首の無い仏像
ファランポーン駅。タイ国内の鉄道網のメインの駅であると同時に、ここからマレーシアを経由して、マレー半島最南端のシンガポールまで一本の線路でつながっている。巨大な天蓋の中に10本近いプラットフォーム。黒煙をボスッと吹き上げ、重たい鉄の車体を軋ませながらゆったりと発車する列車。発車直後の空白に音が吸い込まれたかのように一瞬の密やかな閑散。再び人々のざわめき。
市内で見かけるよりこざっぱりした服装の女性二人組がたたずむ。それぞれにおめかしする理由があって、それぞれの旅。列車をバックに互いの写真を撮る。
と、そのときに「いくよー」。なんのことはない日本人の旅行者。ちょっと回りを見てみるとみんないつもの格好。ちょっと、センチメンタル過ぎたか。
今日は数多くの遺跡が眠るアユタヤを目指す。各駅停車の3等で、わずか15バーツ。
3等には当然エアコンもなければ、座席指定もない。列車が到着すると同時にみんなが乗り込む。それも、車両の両サイドから乗り込めるので、線路から上がる人も大勢いる。
僕もさっそくに進行方向に向かった窓際の席を確保。いわゆる対面式の4人掛けのシートである。あっと言う間に他の席も埋まる。友人同士で出かけるのであろう、高校生くらいの集団はおしゃべりに余念がない。
昼過ぎに到着。車内アナウンスはないので、大体の時間をあらかじめ頭に入れておいて当たりを付ける。そして周りの人に「アユタヤ?」と尋ねるのた。そうだそうだ、という雰囲気だったので下車。
まずは、時刻表で帰りの列車をチェック。6時台に2本、そして7時23分が最終のファランポーン行き。余裕を持って、6時には駅に戻っておこうと決める。
一歩外に出ると、わっと人が群がる。一日いくらで周辺を案内する人たちの客引きだ。しかし、こちらには立派な足がある。それにレンタサイクルもあるらしいのでまずはそこを目指そう。彼らを振り切って、まっすぐに進むとすぐに川に突き当たる。それほど幅はないのだが、橋を渡るにはかなり迂回しなければならないので、周りの人にならって渡し船に乗り込む。この川がぐるっとアユタヤの町を囲んでいるのである。
対岸すぐに市場があって、ここでぶっかけご飯で昼食。もう水を飲んでも大丈夫だと昨日の経験から分かっているので、氷水をおいしく飲み干す。
さあ、探索開始。まずは自転車を貸してくれるという、オールドBJゲストハウスを探す。ところが、向こうからやって来たバックパッカー二人組に聞いても分からないと言う。かなり歩いてどうやら行き過ぎたのかと思い始めた矢先に「この先レンタサイクルあります」という看板発見。幸先がいいぞ、と思いきやその店はシャッターが下りていて人の気配がない。そこが目的としているゲストハウスではないことは明らかだったので、まあそっちに行けばいいかと楽観して再び埃っぽい道を歩き出す。
大きな通りに出てその名前を地図で見つけた時に、どう考えてもこれは行き過ぎだということが分かった。しかし、周囲を見回すと、目と鼻の距離のところにワットラチャブラナ遺跡がある。自分の位置も確認できたことだし、まあいいだろうとあっさり自転車のことはあきらめた。
アユタヤには数多くの遺跡が点在している。どうやって回ろうかと、大体のルートを頭の中で組み立てた。船着き場から最初に出くわした遺跡まで歩いた時間を考えると、この方向のまま進んだ一番奥にあるワットロカヤスタまでは何とか歩いて行けそうだ。しかし、社会の時間にも習った日本人街の跡は、かなり離れた所にあるので、一度くらいはトゥクトゥクを使うのも悪くはないだろう。
アユタヤは、バンコクと比べるとはるかに田舎なので、町全体がものすごく静かだ。車もごくたまにしか通らないし、あちこちに緑が茂っている。遺跡の塔の上から見渡すと、森の中にぽこっぽこっと多くの遺跡がある。あの喧噪にも慣れたとは思っていたが、やはりこういう所に来ると全身がすっかりと解放されてものすごく心地よい。
どこの遺跡でも入場料が必要だ。一律20バーツ。しかし、塀がめぐらされているというわけではないので、その気になれば横の方からこそっと入ることもできなくはないだろう。しかし、僕がここで払ったお金がいくらかでも遺跡の保存に役立つのだろうと思うと、その考えは単なる思いつきのままとどまった。
かなり痛んでいるものもあれば、修復されているものもある。しかし全体のとしては、やはり、まだまだだという気がした。
印象深かったのは、すっぱりと首を切り取られた仏像がずらっと並んでいたワットプラマハタート。昔、戦争の時に進行してきたビルマの軍隊が切り取って行ったのだが、それには単に冒涜するという意味だけでなく、もっと実質的な意味があったらしい。非常に簡単な理由なのだが、首の部分には宝物が隠されていたというのだ。真っ青に晴れ渡った空の元、それらの石像は無言のまま座り、不気味な印象を僕に与えた。
その切り落とされた首がまだ一つだけ残っている。ころころと転がって行った先は木の根本。そして長い年月の間に、木は成長し、その過程で首が根の間にすっぽりと収められたのである。あまり、大きなものではないので気を付けていないと見過ごしてしまいかねないが、その前にはちゃんと線香が供えられている。
てくてくてくてく歩いて、ワットロカヤスタにある寝仏にたどり着いた。ここの寝仏は屋外にあってその白い塗装は所々ではげている。しかし、よく見ると金色の部分もある。これは、例えば足が弱い人なら足というように、自分の体の良くなってほしい部分に金箔を張り付けて回復を願うというものだ。寝仏自体は全長が30メートルもあり圧倒されるが、周囲にはいくつかみやげ物屋がならんでいる程度でものすごく開放的だ。
相変わらず日差しは強く、少し休息をとることにした。ところが、近くで土産ものの売り場から男が近づいてきて、珍しく日本語で話しかけてきた。手に持った1000円札を示しながら、「これは、バーツにするといくらですか」
ウエストポーチから電卓を取り出して、計算して見せる。200ちょっとだったと思うが、すると「250でいいから両替してくれませんか」
……これはよく考えたらおかしな話だ。本来は200いくらなのに、僕の方で多く出さなければならないというのだから。ところが、この時はその奇妙さに気付かなかった。ひょっとしたら、相手の男も勘違いしていたのかもしれない。だけど、闇の両替は危険だと言う話も耳にしていたのであっさりと断った。別に食い下がることもなく、やけに淡々としたもので「そうか。それにしても今日は本当に暑いよな。俺も頭がずきずきするからちょっと昼寝するよ」
こう言うと、引っ込んで行った。
不遜にも遺跡の上でごろっと転がって、少し僕も昼寝をしようかと思いきや、今度は2人の男と1人の女がやってきた。
「こんにちはー」「サワディカッ」と、2人の男が同時に挨拶をした。今度は一体なんだろうといぶかしんでいると、サングラスを掛けた方の男が流暢な日本語で「ほら、彼がこんにちはって言ってますよ」と言ってきた。どう考えてもネイティヴの日本語の発音である。なんだかよく分からないがとりあえず僕もタイ語で返事をする。と言っても、相手のセリフをおうむ返ししただけだが。
面白い理由で彼らはグループとなってここにいたのだ。カオサンに泊まっているけど日帰りでアユタヤに来た女性に、ガイドはどうだとしつこく着いてくる現地の男性。しぶっていたものの、日本で八百屋をやっていると言う男性が加わって彼が通訳をしてくれている、というちょっと複雑な事情。
仮に、僕がガイドを頼む気があったとしても、そういった状況ではかなり怪しんだのではないだろいうか。しかし、この女性は、結局名前を聞くのを忘れていたのだが、そうは感じたけれど、別に大丈夫だろうからガイドを頼んだところだと言う。
「もしよろしかったら、一緒に帰って、バンコクでご飯食べませんか? あたしも一人旅だけど、一人で食事してもつまらないし」
千載一遇のチャンス! のはずなんだけど、それほどロマンティックなものでもない。つまり、同様のシチュエーションでも相手によってこちらの受け取り方も大きく変わってくるということだ。相手はまあ、少なく見積もっても僕より15くらいは年上であろうと推察される。しかし、別にだからと言って断るはずもなく、日本語でゆっくりしゃべりながら夕食をとるのはすごくいい提案に思われた。
「いいですね。僕は6時くらいに列車で帰るつもりだから、アユタヤの駅に6時で待ち合わせませんか」「ええ、いいわよ。だったら、また後でね」
地図を眺めながら、今後の行程を考えた。かなり大きな博物館があるらしいので、まずそこに入って休息をとりがてら見学。そして、そのすぐ近くにある歴史研究センター。ここは日本がバックアップしているらしい。そして日本人街跡を見れば大体いい時間になりそうだ。
あまりに午後の日差しが強烈なので、帽子代わりにタオルを頭に載せてただ歩く。途中何度も背中のバッグから水を取り出してのどを潤す。かなり容器のプラスティックの臭いがうつっているが、そんなことは抜きにしてうまい。
さて、おそらくあの塀の向こうに見える建物がその博物館だろうと、塀沿いに歩きながら入り口を探す。ところが、そこに僕が見たのは「本日閉館」という木の札。ここまで来たら休憩しようと頑張って歩いてきたのだが、がっくりきた。しかし、かと言ってとどまっていても何も進展しないからまた歩みを進めた。
歴史研究センターはできたばかりで、まわりの風景と相反するくらいものすごくきれいだった。日本とタイの協力ということによるのだろうけど、しっかりと日本語のパンフレットもあって、外国にありがちな奇妙な日本語ではなくちゃんとしたものだった。
国際学生証などのIDを持っていないので、果たして学割が適用されるのだろうかという不安が少しだけあった。カオサンで作っておけばよかったかな、と思いながらとりあえず窓口で「学生、一枚」と言ってみる。
あっさりと、チケットとパンフを渡してくれた。そんなものである。この後あちこちで博物館に入ったが、どこも大人と子どもという分け方で、学生料金などどこにもなかった。やはり、東南アジアでは国際学生証は役に立たないようだ。
ユネスコが協賛しているということで、「国連の機関のロゴが入っているのでパスポートと同様のレヴェルでのIDとして通用します」と、大学生協でもらったパンフレットにはあったが、実際僕が目撃したカオサンの銀行でのやりとりでは全く通用していなかった。窓口でトラベラーズチェックを両替しようとしていた人が、パスポートの代わりに国際学生証を提示していたが、いくらねばっても相手は「パスポートでないとだめだ」の一点張り。そりゃあそうであろう、目の前の露店では一枚100バーツで偽物を作っているのだから。
ところが、大きな池まで備えられているその素晴らしい外観とは裏腹に、中はそれほど広くもなく、あまりおもしろいとは思わなかった。ただ設備だけは非常にしっかりしていて、ボタンを押すと○○世紀の航路がピカピカと表示される展示などもあった。僕たちの感覚からすると、どんなに小規模なところでもこれくらいは当たり前だと思いがちだが、バンコクの国立博物館にこの手の展示はなかった。
それにここのコンセプトが一風変わっていておもしろかった。「単に出土品を並べるのではなく、最新の理論に基づいて、往事を可能な限り復元できるように努めた」という説明があった。確かに、精緻なジオラマや、実際に入れる家屋を再現したものなど、視覚に訴えるものが多かった。
そして、なんと言っても実際に僕がもっとも感激したのは、エアコンだった。シャツにしみこんだ汗が冷やされて、あっと言う間に寒気を感じるほどだ。
必要以上に涼しい館内を出ると、多少太陽は傾いているものの、まだまだ照りつける。洗面所でタオルをたっぷりと水に浸して頭に乗せて行くことにした。見た目なんか関係ない、少しでもこの暑さに対抗しなくてはいけないのだ。
ちなみに、ここのトイレは日本で言う水洗であり、ちゃんと紙も備え付けられていた。便器自体は和式でも様式でもなく、タイ式であった。
さあ、休憩もとったし、ぬれたタオルも用意した。がんばって日本人街まで歩くぞ。と、決意したものの、どうも今まで歩いたきた距離感覚ではちょっと通用しそうにないほど離れた場所にある。そこに日本人街跡というものがなければ、アユタヤ観光案内図というものはもっと小さな縮尺で描けそうだ。加えて、徒歩で往復していては、「6時に駅」という待ち合わせには間に合いそうにない。
そこで、バイクタクシーを拾うことにした。
日本には存在しないこの交通機関は、何のことはないバイクの後ろに乗って目的地まで運んでもらうという代物なのである。これもあちこちで見かけたが、唯一バンコクだけはヘルメットの着用が必要なのだそうだ。
バイタク(何でも略する日本人はこのように言う)のドライバーはそれと分かるように派手なユニフォームをを身に付けて、街角に固まっているので必ず目に付く。料金は事前交渉制。
「日本人街に行きたいんだけど」と言っても、よく分かってもらえなかったので地図を示した。仲間内でああだ、こうだと話し合っているときにふいに「ニッポン」という音が聞こえた。おそらく固有名詞として定着しているのだろう。なんだかちょっとうれしい気がした。
50バーツから40バーツまではあっさり下がったけど、ねばって35で決めた。いかにもいなかのおばちゃんという感じのにこにこした女性の後ろに乗った。
「あんた、あそこは結構遠いのよねえ」というようなことを言ってたようだけど、ちょっと年輩の男性が「まあまあいいじゃないか。行っておいでよ」という感じで手を振った。
しかし、ギアをトップに入れて軽快に進んだのもわずか数百メートル。英語が話せないおばちゃんは、タイ語と身ぶりで僕を下りるように促した後、事情を説明してくれた。「ちょっと、故障しちゃったみたいね。代わりの人を呼ぶから悪いから乗り換えてよ」
ということで、大声を張り上げると道の向かいにいた一団から一人やってきた。話を付けると、彼がおばちゃんに10バーツだけ払っていた。
しかし、先ほど交代の時にちゃんと話を聞いていなかったのか、なかなか目的地に着かない。確かにかなり遠いところにあるが、いくらなんでもこれでは行き過ぎてるのではないかと感じ始めた。しかし、短パンの下はトランクスで、そこを吹き抜ける風があまりにも快適だったので、もう少し待ってみるかと鷹揚に構えていた。しかも市街を抜けたバイクから見えるのは、彼方に地平線の見える草原の風景だから、単に走っているだけで気持ちがいい。
僕はのんびり風を感じていても、運転している方はそうでもなかった。きょろきょろと辺りを見回し続けていた。メーターがきっかり60キロを示しているので、それほどのスピードというわけでもないのだが、20分も走ったのではさすがに見落としたのだろうと僕も思って、彼の肩をたたいて止まってもらった。運の悪いことに、彼も英語を解さなかったが、なんとか言いたいことは分かってもらえた。
途中にいた人に道を聞いて、ひたすら戻る。やはり大幅に行き過ぎていた。日本人街にたどり着くと、彼は35バーツを受け取って帰っていった。おそらく「さっき日本人の客を乗せてったんだけど、いやひどい目にあったよ」なんて話をするのだろう。
残念ながら、やっとの思いで着いた割には、全然大したことがなかった。日本人街の跡、と言うよりは、正確には日本人街の跡地でしかなかった。日本語で書かれた案内には「日本人街があった場所の一部を整備して……」と書かれていたが、往事の面影を推し量ることのできるものは何もなかった。それどころか、どこかのマンションのちょっとした公園という雰囲気のため、タイにいながらも日本的なセンスの悪さを目の当たりにして非常にがっかりとした。
ただ、そんな中でも僕を大いに楽しませるものを発見した。「世界人類が平和でありますように」という例の棒が立っていたのだ。何でこんなものをアユタヤで……。
そこからまた歩いて駅を目指した。途中二つほど寺によって、大仏も見た。とだけ書くと平穏なのだが、実はそうでもない。途中、犬に追いかけられもしたし、夕日とは言え強烈な日差しを背にしたために、首の後ろがひりひりするほど焼けてしまった。しかも、最後にはどうしても間に合いそうになかったので、結局トゥクトゥクを拾った。
おもしろいことにバンコクのそれとは少し異なる仕様で、より車的であった。つまり、バイクに荷台を付けた感じではなく、小さいとは言えしっかりとした自動車の荷台の部分に乗るようなものだった。
ジャスト6時に駅に着いた。ほっと一息ということで、カバンから水を出そうとごそごそやっていたら、「シッ!」というように注意された。何事かと思うと、ふいにどこかのスピーカーから国歌の演奏が始まり、国旗降納のイベントが始まった。タイの国歌を知っていたのではないのだが、国旗降納の時にかける音楽としては国歌以外に思い付かないからそう考えただけだ。
待合い室にはすでに彼女が来ていた。
レールから直接列車に乗り込んで席を確保した。
一度、10分ほど停車した。地元の人も外に下りたり、窓から首を突き出したりしていたから、ひょっとしたら重大な事故でもあったのかと思いきや、再びガタゴトと動き出した。線路に柵などあるわけがないから、牛などが入り込むと、それをどかせるためにしばらく停まるというのはよくあることのようだ。ただ、この時は対向車とのすれ違いのためだったのか、牛のためだったのかは定かではないが。
ファランポーン駅に戻った時にはもう7時を過ぎていた。
二人で、駅近くの「タイスキ」を食べに行った。これはまさにタイ式の寄せ鍋というにふさわしく、タイではものすごい人気であちこちにチェーン店もあるほどだ。
僕は当然のごとくビールを注文したのだが、「今日は出せない」と、いかにもチェーン店のウェイトレスらしい格好をしたウェイトレスに言われてしまった。メニューにはちゃんと写真入りで載っているのにも関わらず。
「ひょっとしたら、何かの記念日とかで、出しちゃいけないということにでもなってるんじゃないの」という彼女の解説は僕にはもっともに思われた。
二人でたっぷりと、肉やら魚やら野菜やらを食べて200バーツほどだった。まあ、安いと思う。何気なくレバーを頼んだのだが、彼女はちょっとひるんでいた。ちょうど日本で食中毒が蔓延していて、原因が生レバーだと特定された所があるのだと言う。僕はまだ、そんなに広まっていない時に出てきたから実感としてなかったし、仮にあったとしてもだろうけど、気にせずに食べた。
僕としてはトゥクトゥクを割り勘で行ってもそんなにはかからないだろうと思っていたが、何となくバスを探している内に、ここまで来たら歩こうということになった。結局1時間ほど歩いてようやくねぐらに戻った。
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