水都

 ヴェネチア、蘇州、それにバンコク。共通点はなんでしょう?
 いずれも「水の都」として知られている街である。でも蘇州の土産物屋にあるような、情景を美しく描写した絵はバンコクでは見たことがない。それに、誰も舟上でカンツォーネなんて歌わない。そういうのが似合わないほどに、水は汚くそして辺りには臭気すら漂っているのだ。
 だけど、運河を行く舟は日常のレベルでは非常に便利な乗り物である。
 地上を行く交通手段の選択肢は豊富にある。タクシー、各種バス(エアコンの有無などで値段が変わる)、トゥクトゥク(オート三輪のタクシー)、主に路地を行くモトサイ(バイクの後ろに人を乗せて目的地まで走る)、同じく路地を行くシーロー(小型トラックの荷台を改造して客席にしたタクシーの一種)、これらの最大の欠点は渋滞に弱いという点だ。
 そしてバンコクでは、様々な理由によって実に頻繁に渋滞が発生している。曰く、雨降りだから。曰く、王族が通るから通行止め。曰く、給料日だから。曰く、交通警官がトイレに行ってるから信号が変わらない。エトセトラエトセトラ。
 だが、そもそも運河には渋滞が存在しない。朝早くから日暮れ時まで、10分間隔程度でスムーズに運航されている。料金は距離に応じて決まるが、バス並みの値段だ。市内を隈無くというほどに運河が張り巡らされているわけではないので、行き先が限られてはいるものの。
 舟着き場で待っていると、エンジン音を轟かせ、液化した油粘土のような泥水を掻き分けて細長い舟がやって来る。ヘルメットをかぶった車掌(?)が、手際よくロープを杭にからめて舟を停める。客の乗り降りが終わるかどうかというタイミングで再び発進。乗客は車掌に行き先を告げて、料金を払い切符を受け取る。目的地に近づくと、舟の縁に立ち下船準備。うかうかしていると乗り過ごしかねないほどの勢いだ。
 乗降の際に、サンダルが引っかかって水面に落ちてしまい、困っている人を見かけたことがある。大学の先生も一度カバンを落としてすごく困ったという話しをしていた。だが、この程度はよくある話し。実際のところ、ごく希にではあるが、自身がポチャンしてしまう気の毒な人もいるのだとか。
 航行中、岸辺の景色を楽しみにしていると、あっけなく裏切られることになる。外側の客席にはヒモがぶら下がっている。その席に着いた人には、ヒモを適宜引っ張るという仕事が与えられる。対向舟がやって来た、橋桁の横を通る、そんな時にグイとヒモを引くと、ビニールシートが客席の両側を覆う仕掛けになっている。こうすることによって、水を被る被害を防ぐのだ。そうでもしておかないと、どぶ川と呼んでしまっても差し支えのない運河の水が跳ね、あなたを襲う。
 だが、速くて安い、それに路線も単純という舟の利便性は、流れる水が決して美しいものではないというデメリットを差し引いても、なお余りある。
 さらに、これから雨季の終わりにかけては、運河以外でも舟のお世話になる可能性がある。10月の始め現在、タイの北中部を大洪水が襲っている。中には道路標識の高さまで水が達した町もある。車が使えないとなると、舟が唯一の移動手段になる。
 年々改善されてはいるものの、バンコクですら水は溢れる。「家に水が入ってきたら、まずブレーカーを落としましょう。それと、蛇には注意しましょう」というのは大学の先生の弁。実際、ここ最近、世界の終わりのような勢いで雨が降る。それに、広大な土地に降り注いだ大量の雨水は、タイ湾へ向かって南下を続けている。その途中でバンコクも通過する。チャオプラヤ川や運河から水が溢れ出す危険性はある。
 もしかしたら「水浸しの都、バンコク」になってしまうのだろうか。ベランダから見下ろす運河の水面の上昇具合が気になる日々である。

#この文章を送信した二日後、結局こういういことになった。


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