広大なる週末市場と読書

 昨晩は少し体調が思わしくなく、いつも通り買ってきた缶ビールも3本全ては飲みきれずにやむなく洗面所で流してしまった。僕としては極めて異例のことだった。
 しかし12時間睡眠の後に目覚めると、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
 昨日買っておいたシュガーアップルを食べる。これは、昨年の香港で初めて挑戦してすっかり気に入った果物だ。熱帯のフルーツ特有の甘さをさらにエスカレートさせた感があり、冷蔵庫などに入れておくと糖分がしゃりしゃりと析出してしまうほどだ。こぶし大より一回りほど大きくて、仏像の頭のようにもこもこと緑色の外皮に包まれ、それを手でむいてかぶりつく。中には柿と同じくらいの大きさの固い種がいくつも入っているが、これをプップッと吐き出しながら、それほど強烈ではない独特の香りに包まれたそのクリーミーな白い果肉を味わう。
 日曜日なので、ウイークエンドマーケットに行こうと思う。その名の通り、週末にだけ開催されるその市場は非常に大規模なものらしい。
 3系統の市バスに、カオサンを出てすぐバンランプー市場の外れの停留所から乗り込む。が、反対方向だったらしくて、王宮広場の近くで乗客は全員降りてしまった。仕方なく乗り直さなきゃいけないなと思って腰を上げると、車掌が親切にも「どこに行くの」と聞いてきた。制服であろう薄いブルーの開襟カッターシャツがよく似合う長身のお兄ちゃんだった。地図で場所を指すと「オーケー、オーケー」と、このまま座ってるように身振りで示してくれた。
 5分も待たずに出発。目的地に着くと、車内は非常に込んでいたにも関わらず、彼は乗客の間を縫うようにやって来て「ここだよ」と教えてくれた。
 北バスターミナルと向かい合うその市場は、一体どれくらいの広さがあるのだろうか。いくつかのブロックに分かれていて、大体同じような品を扱う店が固まっている。どういうものを扱っているのだろうか、という問いに対しては、「それこそ何でもある」としか答えようがないのだが、僕が目にした範囲で述べてみよう。アーミーグッズ、野菜、果物、仏具、鮮魚、乾物、アクセサリー、衣料品、靴、薬品、革製品、眼鏡、金、木工品、書籍、カセットテープ、雑貨、道具類……エトセトラエトセトラ。
 右も左も分からないので、まっすぐにずんずん進んだ。最初にぶつかった食堂でクィティオナムを注文。活気がある市場の飯屋というのは、まず間違いなく当たりだ。家族でやっているようなこの店も、おじいさんが注文を受けお母さんが下ごしらえをし、お父さんが料理して子どもが運ぶ、そして再びおじいさんがテーブルを片づけるという連携プレーがほほえましい。
 食べ終わってふと人の気配を感じて目をやると4、5才くらいの男の子が、つぶらな瞳でじっと僕の目を見て手を合わせている。物乞いだった。一瞬、金縛りにあったような感覚があったが、どうすることもできずにその場を去った。
 こういうことは日本ではまずあり得ないだろう。一応、知識としては持っていたものの、現実に直面するとそこには何もできない自分がいるだけ。「どうしたらいいのだろうか」(どうなるわけでもないのかもしれないが)という問いは、ずっと胸の内にあったが答えは未だに出ない。貧乏旅行と言いながら、彼らから見れば大金を携えての旅行であることには変わりない。唯一できるのは「何があろうと、現実に僕はいるし、そして彼女ら・彼らもいるのだ」という認識だけ。
 さて、先ほども述べたようにペットショップも、ある区画に集中して軒を連ねている。そこで店の人が何かを手で操っているように見えたのだが、よく手元を見てみると20cmくらいの蛇がくねくね。さらに、カメレオンを肩に乗せているお兄ちゃんまでいた。
 熱帯では、犬が道ばたで死んだように眠っているということを本で読んだことがあったし、実際に何匹も「本当に死んでるのではないか」と思うほどぴくりとも動かずに地面に転がっている光景を目にした。しかし、なんとここではカゴの中のハムスターまでもがへばったように、たまに耳をピクピクと動かす程度でかごの底でじっとしていた。この気候で毛皮を着込んでいてはさぞかし大変なのだろう。
 雑貨屋さんでアタッチメントタイプのサングラスを安く買った。しかし、これは僕の眼鏡にはうまくはまることなく残念ながら実用にならなかった。
 ちょうど12時になったところでうまそうなぶっかげご飯屋に行き当たった。骨付きの鳥肉と青菜、それに魚の2種類のおかずを選んで頼む。座って食べていると、5才くらいの店の女の子が氷水を持ってきてくれた。プラスティックのうがいに使うようなコップに入れて。
 慣れない旅行者は、ジュースに浮かんでいる氷や生野菜を洗う時に付いた水ですらお腹をこわすことがあるという。しかし、口の中は、ある程度は慣れてきたとは言えひりひりしている。躊躇する。ええいままよ、と一口飲んだら冷たくて気持ちがいい。結局食べ終わった時にはきれいに飲み干して、氷までがじがじとかじってしまった。
 すっかり満腹したところで、店の人に断って写真を撮らせてもらうことにした。店先にならんでいるおかずの種類が豊富で、昼時に合わせてつくられたのであろうバットに山盛りにされたそれらからは湯気が上っている。それに魅入られて思わず一枚というわけだ。ちゃんとオーケーをもらったけど、フラッシュの光に、おばちゃんはとても照れていた。
 腹具合がどうなるか一抹の不安を抱きつつも探索を再開。
 おみやげにいいやと思ってねらいを付けていた木彫りの象の髪どめを探したのだが、ついにたどり着けなかった。一度は通ったのにどうしても行けない。こっちのはずだけど、と思えどそこはまた初めてのスペース。それほどまでに広大なのである。
 賑やかな音楽が聞こえると思ったら、テープ屋(決してレコード屋や、あまつさえCD屋ではなくて)のエリアに出た。スピーカーからものすごい音量で流れてくるが、当然歌詞はさっぱり。
 その音楽に合わせて、隣の店の服屋のお兄ちゃんが脚立の上でタンバリンで拍子を取り、自分も歌いながら、ベルトに吊したワンピースを売り込んでいた。
 まだまだ見残したところもあるだろうが、さすがに雰囲気にちょっと食傷気味になったので、市場を出て隣の公園でごろごろすることに決めた。
 ところが、入り口が見つからない。フェンスの向こうには芝生が広がり、池の上にはボートが浮かび、そして所々にヤシが植わっている。多くの人が楽しそうにしている光景がすぐそこに展開しているのに、入る場所が分からない。まあ、フェンスに沿って行けば……と5分くらい歩いた末にようやく幅2mくらいの小さな入り口発見。なぜだか警官が立っている。
 ちょっとのども乾いたし、お腹も今は大丈夫だけどひょっとしたらという危惧があったので、ヤクルトでも飲もうと考えた。なんのかんのと言いながら、こんな程度の知識しかないのである。
 以前、風邪をひいていた時にビタミン飲料を飲んでいたら友人に笑われたことがある。「おれたちって、大学まで来ていながら、風邪をひいたらビタミンCをとらなきゃってくらいのことしか知らないんだよな」と。
 この時だって、お腹にやさしいヤクルトという程度の認識だった。
 しかし、市場ではあちこちで見かけたヤクルトがない。他の飲み物を売っている屋台(というかスタンド)はいくらでもあるのに。仕方なく、ココナツジュースとおぼしきものを頼んだ。蜜のようなものと、ジュースを大ぶりのプラスティックのコップに入れ、砕いた氷を山とぶちこんで、はいどうぞ。
 池のほとりの石造りのベンチで寝転がって「ノルウェイの森」の続きを読もうと思えど、どうやらゲストハウスのベッドの上に置いてきてしまったようだ。
 話はそれるが、この本を旅行中だけで2度ほど読み返した。
 僕の最も敬愛する作家である村上春樹、彼の著作の中でも処女作である「風の歌を聴け」がベストだと思っていたのだが、読む度に新鮮な発見がある「ノルウェイ」にその地位は譲り渡された。今回は以前ほど直子が失われた寂寞感を感じることなく、代わりに緑のキャラクターとその主人公に対する煩悶の念に、より共感を覚えた。
 さて、仕方がないのでハインラインの「スターファイター」を読み切った。どうせ、暇な時間はいくらでもあるだろうからと、読み終わったら捨てるつもりで何冊か文庫本を持ってきたのだが、カオサンは本当に便利な所で古本屋も数軒あり、読み終わったものはどんどん売ることができた。大体、10〜20バーツほどで引き取ってもらえた。
 そう言えば、さっき綿棒を買ったんだっけ、ということで唐突に耳掃除。日本を出る前にきれいにしたはずなのにかなり汚れていた。これもバンコクの大気汚染によるのだろうか。ジュースを飲み終わったコップに突っ込んで後で捨てようと思っていたら、小さな男の子がふいに寄ってきて、がしっとつかんだかと思うと中身を周囲にぶちまけた。理由不明。よって、僕の耳垢はここに眠ることになった。
 日曜の午後というだけあって、家族連れやカップルが大勢のんびりと休日を楽しんでいた。
 「今日は、陽気に誘われ多くの人出で賑わいました」とレポーターの声。「ええ、今日は息子とキャッチボールをしに来ました……」という若いお父さんのインタビュー。まるで7時のNHKニュースにもなりそうな風景。ただ、違うのは、地面に転がる人のためのレンタルのござ屋さんが「ござ、どうですか」とやって来たり、色とりどりのお菓子や、焼き鳥なんかの売り子が近づいて来る点くらいではないか。
 一端カオサンにもどったが、目的の場所に狙い通りのバス一本でスムーズに行くことができたのはこれが初めてだった。
 「ノルウェイ」をズボンのポケットに突っ込んで、夕涼みがてら王宮広場まで読書に出かける。ベンチはどれもうまっていたので、犬のフンがないことを確認してから街路樹の下で最後まで読み切った。広場にはサッカーボールを追い回す一団や、たこ上げをする子どもたちのにぎやかな声が響いている。
 周囲が段々と暗くなる中、その存在が徐々に明確になっていくなイルミネーションを眺めていたら、「ここが王宮だよ。すごいだろう」と、男の人が言ってきた。彼も散歩の途中のようだった。


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