湖の岸辺に見つけた熱帯

 5時半に起床。昨日、話を付けておいた桂林達のバイクに乗る。プノンペンの朝は早い。モニヴォン通りはもうバイクや自転車シクロでいっぱいだった。
 船着き場もにぎやかだ。
 よく、湖でみすぼらしい遊覧船やペンキのはがれかけた手漕ぎのボートを見かけるが、圧倒的にこの船は後者の方に近い。席は指定だったので窮屈な船内でとりあえず席を確認すると、僕は朝食を調達しに一度外に出た。
 人の集まるところには必ず屋台がある。1500リエルでサンドイッチを買った。コッペパンサイズのフランスパンをナイフで開いて、キューリ的なもの、レバーペースト的なもの、みそ的なものが挟まれ、コールスロー的なものが小さな袋に付いてくる。
 ここまで乗せてきてくれたバイタクの運転手が「向こうに着いたらキャピトールと同じ値段のゲストハウスの人間を迎えに来させる。もちろん送迎は無料だ。だから、ここに名前を書いてくれ。電話で連絡して、『ようこそ、……』と書いた札を用意させるから」
 しかし、宮崎君と僕は、もう少し安い260というゲストハウスに決めていたので断った。
 7時に船は動き出した。
 「あ、俺聞いたことがある。あの前に置いてあるテレビでかなりえげつないエロビデオ流すらしいぜ」と、彼は僕を期待させたが、そんなことはなかった。
 中は窮屈なので僕らは屋根の上で転がっていた。20分おきくらいに高床式の家が並んだ集落を通過していく。ボートはかなりのスピードなので、風がビュンビュンと流れていく。航跡にあおりを食らわないように、魚を捕っていた小さな船が櫂を操って岸辺に避ける。

トンレサップ湖
 草原の果てには地平線。何を考えるでもなく降り注ぐ陽光を一身に浴びていた。その時、ふいに僕は、空気の中に日本の夏と同じものを感じた。いや、それは「もの」や「こと」ではなかった。が、確実に今まで20回味わってきたのと同じ感覚が僕を捉えたのだ。
 まるで、うだるような午後の暑さ、冷蔵庫の中の麦茶でも飲んであとしばらく時を過ごせばヒグラシの鳴く夕方になる。早めの夕食をとったら、公園に花火に行くんだ。そんな、親しみのある夏。
 しかし、僕は今、トンレサップ湖の上にいるのだ。ここにやって来るまで名前すら知らなかった湖に。僕の地図では今まで「無」であった所に、「トンレサップ湖」と記入されたのだ。ここが日本でない証拠に、川縁にはヤシを始めとして熱帯の草木が繁茂している。
 そうか、僕は熱帯にいるんだ。1週間経ってはじめて、僕は自分が存在している所を身体で納得した。
 途中で、一隻の船が僕らのボートを追い抜いていった。スピードはそれほど違いはなかったのだが、向こうの方がわずかに早かったから、じわじわと抜かれていった。向こうも大勢の観光客を乗せている。船が横に並ぶと、欧米人旅行者はおおはしゃぎで手を振り合い、中にはバッグから取り出したビデオを回す人もいた。家に帰って、「これがトンレサップ湖なんだよ」とでも言いながら 友人達にでも見せるのだろうか。
 欧米人のバックパッカーは両極端だ。とにかくにぎやかか、逆に一人に篭っているかのどちらかというパターンが非常に多い。2隻の船には前者のグループが多かったようだ。しかし、 一体何が楽しくてあんなに大声を出し合ってコミュニケーションをとるんだろう。
 あまりの早起きだったので、そのまま僕は仰向けに転がったままうたた寝をした。
 アンコールワットへの玄関口、シェムリェップの町に着いたのは予定から30分遅れた12時半だった。別に予定なんてどうでもいいのだが。
 船着き場の周囲は水上集落だった。家の中から小さな子が手を振ってくる。野菜や果物を積んだボートをゆっくりと漕ぐおばさんがいる。
 しかし、船着き場そのものは、たまらなく賑やかだった。
 「お兄さん、私の話を聞いて下さい」「ここはいいゲストハウスです」「無料で車に乗れます」……
 20人くらいの集団が、下りてくる旅行者めがけて襲ってくる。すさまじい喧噪だ。しかもこれらのセリフはそのまま日本語で耳に届く。声だけでなく、手に手にポスター(と言っても、何かの裏に手書きした)を持って目の前に突き出してくる。
 僕はさっさとその中を通り過ぎようとしても彼らはあきらめない。
 「おにーさん、行かないで下さい」「私の言うこと聞いて下さい」
 彼らは以前にここに来た日本人から言葉を習ったのだろうけど、なぜ彼女ら・彼らはもう少し気の利いたセリフを教えなかったのだろう。呼びかけで「おにーさん」と言われたら、その後には「ちょっと楽しんでいかない。いい子がいるよ」というセリフが反射的に頭に浮かんでしまう。あるいは、これは僕の想像力の貧困からか。
 その際限のない日本語の中から、今度は生粋の日本語が耳に入った。「260だったらこっちですよ」
 かれこれ3週間も260にステイしている初老の日本人男性で、暇だから水上集落を見物がてらドライヴァーと一緒に勧誘に来たのだという。
 コォン君というとても理知的な顔立ちの青年のトヨタのバンに、数人の日本人とともに乗り込んだ。
 実はこの260というのは正確にはゲストハウスの名前ではない。ちゃんと「チェンラゲストハウス」という名前があるのだが、この町のゲストハウスは数字で呼ばれることが多い。おそらくは番地なのだろうが定かではなかった。
 途中で一度、警察の検問を受けて10分ほどで着いた。
 プノンペンとは根本的に何かが違う。町はこぢんまりとしているが、舗装されている割合ははるかに高い。それに緑が多いから感じがいい。町のペースそのものがのんびりしていて、自然に心身の無理な緊張がすっと引いていくようだ。
 ここは、日本人に評判が高いらしく、滞在しているのはほとんどが日本人。そして、わずかにフランス人。これまでのゲストハウスと比べて、日:欧の割合が逆転している。
チェンラゲストハウス
 腹が減ったのでメニューにあった「ヴェトナムヌードル」をオーダーした。ご丁寧に日本語でメニューが書かれていた。600リエルだった。
 親切に教えてくれた人によると、部屋ごとにノートが決められていて、それは常にロビーに置いてある。そこに名前と日付と注文したものを書き込んでおく。そしてチェックアウトの時にまとめて精算するというシステムだと。完全に自己申告制。
 カンボジアに来てヴェトナムヌードルというのもなあと思いはしたが、一番安かったのである。ちなみに、これより少しランクが高い「タイヌードル」というものもあった。
 さて、ドンブリのふたを開けると……そこには見慣れたインスタントラーメンが入っていた。一体どこがヴェトナムなんだ? ちなみに、タイヌードルだとこれにとうがらしがのっているという代物らしい。仕方なくそいつを平らげた。
 とりあえずぼーっと、「魔の山」の続きを読んでいた。入ってすぐが、ロビーと言うかリヴィングと言うか共有のスペースになっているのだが、そこは薄暗いので本を読むのに適さない。僕が気に入った居場所は玄関である。ここには二つのテーブルと、いくつかの椅子が置いてある。ゲストハウスの中は靴を脱ぐシステムだったので、裸足のまま玄関に出てのんびりと時を過ごしていた。すぐそこが砂地だから、確かに汚いと言えば言えないことはない。しかし乾燥しているので別に気にもならない程度である。唯一、読書のじゃまになったのは、まとわりつく蝿だけだった。
 その場所には先客がいた。彼は髪の毛を茶色くしていたので、なるほどカンボジアでも茶髪の人もいるのだなあくらいに思っていた。と、「今日、着かれたんですか?」「えっ、日本の方なんですか。てっきり地元の人やと……」「何を言うてるんですか、僕も日本人ですよ」と、こってりした大阪弁の会話が始まった。
 「大阪外大の3回終わったところで、1年休学して出てきたんですよ。まあ、帰ったら即就職活動が待ってるんですけどね」「結構大変やないですか。こういう生活とリクルートスーツを着て面接受けたりするギャップなんか」「まあ、どうせ3、4年でやめるから、多分」
 「外大で何語やってるんですか」「インドネシア語。ほんまは、オーストラリアやりたかったんやけど、英語関係ってどうしてもレヴェルが高いんやわ。で、それやったら、オーストラリアの隣のインドネシアにしようかなって思って」
 ユニークだ。
 「そしたら、もうインドネシア語バリバリですか」「そりゃあ、もう……。1から10までめちゃめちゃ早く数えられますよ」
 完全に大阪人のノリ。聞けば高槻に住んでいるらしい。京都から阪急電車で20分くらいの所。僕は毎週、高槻の農場に実習に通っている。段々と彼に親しみを抱いてきた。
 最初僕が彼のことを勘違いした理由も語ってくれた。一目で彼を日本人だと見破るのは難しかったのだ。細身の体の上に、頬はこけ、目はぎょろっとし、袖や裾から突き出た手足はあまりにも脆い。
 実はもうかれこれ4日ほど下痢が止まらないと言う。水を飲んでもすぐに、上か下からでてしまう。もともと痩せていたのが、ここまでに至ったのだと。宿の人に薬をもらっているが、一向に回復しないらしい。本当はそんなに長く滞在するつもりではなかったのに、もうしかたがないからここに腰を据えているんだ、と。
 僕は彼に修行僧というニックネームを勝手に付けた。ガリガリの体で、うつろな瞳でじっと虚空を見つめる彼のイメージからだった。
 夕方、コォン君の薦めで夕陽を眺めにアンコールワットへ出かけた。バイタクで往復1ドル。入場には料金が必要だが、翌日からのチケットを持っていれば前日の夕方は入れるという。僕は3日間で40ドルというチケットを買った。
 アンコールワット。世界史の教科書で見た建物が、今、目の前にある。なみなみと水をたたえた堀が周囲を囲んでいる。この堀は洪水の緩和などの役割を果たしていた、と後日ゲストハウスに置いてあった本では解説してあった。
 入り口付近には、4、5才の物売りが数人いる。片言の日本語を操る者もあるが、大抵は英語だ。しかも、値段と「安い」をとにかく連発する。その小さな手には、Tシャツや、竹で作られた笛を持って。
 幅広の堀を渡り、門を一つくぐると、またそのずっと向こうに建物の本体がある。僕らの他にも夕暮れを見ようと観光客が結構いる。歩いてきた方を振り返ったが、残念ながら雲に隠れて日没を目にすることはできなかった。
 内部は明日の楽しみにとっておこうとバイタクの待つ方へ歩いていく。途中、石造りの門をくぐるときに聞こえたもの悲しい笛の音。物乞いの老人が、光を失った瞳で笛を吹いていた。


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