そしてバンコク

 アトランタオリンピックの男子柔道決勝を明け方近くまで見ていたため、3時間ほどしか寝ていない。
 関西国際空港を定刻で発った大韓航空機の機内では、離陸時の恐怖を思って、さらに眠気も加わってあまり快適なスタートではなかった。しかし、水平飛行に入り、ベルト着用のランプが消えると、ビールを飲みながら、のほほんとこれからの旅に思いを馳せていた。
 唯一惜しむらくは、スチュワーデスがごく普通の格好であったこと。昨年の香港行きのエアインディアではサリーをまとっていたので、今回はチマチョゴリではないかという期待があったのだが。
 あっと言う間に金甫空港に到着。もう一度荷物の検査を受けてから、ロビーを一巡するほどの余裕しかなく、今度はバンコク行きの便に乗り込んだ。
 ここで、さしておいしくはない昼食をとり、あとはビールを飲んだ。食後にまずいコーヒーを飲むくらいなら、ビールを飲んでいた方がはるかに有益である。
 「コーヒー、紅茶どちらになさいますか」とポットを持ちながら注いで歩いているスチュワーデスに「ビールありますか」、と尋ねた。彼女は「少々お待ちいただけますか」とていねいに言い、僕の座席番号をちらっと見た。そのポットが空になり、新しい分を持ってくる時に一緒にビールも渡された。大韓航空色のパッケージのちょっとしたナッツと共に。やはり、冷えたビールというのはどこで飲んでもいいものである。そのままうとうととした。
 ところが、となりに縦3列で陣取ったおじさんのグループがまあ、しゃべるしゃべる。特に僕の真横の人が後ろの席に話しかけるときなどは、自分に話しかけられているような気がして、何度も浅い眠りから引きずり起こされた。
 映画上映のために窓は閉められてはいたものの、あまり眠るには快適な環境ではないために、妙な夢を見た。何かしら小難しい数学の問題を友人相手に分かったようなふりをして解答する、というものだったが、おそらくは帰国が8月の終わりになるために期限がその末日であるレポートの提出は絶望的であり、確信犯的にまったく手付かずで出てきたことへの、かすかに残っていた後ろめたさからきたのかもしれない。
 その、あまり面白くはない夢から目が覚めた時には、背中にびっしょりと汗をかき、のどがカラカラに乾いていた。
 まもなく着陸体制に入るころだったが、スチュワーデスが配っていたジュースの中からトマトジュースを選んで飲んだ。しかし、これがいやにドロっとしていて、あまりのどが潤ったという気はしなかった。
 ドンムアン空港に到着した。イミグレーションでは何も聞かれることもなく、入国スタンプをもらい晴れてタイに入国である。
 ターンテーブルで荷物を取り、背中に負うと、さあこれからだぞという決意がみなぎった。
 ゲートを出るとさっそく黒いスーツをまとった数人の男達が話しかけてくる。
 「宿は決めたのか」「これからどこへ行くのか」「何日くらいバンコクにいるのか」等々。しかし、それらの質問に対しての僕の返答はただ一つ、「何も決めてないんだ」。
 半ば強制的にカウンターでガイドマップだというものをわたされた。手を出すのをためらっていると、そのためらいの原因を見透かしたかのように「大丈夫。これは無料です」と言われた。それならば、ということでその冊子だけいただいて、空港ビルを出た。
 「何も決めてない」というのは、さすがに大げさだが、この時点で決まっていることはほぼ一月後の8月26日の夜10時45分にシンガポールから帰国便に搭乗するということだけ。
 今日はとりあえずのところ、カオサン通りを目指す。
 カオサン通り、わずか数百メートルしかないこの通り。しかし、ここには安宿や旅行代理店がひしめき合って、世界中からバックパッカーが集まってくる。僕も出発前に「バンコクだったらカオサン」という言葉を聞いただけだから、この時点ではそれが実際にはどのようなところなのかはまったく分からなかった。とにかく空港前から59系統のバスがカオサンの近くまで行くというので、少し離れたところにあるバス停まで歩いて行った。
 ほどなく目的のバスが来て乗車する。日本のバスと違って、乗りたいときはそれに向かって手を上げなくてはならない。しかし、いわゆる挙手ではなく、斜め下の方向に手を伸ばすのがこちらのやりかたのようだ。料金を集めに来た車掌に「カオサンに行きたいんだけど」、と言うと即座に「ノー、ノー」と言われ、次のバス停で降りるように促された。
 この時に考えたのは、バス料金として100バーツ札を出したのがまずかったのではないかということ。日本でだって、市バスで1万円札を出したってイヤな顔をされるだけだろう。これはしごく真っ当な理由に思われた。関空で1万円をバーツに替えただけだから、コインなど持っているはずもなかった。
 これは機転が効かなかったと、さっそく空港まで歩いて戻って「バス代に使えるくらい細かくしてほしい」と銀行の窓口で頼んだ。すると「どちらまで行かれるんですか」と聞かれたので、即座に「バンコクまで」と答えた。が、直後にここもバンコクではないかと気付き苦笑い。しかし、窓口の人は市街に行きたいのだという真意を了解してくれたらしく、すぐに小銭と細かいお札を渡してくれた。
 次のバスを待っている時に、目の前で、ほんとに目の前、ガードレールを隔てて1、2メートルほどのところで衝突事故が起こった。客を乗せるために停車していたタクシーに、後ろから来た乗用車がぶつかった。急ブレーキをかけたが間に合わず、キュキューという鋭い音の直後にガシャンという衝撃音。二人の運転手は数分何事かを言い合っていたものの、すぐに2台ともそのまま走り去ってしまった。さすがバンコクである、交通渋滞のひどさはよく耳にするから当然事故も多いのだろう。さらにその処理のすばやいこと。着いた早々これだか、いったいあと何回事故を目撃するのだろうか。少なくとも自分が巻き込まれてはたまったものではないな。こう考えたものの実際に交通事故を目撃したのはこの1度きりだった。
 さて、今度こそと車掌に料金を払うと、カシャカシャと小気見よく小銭の音が鳴る金属性の筒の中から切符をとりだし、切れ込みを入れて渡された。「カオサン?」と聞くと、またしても「ノー」である。空港から少し離れてしまったから、いまさら振り出しに戻るのはつらい、参ったなと思って隣のおじさんに地図で示しながら、「ここの所まで行きたいんだけど」と尋ねると、実はあまり期待していなかったのだがそれなりの英語で答えてくれた。
 「このバスは特別な系統だから途中までしか行かないんだ。フロントガラスのところにかけてある札が赤いと半分までしか行かない。だから、とりあえず終点まで行ってみんなが降りるところで降りて、そこで先へ進むのに乗り換えたらいい」
 親切なアドヴァイスだったが、実はけっこうな発音で、これだけの内容を理解するのにはかなりの時間を費やした。おそらく向こうからすれば、「何でこんな簡単な言葉が分かんないんだ。まったく面倒なことに関わってしまったな」かもしれないが、それにしてもおじさんは「half way」の発音をつなげてしまうものだからどうしても「harvey」としか聞こえなかった。
 まあ、方向としては間違えてはいないから、とりあえずシートに座って風景を眺めやる。そこかしこに屋台が出ていて、派手な看板や寺院。なんとはなしにイメージとしてしか持っていなかった「バンコク」という風景が現実味を帯びてきた。
 それにしてもバスはなかなか進まない。要所要所で警官が誘導しているのだが、どうもそれが余計に渋滞を助長しているのではないかと勘繰りたくなるほど、一度止まってしまうと進めないのである。まあ、これもバンコクの名物だと悠長に構えていた。
 その特別な系統の終点でぞろぞろと客が降りると、すでにそこには数人のバックパッカーが、カオサンに行くつもりだったのにこんな所でどうしたらいいんだ、というような風体でうろうろしていた。僕も、赤い札が出ていない59系統を待っていたが、これがまったくやってこない。たまに59だと思っても、全員そこで降りてしまう。どっちかというと、ここを終点としないほうが特別なんじゃないかと思えてくる。
 しかも、運の悪いバックパッカーは次から次へとやってくる。大体、国籍別に集まってはごにょごにょやっていたのだが、一人の日本人女性が運よくバスルートマップを持っていた。さっそくわいわいとのぞきこんだものの、そこには致命的な欠陥があった。そう、自分の場所が分からないことには地図はただの紙切れなのである。一筋の光明を見い出したものの、その直後に我々は再び暗黒の淵に舞い戻っていた。
 しかしなんとかなるものでタイ語を操れる人がいて、周りに聞いたところ「確約はできないが多分、これに乗ったら行けると思う」とのこと。その言葉を信じて大きな荷物を背負った外国人の集団がぞろぞろと夕方のラッシュのバスに乗り込んだ。地元の人にはさぞかし迷惑だったであろう。
 空港に着いたのは昼過ぎなのに、段々と外は暗くなっていく。果たして、宿は確保できるのだろうかと心細さを覚える。
 しかし、周囲のイルミネーションはさすがのもので、あちこちで、日本だとクリスマスシーズンに街路樹に灯すような黄色い明りが賑やかに光っていた。
 「多分ここだ」ということで、一行はまた、ぞろぞろとバスを降りる。これがまた広い大通りで、やけに明るい。いったいここまで派手にしてどうするんだというくらいだ。しかし、道端にセブンイレブンなんかを発見するとちょっとほっとした。「ここまで来れば24時間、ビールは飲めそうだな」という意味において。
 「ここがカオサンロードだ」ということで、まあ、そこは賑やかなものである。
 しかし、ここまで一緒に歩いてきた人達はどんどん宿に入っていくので、結局気付いた時には運の悪いバックパッカー御一行様は僕一人になっていた。とにかく、宿だけは決めなければということで、その場で目に着いたゲストハウスに入っていく。看板はカオサンに面して出ていたが、宿は少し奥まった所にあった。ものものしい鉄製の扉とそこに英語で書かれた様々な注意書き。それを開いてどこかの家の応接室くらいのレセプションにいるおばちゃんに「部屋ある?」と尋ねた。
 「シングルなら100バーツ。部屋を見せてあげるよ」と案内されたのは、木造で3畳もなさそうな狭い部屋。どうしようかと思ったが、他に比較の対象がないので、とりあえずオーケーした。しかし日本でも見たことがないのに、ここで蚊帳に出会うとは思わなかった。
 さすがに1泊ではディスカウントしてくれなかったが、バンコクには1週間ほどいて、ここで今後の予定を考えようと漠然と思っていたので「今日の分の100バーツは払うけど、もし明日以降も滞在するようならまけてくれる?」と言ってみた。
 「いいわよ。また明日言ってちょうだい」となかなか気さくなおばさんだ。
 今日の目標はこれでカタがついたので、カオサンを挟んで目の前にある24時間オープンというビアガーデンで焼飯とビールを頼む。キーンと冷えたちょっと苦めのシンハビール。とりあえず一息ついて、焼飯を食べる。なんだ、思ったほど辛くないな、と感じたのだが、カオサンの中にあるこの手の店は、ほぼ外国人専用のようなものだから、それなりの味付けでそれなりの値段を取るのである。後で知ったことだが。
 とりあえず、カオサンを端から端まで歩いてみることにする。先ほども述べたが、さして大きな通りでもなく、その長さも京都の三条、四条間よりは少し長いかなというくらいのものである。しかし、その両側にはタイでありながらタイ語はあまり目に付かず、英語の看板を掲げたゲストハウス、それに付属しているレストラン、バー、みやげもの屋、銀行、コンビニ、薬局等々の店が軒を連ねている。さらに、歩道には焼き鳥や春巻、フルーツの切り売り、Tシャツ、アクセサリー、偽の国際学生証やジャーナリストの身分証などを売る屋台が文字どおりひしめきあっている。車道には客待ちのタクシーや、トゥクトゥク(小型の3輪タクシー)がエンジンを空ぶかししながら通りがかる人ごとに英語で声をかけている。そこは、タイにありながらタイではなく、言わば旅行者のためにある街だった。
 全く今まで未知であった街の姿がそこにはあり、圧倒的な情報が五感を通じて体に流入してくる。日本を旅行していてこのような感情に出くわしたことはない。しかしそれは、今僕は外国にいるんだという事実を認識させてはくれたが、いくら頭の中で東南アジアの地図を広げてバンコクの位置を思い浮かべてみても、自分がそこにいるのだとの実感はまだつかめなかった。
 元々が日本に固執していたわけではないから、日本と比較して差異を見い出すことで実感することは難しく、ただこれがバンコクなんだ、という漠然とした思いを抱いただけであった。
 明日から歩き回るためのサンダルを入手することにして、一軒の店に入る。元々180バーツだったのを結局は160までは値切ったが、後から考えるとこれもちょっとした値段だった。最後の辺りでこっちが155と言っても「160でいいじゃないのよ」という感じでさっさと袋に入れて渡されてしまった。
 しかし、値段はともかくとして、交渉して値段を決めるという当地流の方法が実践できたそのことが僕にとっては大きな喜びであった。以来よほどのことがない限り毎日このサンダルとともに旅を続けることになる。
 ゲストハウス近くのコンビニで缶ビールを2本と、屋台で焼き鳥を3本買って部屋でとりあえずの祝杯をあげた。缶ビールはだいたい一本で110円ほど。焼き鳥も1本20円ほどであるから、やはりかなり安い。
 東南アジアの安宿のシャワーは水しか出ないが、別段冷たいと思うほどでもなく慣れてしまえばなんということはない。しっかりと汗を落として、洗濯をして、部屋に干しておいた。扇風機はあるから(タイマーはついていないが)まあ、朝までには十分乾くだろうという算段である。
 この部屋に窓はあるものの、すぐとなりの家の壁が迫っているので何も見えず、いくつか壊れてはいる木の格子がはめてあった。ベッドは一体何百人分の汗だろうというくらいのにおいが染み着いていたが、逆に「これこそが憧れていた旅だ」という感慨を抱きながらバンコク最初の夜を眠りへと落ちていった。


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