血塗られた教室

 「タクシー来たよ」という、ママさんの一言で眠りから引きはがされた。まだ朝の6時であるが、このままベッドに留まっていては船が出てしまう。大体の荷造りは昨晩の内に済ませておいたので、「色々とありがとう。ここはすごく楽しいゲストハウスだった。カンボジアにまた来ることがあったら、必ず訪れますね」と言うと、宿の家族が手を降ってくれるチェンラゲストハウスを後にした。
 船着き場で朝食を調達したが、キューリ・ソーセージ・鶏肉・トマトをご飯にのせた弁当がなんと2000リエル(≒80円)もしたのには驚いた。
 来る時は「ビッグスピードボート」だったのに、帰りは単に「スピードボート」だった。昨日の夕方にママさんにチケットの手配を頼んだのでは、少し遅かったようだ。残念ながら席は早い者勝ちで、中々スペースを見つけられないでうろうろしていたら、日本人のカップルが見かねて席を詰めてくれた。
 目の前すぐがトイレだったのだが、扉の前のイスに座っていた人は、誰かが用を足しにやってくる度に席を立たねばならず大変そうだった。
 途中3時間半ほどの所で止まったので、ずいぶん早く着いたと思ったのだが、単に給油のために停泊しただけだった。
 物売りがいっぱいやってくる。ただでさえ窮屈な船内だから、僕はまた屋根に上がった。バンテアイスレイですら何もなかったのだから、よもや沿岸から銃撃されることはないだろうという確信もあったことだし。
 何もすることがないし、風景も代わりばえがしないので、ウィークエンドマーケットで手に入れたアタッチメントタイプのサングラスをかけて、ごろっと転がっていた。
 相も変わらず太陽が照りつけていたので、プノンペンに着く頃には太ももが真っ赤に焼けていた。しかし、日焼けしたのはヒリヒリする太ももだけではないことは、その日の夜になって思い知らされることになった。
 キャピ1に再びチェックインして、今日は市内観光に出かけることにした。ここからキリングフィールドを経由してトゥールスレーン博物館までバイタクで2ドルということに話がまとまった。
 そのキリングフィールドは5分もあれば十分に見て回れる。単なる空き地のような場所にガラスの塔が建っていて、その中には無数の人骨が並んでいる。地面からは、.埋められたままの服の切れ端が所々のぞいている。そう遠くない過去にここで大量虐殺が行われたのだ。英語でも記されている案内には、生々しい言葉が列挙されていたが、まぎれもなく事実なのである。
 しかし、それだけと言えばそれだけである。
 奇妙だったのは、「いくらか払ったら銃を撃たせてやる」という受付の男の言葉。僕にはそういう興味がないのであっさりと断った。
 思っていたほど大したことなかった(視覚的に、という程度の意味である)。だから僕らはおかしな言い方だが、260で「前に行ったことがあるけど、途中で気分が悪くなって外に出てしまう人もいた」という話を聞いていたこともある、次のトゥールスレーンに期待を寄せていた。
 恐い物見たさという名の好奇心があったことは否めない。しかし、弁解するわけではないが、好奇心こそが全ての出発点である。要は、その先に何を見、そこからどのようなものを得るかに依っているのだから。
 トゥールスレーンは、伸び放題の草地を囲むように立つ3つの建物からなっている牢獄の跡である。ポルポト体制に反対する人はもとより、老人や子どもまで容赦なく連行し、拷問を加え、そして殺していった。
 牢獄にされる以前は、子どもの歓声でにぎわう学校であった。
 教室が牢獄に改造され、当時の姿のままとどめてある。かつては、黒板が掛けられ、教師がその前に立って教えたであろう場所は、くっきりと黒板の跡が壁に残るだけだった。
 マットレスもなく、単に鉄を組み合わせただけのベッドは人型にへこみ、床には黒変した血痕がそのまま残る。足枷なども、錆びてはいるものの無造作に床に転がっていた。そして、発見当時の血塗れの遺体の白黒の写真が展示されている。
 中には、いくつかの教室の壁を破壊してつなげ、煉瓦を積み重ねただけで作られた独房がずらっと並んでいる所もあった。その独房は手足を伸ばして寝るという行為すら許されないほどの空間しかなかった。
 また、廊下には「囚人の行動規範」とも言える、文章が並んでいた。もちろん僕はそれをクメール語ではなく英語で読んだわけだが、それは「自分で物を考えるな、命令には何があろうとすぐに従え」という極めて非人間的な思想に貫かれていた。
 また、収容者の顔写真が、何百枚と壁一面に張り付けられている教室は、既に個としてではなく人間という全体として異様だった。小学生くらいの子どもたちばかりの写真に至っては気分が悪くなる、というのも通り越して、ただ呆然自失となった。
 数々の拷問の道具も展示されていた。どのように使われたかのイラストも同時にあった。ドラム缶のような物に水を張り、天井から吊して頭から漬ける道具など。
 当時の虐殺の様子を再現した絵には、ポルポト派の兵士が、すがりつく母親の目の前で、赤ん坊の足を握り、木の幹に叩き付けているものがあった。よく、日本の田舎にあるうらさびれた一昔前の看板のように惨めな絵なのだが、それが一層恐怖をかき立てる。
 しかし、僕が一番ドキッとしたのは、壁一面にドクロで形取られたカンボジアの国土の形だった。これも作りは安っぽいなのだが、それだけに直接的に感覚に訴えてくる。
 バイタクはここまで僕らを送ると帰っていったから、宮崎君と二人押し黙ったままの帰路となった。
 宮崎君は僕の風邪がうつったらしく早々にベッドにもぐり込んだ。
 キャピ1の下でのんびりしていると、帰り道に両替をした所で出会ったレイクサイドホテル(そのおしゃれな名前とは裏腹に、ツインで3ドルだと言う)に滞在しているという人が情報交換にやって来た。実は彼も北京に留学しているということだったので、別のテーブルでしゃべっていた、260から一緒に戻ってきた北京外語大の人に引き合わせると話が弾んでいたようだ。
 人のつながりはどこに結び目があるかがわからないが、それがまたおもしろい。みんなどこかでつながっている。
 旅の間にあちこちで再会という偶然に出くわしたが、ここでもまた数日振りに出会った人がいた。アンコールワットの前の木陰で出会ったおばちゃんだ。彼女たちも、明日ヴェトナムヴィザがおりると言うから、だったら一緒に行こうということで話がまとまった。明日の正午にここに集合だ。
 僕自信もくたびれていたので、早めに寝ようと思いシャワーを浴びた。その時、鏡に映った顔を見て驚いた。バンダナをしていた部分だけが帯状に真っ白なのである。今日一日でかなり日に焼けたのに、額だけは以前のまま。間抜けとしか形容のしようがない。
 明日はまた長時間の移動日になるから、今までの旅の疲れを吹き飛ばし、十分に充電するために翌朝まで13時間も寝ていたのだが、途中で夢を見た。
 僕は大阪でいつものテレビ局のアルバイトをしている。しかし、旅の途中だという感覚は残っているので「早くプノンペンに戻らなければ」というもどかしい思いをする、という内容だった。フロイトだったらどんな判断を加えるのだろうか。


戻る 目次 進む

ホームページ