍋奉行」と同じだから。

神戸新聞/2005年12月16日掲載


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