龍の眠る

 拝啓

 京都は秋の気配も深まる頃かと思います。お元気でしょうか。僕は相変わらずバンコクで半袖姿で暮らしています。少々の洪水にも見舞われたりしながらも、概ね楽しく勉強と生活を為しています。
 初級から中級クラスへの合間の休暇を利用して、ハノイへ。わずか1時間半のフライト。タイとヴェトナムの間には時差さえありません。ハノイに一泊し、今回の目的地であるハロン湾へやって来ました。
 ヴェトナム北部、トンキン湾の一角にある静かな海です。ここからニョキニョキとそびえる石灰岩が独特の景観を生み出しています。94年と00年の二度にわたって、ユネスコの世界遺産にも登録されています。自然の美しさのみならず、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な例であるとの評価もその理由です。
 観光のメインディッシュはクルージング。まるで湖水のごとく穏やかな海面を、船は一定の速度でゆっくりと進んで行きます。船が水面を掻き分ける音は微かなものです。
 あちらこちらから岩の山がそびえています。その数は1600を超えるそうです。海の色は、そこにへばりつくように生息する木々の色を映してか、ねっとりとした緑色をしています。ある種の釉薬が溶かし込まれたような色合いです。雲の向こう側にある太陽からの光は、わずかの水深にしか到達していないように見えます。
 ハロンを文字通り訳すと「舞い降りる龍」という意味になります。そこには、龍にまつわる伝説があります。

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 古の時代、外国からの侵略に苦しむ人々のもとへ、翡翠の神が母龍とその子龍たちを遣わした。空から降り立った龍の一群は、無数の真珠を海に撒き散らした。瞬間、その真珠から数え切れないほどの翡翠の島が生まれ、それらが連なって城塞となり、敵を粉砕した。
 敵が退散した後も、母龍と子龍たちは天へ戻ることをせず戦場近くに留まった。
 この母龍の降り立った場所が「ハロン」であり、子龍たちが舞い降りた地が「バイトゥロン」である。

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 今でももしかしたら、この船底のずっと下には、龍が眠り続けているのかもしれません。
 全天は均一な厚さの雲に覆われています。雨の予感はありません。中立的な雲が、世界の海ではない半分を満たしています。暑くもなく、寒くもなく。風すら吹いていません。あまりに静かで穏やかなこの時間の流れは、白日夢を見ているかのごとく。深い龍の眠りに、森羅万象が誘い込まれてしまったかのようにさえ感じられます。
 僕は舳先に腰掛け、ただただ目の前の希有な光景を眺めています。旅を続ける理由は、こういう時間の過ごし方や、物の感じ方にあるのかもしれません。
 あなたとの日々の中で、共に旅をしていたら、もしかしたらまた違った人生があったのかもしれません。
 先日、大学時代の友人連中の一人から、来年早々にもあなたが新しいライフステージを始められると聞きました。ささやかではありますが、南国からお祈りしています。どうぞ、お幸せに。

 敬具

 ……2002年10月某日 ヴェトナム、ハロン湾上にて

・参考リンク
 Ha Long Bay wolrd heritage site home page


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