あんたウソつきやで

 昨日の旅行代理店へ出かけ、プノンペン行きのチケットの手配を頼む。すると、夕方に寄ってくれたら渡すとのこと。そうなると、それまでの時間のつぶし方が問題である。
 「どこか近くで半日遊べるとこないですか」「王宮はもう行かれました? ここからだと歩いて行けるしちょうどいいんじゃないかな」
 霧雨の中を歩く。そもそも傘を持っていないし、別段寒いわけでもないので濡れ鼠のまま。地図を頼りにカオサンから歩くこと15分ほど、目指す所が見えた。なんだ、あれだったら何度も前を通っていたじゃないか。
 さて、どこから入ったものかと周囲をぶらぶらしていると横に並びながら歩く男がいる。「今何時ですか」と英語で尋ねられたので、腕時計を示してやる。ところが、いっこうに離れようとしない。それどころかさらに話しかける。
 「どこに行くの?」「王宮だよ」
 「残念だなあ」
 何がだ?
 「今日は王宮は閉まってるんだ。ほら、あそこに見える門も閉じてるだろう」
 確かに彼の指さす門には分厚い扉が閉められていた。しかし、さっきは代理店の人が王宮行きをすすめてくれたんだから、よもややっていないことはあるまいちょっと疑問に感じる。無視して歩き続けると、唐突に自己紹介。
 「僕はカイって言うんだ。オハヨーゴザイマース」
 そんなに日本人というのはすぐに見破られるものだろうか。その後の経験から、飛び抜けてきれいななりをしているアジア系の旅行者はまず間違いなく日本人だが、地元の人と同じくらいの格好でうろついているバックパッカーはいろいろに間違えられることを知った。僕自身はタイの列車の中でネパール人に間違われたこともある。ただ、この日は王宮に短パンではまずいので、旅の中で一番のおしゃれな出で立ちだったからばれてしまったのだろうか。とは言え、ジーンズに半袖の綿のシャツである。それもあまりきれいなものではないのだが。
 彼も学生だと言うのだが、「だったら何を専攻しているんだい。(What are you majoring in?)」の問いに対する返事はへんてこなものだった。「うん、すぐ近くの大学だよ」
 僕の疑念はここで確信に変わった。
 多くの人の頭の中には、日本人と言えばお金持ちだという極めて単純な図式がある。まあ、確かにそうだと言われれば簡単には否定できない。しかし、だからと言って僕が宝石を買うとでも思ったのだろうか。
 カイ君のやり口は典型的な宝石詐欺そのものであった。
 「どこに泊まってるの?」「カオサンのゲストハウス」「一泊いくら」「ものすごく安い」「どれくらいバンコクにいるの」「1週間くらいのつもり」「ふーん、じゃあその宿代ってのはクレジットカードで払ったんだろうね」
 一体これのどこがいわゆる「クレジットカードの有無をさりげなく聞き出し……」なんだ。
 「まさか、キャッシュだよ」「え! カードを持ってないのか? タイの学生はみんな持ってるんだけどな」「日本の学生はあんまり持ってないよ。僕もだけどね」「ちょっと待てよ、君はクレジットカードがどういうものか知っているんだろうね?」
 ここまでくるといいかげんやりとりにも飽きてくる。
 「知ってる、けど持ってない」
 もしかしたら、彼のグループにもノルマとかがあって、できるだけ多くのカモを引っかけなければボスにいびられたりするのかもしれない。そうは言っても僕がどうこうしなくちゃいけない道理はどこにもない。これで彼もあきらめるかと思いきや、しつこく食い下がる。
 「今日は王宮は閉まってるから、別の所に行きなよ。明日だったら朝の8時半と9時半に王様が見られるんだけどな。ところでタイの名産品は何か知ってる」
 「シルクとか有名だね」「そう、それに宝石だよ」
 手に持っていた地図を強引に奪うと、ボールペンで印を付けて「ここの宝石屋は大変に安い。ぜひ行くべきだ」とすすめてくれた。おそらく、クレジットを持っていることが分かったらここに連れて行かれていたのだろう。そこまで店の宣伝をすると彼は行ってしまったが、僕はやれやれという気分だった。
 日本人を狙った宝石詐欺のやり口は典型的なパターンがある。今のように、にこやかに話しかけてきて、このバスに乗るといいよなどと言った後、その場を去るのである。なんだ、彼は悪い人ではないんじゃないかと一端安心させておく。ところが宝石屋のそばに着くと別の人物が「どこに行くんですか」と近づいてきて、さもいい人のように次のような文句を並べるのである。
 「そりゃあいい。あなたはラッキーだよ。その宝石店は年に3日だけ特別のバーゲンをやるんだけど今日がその最終日なんだよ」
 なぜか、3日目の最後の日なのである。そうやって、せっかくだから……という気をひこうとする。場合によっては、自分はそこの主人と友達だから特別に安くするように言ってあげようなどと誘うこともあるのだそうだ。
 そして、日本に帰れば何倍もの値段になるという甘いセリフでクズ石を売りつけるのである。これはガイドブックにも書いてあるし、そして実際に体験したという話をあちこちで聞いた。アユタヤで知り合った女性はトゥクトゥクに連れて行かれて、「つい」買ってしまったと言う。下手なことに巻き込まれないためにも怪しいと思ったらさっさと振り切ることが重要だと思う。
 頑丈な塀に沿って人だかりのする方へ歩いていくと案の定入り口である。ちゃんとチケット売場には行列もできているし、銃を構えた物々しい警備の兵士の姿もある。
 人の流れはすぐ入り口に向かっているが、実はそことチケット売場との間に「勲章とコインの博物館」という別の建物がある。みんな気付かないのか、ツアーのスケジュールには組まれていないのかは知らないが誰も入っていかない。しかしちゃんと王宮の入場料にはこの博物館の料金も含む、とある。
 その名前の通り世界各国の勲章とコインがかなりの数展示されている。ちゃんと日本の500円玉なんかもガラスケースの中に陳列してあった。こうして見るとなんだか特別なものに思えてしまうが、やっぱり500円玉である。また、それ以外にも王妃の身の回りのものなどもあって、かなり楽しめる。
 何よりもあれだけ多くの人がいたにも関わらずみんなここは通り過ぎてしまうので、中はすごく静かだ。実際この建物の中では、僕の他に二人しか見かけなかった。しかもエアコンも気持ちよく効いている。おかげですっかり髪の毛も乾いた。
 そしてもちろん、王宮そのものも見ていてかなり楽しい。いかにもタイというイメージ通りの派手な装飾がそこら中にあってかなり圧倒される。僕が気に入ったのは、塔を支える鬼の像だった。塔の重量に苦しんでいながら「どうにも困った」というように唇をゆがめ、何とも言えずユーモラスな表情をしているのである。

王宮の鬼
 タイの昔話に、「昔イタズラ好きの鬼がいましたが、ある時お釈迦様が彼をとらえ、人を苦しめた罰として9千年間、塔を支えることを命じたのです」というエピソードがあってもおかしくない。この像は有名なエメラルドの仏像が納められている建物の向かい側にある。その表情はバリの伝統芸能の踊りに使う面というものを想像してもらったら分かりやすいかもしれない。とにかく憎めないヤツなのだ。
 しかし、そのエメラルド像の方はずいぶん高いところに鎮座していて、もう少し大きいのだろうと思っていたのに、どうにもよく分からなかった。写真によって大きめにイメージしてしまう弊害の典型だろう。さすがに熱心なタイの人たちはぎりぎり前の方まで行って熱心に祈っていた。
 ところで、王宮にはいろんな国の旅行者がいるのだが、当然日本人のツアー客もいる。中でも非常に笑わせてくれたおじさん達の一団があった。
 現地の日本語ガイドが説明をしている。
 「ここは、迎賓館です。偉い人来たときよく使います」
 おじさんその一曰く、「ああ、おれじゃ使ってくれんのかね?」
 おじさんその二答えて曰く、「選挙に通ってからだったらいいんでねか」
 さぞかしそのガイドさんは当惑したに違いない。願わくは、そのかなりの東北のイントネーションが彼女の理解を妨げんことを。
 王宮を一通り見た後に、まだ時間は十分にあったのでワットポーへ行くことにする。ワットなんとかというのはどこにでもあるが、何のことはない、日本語で言えば寺である。
 しかし、王宮を出たとたんに今度はしつこいトゥクトゥクの運転手が話しかけてきた。「どこに行くんだ」「ワットポー。でも歩いて行くよ」
 実際、地図を見ると王宮と隣接しているといってもいいくらいの位置にあるのだ。すると、運ちゃんは大仰なそぶりで、「おお、この時間は昼休みだから2時まで閉まってるよ」とさも残念そうに言ってくる。しかしさっきのカイ君の例もあるから信用できない。無視して歩き続けると、トゥクトゥクでゆっくりと追いかけながらなおも話しかける。
 「2時まで、1時間30バーツでここら辺ガイドするよ」「いや、いらない」
 「じゃあ、20バーツでどうだ」
 まったくその熱心な商売ぶりには感心するが、20バーツあれば一食確保できるのだ。無駄な金は使えないし、もとより使う気はさらさらない。
 移動の基本は何と言っても徒歩に限る。第一に金がかからない。また、初めての土地だとまず間違いなく迷うが、それがまたいいのである。実はこの後もそのおかげでかわいいお姉ちゃんの写真が撮れたのだ。まあ、何もそれだけではないが、徒歩でしか得られないものの方がはるかに多い。
 バンコクなんかだと、街角で地図を広げてきょろきょろしていると、まず誰かが話しかけて親切に教えてくれた。ひょっとしたら、邪な目的の人もいるかもしれないが、少なくとも僕は実質的な被害には一度もあわなかった。「怪しい奴」というのは、その手のオーラのようなものを発しているので、常識的な判断能力が備わっていれば危険を回避できる。
 また、そうでなくとも、こちらから話しかけたら大抵はしっかりと英語で答えてくれた。「どこそこに行きたいんですけど」「だったら、この道をまっすぐ行って二つ目の信号を右に曲がって……」なんていう会話は何も特別な英語の知識などは必要としない。日本でも中学校の初等の段階で必ず習うはずである。細かい事情はともあれ、現状としては英語が共通語として使われているのだから、やはりこの程度のことはできた方がいいのではないだろうか。
 同じ土地でも訪れる人によって頭の中に描かれる地図はまちまちだが、僕の場合、距離感覚は徒歩による。まずは、寝場所を確保したらその回りから歩き始める。大体どこの町でも市場、あるいは屋台の密集しているエリアというのが存在するから、そこと宿との距離をまず基本にする。そして徐々に範囲を拡大していくことでその町の僕自身の地図を完成させる。
 さて、運ちゃんがいい加減にあきらめて去っていくとワットポーである。ここはその巨大な黄金の寝仏と「タイ古式マッサージ」の総本山であるということで有名だ。確かに仏像はすさまじかった。きらびやかとか、豪華とかいう概念を超越して、ただただでかくて金色なのである。おかしかったのは、巨大な足の裏だった。ちゃんと大きな指紋もぐるぐると渦を巻いていた。
 右手で頭を支えて横向きに寝ている像の頭の側から入り、おなかの方を回って足の裏を通り、背中の方へぐるっと一周するようになっている。正面を歩いていると、一定の間隔で連続する音が聞こえてきた。雨垂れが何かしらの金属に当たっているような、しかしもう少し鋭くきれいで涼しげな音である。
 裏側に回ったら、それが何か判明した。両手の平におさまるくらいの金属の椀が、回廊に沿ってずらっと並んでいて、それにコインを入れていく音であった。その手前で机を構えている女性に話を聞くと「幸福のために」と言う。さっそく僕もやってみる。20バーツを50サタン(1バーツ=100サタン)硬貨で両替する。が、その換算のしかたがアバウトでおもしろい。いちいち枚数を数えたりはせず、台所で使うような秤の上の容器にとりあえずごそっと入れて、適当に過不足を調整して「はい、どうぞ」という具合だ。
 マッサージの方は建物が見つからず、そのまま門を出た。後日、カオサンの中でもう少し安くできるところを教えてもらったのでそちらを試した。しかし詳しい人によるとワットポーのマッサージは「格別」であり、「体がとろけていく感覚」ですっかり終わった後には「ふわふわと空中を漂っているような気分」になるのだそうだ。
 入り口と逆の側から出たのだが、細い道を隔ててすぐに同じような雰囲気の建物があったので、これもひょっとしたら続きなのかと思って、門をくぐった。実際はどうもお坊さんの宿舎のようだったのだが、紛らわしいことにその門には土産物売りがいたから、ためらわずに入ったのである。
 別に誰にとがめられるということもなく、うろうろしていると一軒の屋台を発見。ちょうど腹が減っていたので焼き飯を注文する。プラスティックの椅子はぬれていたが、丁寧に拭いてくれ、非常に雰囲気がよかった。加えて、そこの娘さんがかわいいのである。
 日本人男性の女性の好みとして「タイ派」と「ヴェトナム派」が二大勢力なのだが、僕は文句なしにタイ派である。考えてみれば、この女性との出会いによって開眼したのかもしれない。「ヴェトナム派」の主張は「日本の女の子に近い」というものなのだが、僕は街を歩いていても思わず振り返ってしまうほど美しい女性の割合が圧倒的に(日本と比べて)多いという点においてタイ女性を推す。
屋台娘
 英語がほとんど通じなかったが、ジェスチュアで了解を得て写真を撮らせてもらった。お母さんがちょっとはにかみながら、それでいて自慢げに「どう、美人でしょう」と言った


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