優雅なる旅路

 バンコクを発つ朝がやってきた。
 空港まで市バスで行くと2時間くらいだとボーニーは言っていた。6時過ぎに起床。アラームの付いた時計を持っていなかったので若干の不安はあったが、さすがに意志の力は大きいもので4時くらいから何度か目が覚めてはまた寝直すということを繰り返していた。
 精算は昨日の内にすませておいたので、再びバックパックをかついでゲストハウスを後にする。カオサンともしばしの別れである。始めて早朝のカオサンに出たが、一部の終夜営業の店を除いてはシャッターも下りていて、屋台の姿などもあるはずはなく、これがあのにぎやかな通りかと一瞬戸惑うほど閑散としていた。
 バンランプー市場の近くから空港に行くであろう3系統のバスに乗り込んだのはまだ7時前だった。離陸は10時45分なので、出発して間もなく捕まった渋滞にも余裕を持って構えることができた。
 中心地を過ぎるとスムーズに流れ始める。ルートマップで確認したとおり、北バスターミナルを通過。
 まあ、大勢において順調だと思っていた。
 しかし、トラブルの種はふいにまかれた。
 このまま、まっすぐ行けば空港だと思われる道に出た。線路と高速道路が並行しているその通りにある「空港方面」という指示のある車線から外れたのである。それでも車線が変わっただけで、方向的にはまったく同じなので別に大丈夫だろうと思っていたら、かなり空いてきた車内で僕のバックパックに目を止めた車掌が聞いてきた。
 「どこまで行くんですか」「空港までだけど」「だったら、次の停留所で下りて29系統に乗り換えて下さい。このバスは空港へは行きませんよ」
 彼女のアドヴァイスに従うより他はなかった。ここら辺から少しづつ不安が芽吹き始め、徐々に大きくなっていった。指示通り、すぐ後に来た29に乗り込んだ。
 これがまったく進まない。列車は1時間に2、3本しかないからバスの方が便利だろうと思っていたのに、すぐ左を既に何台かの列車が空港方面へ走り去っていた。
 正確な残りの距離ははっきりしないが、見覚えのある看板が目に付いたのでもうすぐだろうと思っていた。確かに、結果的にはさほど距離はなかった。しかし、いくら短い距離でもバスが進まないことには無意味である。よく交通情報などで「ノロノロ運転」という言葉を聞くが、そんな生ぬるいものではない。
 刻一刻と搭乗時刻が迫る。ふと、派手なユニフォームを着たバイクタクシーがびっしりと詰まった車の間を縫うようにして進むのが見えた。これとて、ほとんど地面に足を付けながら進むくらいのスピードしか出せていないのだが。しかし、それは確実にバスを抜き去り、視界の前方から消えていった。何度ここでバスを降りてバイクに乗り換えようかと思ったことか。しかし、唯一の不安はバイタクがつかまるかどうかということだ。下手に賭に出て失敗した場合のリスクはあまりに大きすぎる。その勇気が僕にはなかった。
 時計をのぞき込む度に、不安は加速度的に増幅していく。為す術がないないのである。
 ようやくと、離陸直後の大きく傾いた機影が見えたときは救われた気がした。最後の手段として、走って行っても何とかなる距離圏内に入ったことが確実になった。
 前方に歩道橋が見えた。あれは到着した日に見かけた空港と駅とを結ぶものだろうと、思い切ってバスを降りることにした。
 甘かった。その歩道橋まで到達した時にどうも雰囲気が違うことに気付き、さらに数百メートル前方にもう一本の歩道橋と駅舎が目に入ったのである。この期に及んでやるべきことはただ一つ。走る、走る。背中にはバックパック、そして手にはセブンイレブンのビニール袋に入った水を持ちながら。
 チェックインした時、既に離陸まで1時間をゆうに切っていた。
 パスポートコントロールの列に並んで、あと3人ほどとなった時ハッとした。時計がない。腕にまいておくと、汗をかいて気持ち悪いし、くっきりとそこだけが日に焼けずに残るのがいやなので、ウエストポーチのベルトに付けておいたのだが、それがないのである。落とした場所は明らかだ、機内に預ける荷物のチェックカウンターで、慌てていたため勘違いしてウエストポーチも外したのだ。その時は気付かなかったが、落とすとしたらそこしかあり得ない。
 走って受け付けに戻った。先ほどの職員に必死に訴えた。しかし対応はあっけない。
 「そんなものはない」
 そんなバカな!と思い周囲をろうろと探していたら、「ああ、あったあった。これだろ」とニヤニヤしながら渡してくれた。さあ、出国手続きに戻らなければ、と思いきや右手を突き出して、「バーツ、バーツ」と、露骨に賄賂を要求してきた。ふざけてんじゃない。
 「コープクン(ありがとう)」とだけ言ってさっさと引き返した。
 指定されたロビーから搭乗する飛行機を見ると「Royal Air Cambodge」とある。始めて聞く名前だ。真っ白な機体に青と金のライン、そしてBOEING737と書いてある。正直言ってその文字を見つけたときはほっとした。
 機内はなんだか独特の生臭さが漂っていた。
 150人ほどの容量があるのに、実際には乗客は20人程度である。しかもその内の4人が日本人。
 40分ほどの短いフライトの間に、簡単な機内食が供された。オレンジジュース、ピリッとした野菜サラダ、果物4種、それにクロワッサンにハムなどをはさんだサンドイッチ。このサンドイッチは大変においしかった。カンボジアやヴェトナムは、フランス統治の影響からパンがうまいということをどこかで耳にしたことがあった。かなり期待できるカンボジアのスタートであった。
 ここでもアルコールが無料だったので迷わずビールを飲んだ。眼下に広がる広大な森を眺めながら思った、僕はさしずめ優雅な貴族というところか。 入国カードにも「カンボジア王国へようこそ」と記載されているように、このフライトは王国から王国への旅なのである。
 優雅な空の旅から地上に戻る僕を待っていたのは、赤い絨毯や黒光るリムジンではなかった。赤茶けた地面の一角に滑走路が引かれているポチェントン空港では、まず自分の足で歩いて空港ビルへ向かわなくてはならなかった。
 カッと照りつける太陽、真っ青な空に浮かぶ真っ白な雲。そして乾いた空気。
 入国手続きの前に、まずヴィザを取得する必要があった。
 ヴィザは空港ですぐに取れる。顔写真とUS20$が必要。ただし、一応は決まっているはずの写真の枚数やサイズは結構どうでもいいらしい。
 ここカンボジアに限ったことではないが、ドル紙幣の方が通りがいい。ただし、セントは用いないのでおつりは現地通貨で出てくる。とは言え、値切るときにも現地通貨の方が細かく落とせるし、ドルだと店側に有利なレートで換算されてしまうので、やはりある程度は現地通貨も必要だ。ちなみに、この時は1$=2650Rielであった。ただし、最低の紙幣が100リエルで硬貨がないため、1ドルを両替すると2600リエルしか手元には戻ってこない。旅行者が必要とするものの中でもっとも安いであろうと思われる水は、1リットルほどで500リエル。
 入国ロビーというほどの代物でもないのだが、そこで話をまとめ、二人の日本人とタクシーをシェアすることになった。一人は早稲田の学生、そしてもう一人は、すでに定年したという男性。
 「いやあ、タイにアパート借りて気楽に暮らしてるんだけど、ヴィザが切れそうになったから一度こっちに出てきたんだ」と、豪快に笑う彼は「もう、やめたけど」と言いながらも、カンボジアでの女性やドラッグの話をしていた。曰く、「プノンペンのマリファナは効かないからやめた方がいいですよ」エトセトラ……。
 精算する時に、僕は細かいドル紙幣を持っていなかったので不本意にも彼に借りることになった。「あとで必ずお返しします」とは言ったものの、残念ながらその日は会う機会がなかった。ところが偶然にも、数日後にヴェトナムへ発つ時に、部屋を出た途端に出会ったのだ。しっかりとお礼を言って返しておいた。

キャピトール
 意外にも彼もキャピトールに泊まるとのこと。プノンペンのゲストハウスの代表格であるキャピトールは二つあって、それぞれ「キャピワン(Capitol 1)」「キャピツー(Capitol 2)」と呼ばれることもある。ただし、実はここよりも鉄道駅の近くの「レイクサイド」の方が安いのだそうだ。
 キャピトールも、一階の食堂にいつもぶらぶらと多くの旅行者がたむろして、コーラやアンコールビールを飲んだり、おしゃべりに興じたりしている。そして、掲示板には「何月何日にヴェトナム国境までタクシーをシェアする相手を求む。こちらはアメリカ人男性の3人組だ。フロントに伝言を残しておいてくれ」とか「中古のカメラを探している。応相談」と言った具合のメモがいくつも貼ってある。
 ここでは先ほどの早稲田の学生、宮崎君とツインの部屋をシェアすることにした。バックパッカーのたまり場と聞いていた割にはドミトリーもなく、部屋は広く清潔であった。蚊帳は破れていないし、シーツもピッとしている。壁には2台の扇風機がかかっていて、どちらもしっかりと風を送ってきた。
 キャピトールのフロントではドル紙幣からリエルへの両替はできるが、まずは円のトラヴェラーズチェックをドルに替える必要があったので、「細かいのは用意していない」と銀行に断られた後、「チェックも両替できます」と出ている旅行代理店へ入っていった。おそらく華人であろう彼は大変にニコニコとした対応だったが、実は非常にしたたかだった。
 僕も宮崎君もその後の予定はアンコールワット見物であったから、シェムリァップに向かう船のチケットをここで25ドルで手配した。後から知ったのだが、キャピトールなら20ドルであった。ちなみに、キャピトールの下にたむろしているバイクタクシーの運転手を通せば現地人の値段に多少の手数料を上乗せするものの18ドルで手に入るようだった。
 「チケットは5時に取りに来て下さい」と彼が言った。
 ついでに、二人ともヴェトナムヴィザの申請を頼んだ。65ドル(記憶は曖昧だ)で、最初は1週間後と言われたが、宮崎君が「それは困る、6日後の飛行機のチケットを取っているんだ」とごねた。彼はバンコクからストップオーヴァーを利用してここに寄っているとのこと。あっさりと「じゃあ、6日後の11時半に来てください」ということになる。わけが分からない。
 しかし、宮崎君はパスポートをキャピトールに置き忘れていたので、急いで取りに戻った。
 「彼が戻ってくるまで、ここで待たせてもらっていいかな」「もちろん(Why not?)」
 Why not? いい言葉だ。相手をとても安心させる。それ以外の否定的な可能性を完全に排除して心地よいただ一本のルートだけを提示する。いかにも英語的な表現だから、初対面の相手を打ち解けさせるには格好の表現。
 おかげで僕は、彼が戻ってくるまでの時間をファンの真下のソファーで過ごすことができた。パンフレットをパラパラめくったり、壁に貼られた世界地図を眺めて、自分の位置を把握しようと努めたりした。マレーシアの観光のポスターには「Kuala Lumpur」とある。知らなかった。何となく日本語の感覚から一単語だと思っていたが。クアラ=ルンプールという表記の方が正しいらしい。
 プノンペンの街は汚い。東南アジアの街並、と聞いて多くの人が頭に浮かべるある種の風景に極めて近いものがあるのではないか。果物や魚や米などの生ゴミが路上に放ったらかしで、そこに蝿がたかっている。道も、主な数本をのぞいては舗装されていないから、数多くのバイクが通る度に砂埃が舞い上がる。歩いていると一つのブロックについて一人以上もの頻度で、シクロ(自転車の前にシートを付けて人を運ぶ)やバイクタクシーの運転手が話しかけてくる。しかもしつこい。僕は、まだまだ余裕がなかったのでほとんど無視していたのだが、宮崎君は違った。彼は余裕を持って楽しむというスタイルを僕に教えてくれた。
 一番愉快だったのは桂林との会話。桂林はキャピトールの下にたむろするバイタク運転手の中でもリーダー格で、どう見ても僕よりは年下だったが、たまたま「桂林」の文字とパンダの絵が入ったTシャツを着ていたために宮崎君がそう呼び始めたのだった。
 その桂林君たちは実にステレオタイプな話題を持ちかけてくる。
 「どうだ、いいのを紹介するぞ。女はどうだ」とか「オマンコ」などと言ってくる。僕はさっさとキャピトールのフロントに通じる階段を上がろうとしたのだが、宮崎君はその輪に混じって真剣な顔をして、「オレ、男が好きなんだ」と言い放った。爆笑の渦がわき起こった。そして彼は周囲から「ホモ、ホモ!」と指を指されたのだった。しかし敵もさるもの、「兄ちゃん、ワシは男も知っとるで」と言い出す奴が現れて、これにはさすがの宮崎君もちょっと困った顔をしていた。
 これは一つの新しい体験だった。否定するのではなく、相手と楽しくやりあうといういい例をみせてもらった。
 街は整ってるとは言えないが、京都のようにしかしもっとシステマティックに、道が直交していているので分かりやすい。迷ったと思っても、とにかくどちらかの方向に突き進めば大きな通りにはぶつかる。
 目指したのは国立博物館。ここでもチケットはドルを要求された。正門の前には、目がつぶれた中年男性が物車椅子に乗って物乞いをしていた。
 チケットのメッセージは英語で書かれていたが、cultureであるべきところがcuttureと印刷されていた。ここはカンボジア国立博物館なのだ。
 池のある中庭をぐるっと囲むような建物の中に展示品はあったが、文字どおり「あった」という以外のどのような様子でもなかった。そのすべてが、理科準備室の片隅に忘れられた鉱物の標本のようにある種の哀しさを帯びていた。理科準備室にはむしろ暮れかけた夕日が差し込む方がふさわしいが、ここには午後の熱帯の光が溢れている。ヤモリが数匹、壁をするすると伝う。
 あっと言う間に一周してベンチに腰を下ろしたが、宮崎君がすぐに、「日陰に入ろう」と言った。現実的な提案だった。それほどまでに暑い。しかし、もの悲しい。これがカンボジアなという国なのか。
 その重たくからみつく空気を無理に振り切るように僕たちはそこを後にした。
 ヴィザ取得のためにこれから数日はパスポートを持たずに行動することになる。何が困るかと言えば、トラヴェラーズチェックの両替だ。僕はちょっと考えて、ここの代理店でチケットを受け取るついでに、少し余分にドルを手に入れておくことにした。ここで僕は少し粘ってみた。「キャピトールだったらもっと安い値段でヴィザもチケットもとれるじゃないか。まあ、でももうサインもしているから、それについては何も言わないよ。けど、その代わりと言っては何だけど、今回の両替は多少の色を付けてくれてもいいんじゃないかな」
 結局、「しょうがないですねえ」という顔をしながらも2ドルだけさっきより多くもらった。実はいい人なのかもしれない。しかし、最初からキャピトールで手配していたらもう少し浮いていたのだ。まあ、気付かなかった僕らが悪いのであって、この街で堅実に商売を営む彼には非はない。
 彼がクメール語で「この人たちを船着き場まで1ドルで送ってほしい」と書いたメモを渡してくれた。
「これをバイタクに見せればいいですよ。キャピトールからだったら10分くらいですけど、出発の30分前には着くようにして下さいね」と言った。本当に親切だ。
 キャピトールに戻ると、すっかり宮崎君は顔を覚えられていて、そのメモを見せて桂林と話をつけた。
 翌朝は早いので、豚の血を固めた具がのった汁ビーフンを近くの食堂で食べて、早々に寝た。夜は他にすることがなかったからというのもある。プノンペンの夜は暗い。そして特に僕たち異邦人は、闇の向こうには恐怖を感じるものだ。


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