遠きにありて

 バンコクは遠くない。関空からだとおよそ6時間のフライト。時差はわずか2時間なので、体感するほどでもない。時期や航空会社にもよるが、安ければ4、5万円で航空券が手に入る。秋口に来た友人は、シンガポール航空のキャンペーンで、驚くなかれ、19,800円でやってきた。もちろん往復の価格である。下手な国内旅行をするよりよっぽど安い。
 そんなこともあって、「どれ、一つバンコクへ行こうか」という友人、知人が少なくない。中には、初めての海外旅行先をバンコクにした同級生や、新婚旅行の途中で立ち寄ったカップルも。先月は、会社の冬休みを取りやすいということもあって、4組6名様のご来訪。そして今月も二人やって来た。
 事前のメールのやり取りの中で「何か日本から持って行くものある?」と、親切にも言ってくれる。
 想像してみて下さい。もしバンコクに暮らしていたなら、何を持ってきてもらうとうれしいでしょうか? 古典的に梅干しや日本茶、それとも……?
 バンコクには、在留届を出しているだけで2万人近い邦人がいる。これはもう一つの街である。なので、必要な物には何だって不自由しないようにできている。
 日本料理屋はいくらでもある。中には「毎日築地から魚を空輸」を謳う店すらあるほどだ。ふいに心をとらえるのが、日本のカレーだったりラーメンだったりするのだが、当然のごとく。日本人がよく行くスーパーには大抵の食材が揃っている。
 デパートなら伊勢丹や東急。日本の本や雑誌が読みたければ、価格は高くなっているものの、紀伊国屋へ。雑誌などは航空便で飛んでくる。毎日のニュースは衛星版の新聞の宅配サービス。カラオケがお好きな方は、ビッグ・エコーなど。それなりの病院だと、日本留学組の医者もいるし、そうでなくても日本語通訳が常駐している。
 お子さんの教育面が不安な方もご安心を。バンコクの日本人学校は世界最大規模。しかも親の学歴がある程度しぼられるので、結果的に学力レベルは日本の平均よりも高いと聞く。日本の受験を狙うにしろ、インターナショナルスクールへ進学するにせよ、塾や家庭教師もいくらでも。
 バンコクでは、その気になれば、日本語だけを使って日本と変わることのない生活も可能なのである。ただ、個人的には、日本とタイの生活様式の割合が2対8くらいで生きているので、上記したことはさほど関係がない。ただ、何かのときにこういった選択肢が用意されているということはありがたい。
 そんなわけで、メールへの返事は「ええよ、気にせんで。基本的に困ってないし」ということになる。
 では、「基本的」の路線を外れるとどうなるか。
 これまでに実際にリクエストした経験のある品々は……「フリスク(数年前はこちらにもあったのだが、今は見かけない。僕は半ば中毒である)」「ユニクロのドライシャツ(発売以来のファン。特に熱帯生活では手放せない)」「シンプルワン(ハードコンタクトレンズの薬剤。これ一本で全てのケアが済むという、この上なく便利な製品なのだが、タイの市場にはまだ入っていない)」「キリンの毬花一番搾り(一時帰国した際に気に入った)」「来訪者の住む土地の地酒」という辺り。
 と、いうわけで、どれも逼迫した欲求から出たものではない。趣味的な、あるいは、あったらいいけど、なくても代替品がいくらでもある、という性質のものばかりである。
 バンコク以外だったらどうなのだろう。以下は、「留学生地球鍋」をつつき合っている各地のメンバーの声である。

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▼グルジアのトビリシに留学していた児島さんの場合

 そもそも2年間の滞在で、やって来た知り合いが一人、とのこと。児島さんのメールによると「グルジアには日本料理店もないし、和食の食材もほとんど手に入りません。ちょっと高級なスーパーマーケットでたまにベトナム製とかロシア製とか書いてある怪しげな『ショーユ』が見つかるのがせいぜいで、味噌やかつおぶしなど夢のまた夢。懐かしい味が恋しくなってくると、(これもかなり怪しげな)中華料理店で麺やら麻婆豆腐やらを注文して口をなぐさめてました(ただし麻婆豆腐を注文しても、三回に二回くらいは、『今日は豆腐が無いからだめ』とにべもなく断られる)」
 そんなわけで、持って来てもらったのは「レトルトのカレーとかカップラーメンとかそんなインスタント食品」
 その他にも、「知り合い以外で、仕事で日本からグルジアに来た人の通訳をすることが幾度かあったのですが、そういった人たちから、もう読んでしまった新聞・週刊誌や文庫本をちょくちょくもらうのはすごくうれしかったですね。インターネットが発達したおかげで日本のニュースは毎日チェックしていましたが、新しい新聞や週刊誌の活字を読むのはまた全然別で、隅から隅まで一字一句舐めるように読みながら幸福感に浸ってました」

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▼カナダのトロントに留学中の黒川さんの場合

 リクエスト率の最も高いものは、AERA。黒川さんによると「トロントでは日本の新聞や雑誌(トロント発行の日系新聞紙を除く)が国際交流基金などで立ち読みでもしない限り、オンタイムで手に入らないので、一番リクエスト率が高いです。重たいものでもないし、来訪者が飛行機の中で読んでもいいし、とっても良心的な(?)リクエストだと思うのですが……」
 「先の小さめな歯ブラシ。ここの歯ブラシはどうも頭の部分が大きくて磨くのに苦労します。骨格の違いでしょうか、歯の裏側まで届かず、どうしても歯がツルツルにはならないんです」
 日用品でいくとさらに「100円ショップで売られている下着ネット」。「アパートは共同ランドリーが地下にあって、そのランドリーで洗濯をするのですが、洗濯機、乾燥機ともに凄いスピードで回っていて、かなり早くダメになってしまうんです。チャックがぼろぼろになったり、穴があいたり。なので、次に誰かが来る時は、持ってきてもらいます」
 また、もみじ饅頭を携えて幼馴染みがやって来たとき、その「もみまん」に感動したのみならず、「彼女の使っていた生理用品がとっても良く、帰る時に全部置いていってもらいました。日本製のナプキンはすごいです。カナダ製でも十分ですが、日本製は(しつこいですが)強力です」というエピソードも。

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▼アメリカのテキサスに留学中の谷口さんの場合

 友人知人の来訪は「一年に一人ぐらい」。「アメリカとは言っても中南西部、おまけに最寄りの空港(日本からの直行便はもちろんなし)から車で飛ばして3時間半という所に住んでいるので、多分、行き帰りだけでトータル2、3日かかる。時差もあるし。『遊びに行きたいんだけど、お前のところまで、どれくらいかかる?』と聞かれて説明すると、大抵絶句されてしまう。無理もないけど」
 しかも、飛行機やアムトラックのトラブルで「まともに私の家までたどり着けないのが、ジンクスのようになっている」というおまけつき。
 そんな土地に暮らす中で、うれしいのはやはり「日本の雑誌(ジャンル問わず何でも)、書籍、それに漫画の単行本」。漫画は時としてオンラインで現地から注文することもあるけれど、「送料が本代と同じぐらいになってしまうのが痛いです」
 そして日本食。「柿の種、春日井の豆菓子シリーズ、板角のゆかり(えびせんべい)。あとはマルシンのハンバーグとイシイのハンバーグ」「ほていの焼き鳥缶詰、すごーくうまかったのを覚えてます。 どんなに現地に同化していても、やっぱり日本のものは懐かしくなりますよ。 第一、ここは内陸で、新鮮な魚介類はまずないし」

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 まったくもって交々である。だけど、やはり何と言っても、友人が異国にいる自分をはるばる訪ねてくれるという喜びに優るものはない。

 少しばかり余談を。「キリンの毬花一番搾り」を持ってきてくれた友人に、「どや、バンコクはなんでもあるやろ。なんか『これはないんちゃう』ってもんあったら言ってみ。まあ、どれもあると思うけど」と自慢げに言ったところ、しばし頭をひねった彼女の答えは「立ち飲み屋」
 完敗である。


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