ケンカ!

 やかましい吹奏楽で目覚めた。枕元の時計を見るとまだ7時にもなっていない。なんで、こんな時間からうるさくやってるんだ。
 同じ部屋の人たちも何となく目が覚めたらしいが、みんなその音楽を振り切るようにもう一度眠りについた。ただ一人好奇心の旺盛な、僕のとなりに寝ていた人だけが何事かと様子を見に降りたようだった。
 「どうも、葬式のようだな。派手な行進だったから、先頭に銀色の棺がなけりゃ、まるで何かのパレードだよ」
 僕も台湾で以前ににぎやかな葬式に出くわしたことがある。死に対する考え方の違いか。
 結局活動を開始したのは、その葬儀から3時間も後のことだった。さっきの棺の中の人は、もう大地に還っていることだろう。
 昨日頼んでおいた列車の状況を聞きに行こうと思ったら、また宮崎君と出会った。付き合ってフォングーラオの中で朝食をとる。僕はフォー(肉が入っていない)で、5000ドン(≒50円)だった。しかもまずい。やはりこんな所で飯を食うものではない。
 しかも宮崎君が注文したメニューは「できない」と言われた。なんのことはない、今は停電中だからだ。仕方なく彼はパンをかじっていた。
 「さっきフエまでのチケットを買いに駅まで行ってたんだ」と彼は言った。シクロで片道1万ドン(≒100円)くらいだと言うから、それならこちらの代理店で頼んで手数料を払うよりも安い。
 レロイ通り沿いにあるという両替屋(当然、現金から現金への)を見つけるのにずいぶんな時間がとられてしまった。ヴェトナムの鉄道はドンでないと受け取ってくれない。結局20ドルほど替えたら、ドンの札束が手元にやってきた。唐突に大金持ちになった気がする。
 シクロを拾った。「ステーション」とか「レイルウェイ」とか言ってる内に、おっちゃんは「よしよし分かった」と言った。7500ドン(75円)まで値切った。ところがである、ホントに行く場所が分かってるのか怪しいので、地図で示そうとガイドブックを開いたら、「サイゴン駅(Ga Saigon)」という表記があった。そいつを見せると、ようやく自分がこの客を乗せてどこへ行けばいいか納得したようである。いいかげんなものだ。しかも唐突に「だったら1万出せ」と言ってくる。まあ僕は最初から1万まで値切るつもりだったが9000まで値切ってから、渋々、乗り込んだ。
 駅に着くと、料金を払おうとした僕を制して彼が言うには「帰りもどうせシクロに乗るんだったら、俺が待っててやる」。
 とりあえずS6・ダナンと書いてある窓口に並んだ。S6というのは汽車の等級で、数字が小さいほど速いが高い。窓口には揃いのアオザイを着た女性がのんびりと仕事をしている。
 アオザイというのは、ヴェトナムの女性の伝統的な衣裳で、一見するとチャイナドレスのような雰囲気だが、上下ツーピースに分かれている。上着の部分は腰の辺りで両サイドに長い切れ込みが入っている。女子高生の制服などにも採用されていて、街角でもかなり売られているが、少なくとも一般の人で着ているのはそれほど数はいなかった。そして肝心の女子高生もちょうど夏休み期間であったためにそう多くを目にすることはできなかった。
 このアオザイ、カオサン辺りで「ヴェトナムにも行こうと思ってるんですよ」というような話しをしている時に、「アオザイ! ヴェトナムだったらもう何はなくともアオザイですよ」と言い出した人がいて、周りの人でもヴェトナムを知っている数人は「まったくだ」というように深くうなずいたことがあった。なぜか。答は簡単。アオザイは非常に透けやすい素地でできているのだ。僕も時間を持て余した時には、行き交う人々の中にごくたまに通りかかるアオザイの少女を見出すべく、街角でただひたすらに通りを眺めていたこともあるほどだ。しかもさらに素晴らしいことに、その腰のスリットは非常に深いので、ちょうどウェストの辺りがちらっと見えることもある。
 しかるに、ここヴェトナム国営鉄道の窓口でアオザイを身にまとっている女性達の平均年齢は高い。つまり、そのスリットからのぞく部分はウェストと言うよりも、脇腹という方がふさわしく、たぷっとしたお肉がのぞいているのだ。アオザイも着る人によってがらりと印象が変わるものだ。
 話しを戻そう。僕の前には一人いるだけだったが、行列は徐々に長くなっていく。しかも目の前の駅員の対応は遅々として進まない。一応コンピューターで制御されているようなのだが、どうもモニターを見て、手で何やら書き込んだりしている。ローテクだ。その内におっさんが一人割り込んできた、堂々と。「なにやってんねん、おっさん。俺が先や」と、これは地のまま文句を付けた。おとなしく引っ込んだものの、ようやく番が回ってきて用意したメモを窓口に見せると「1番の窓口へ行ってくれ」とのつれない対応。
 その1番窓口にはちゃんと「外国人用」という文字があった。ここでまた前に並んだおっさんの対応が遅い。
 ここもおばちゃん達がガラスの仕切りの向こうで働いている。やれやれ、と思っているとまた割り込んでくる不届き者がいた。彼は当然外国人だからとりあえず英語で文句を言う。ところが「違う、違う。たまたまここで荷物の整理をしてるだけだよ」との返事。まったく紛らわしい。
 ようやく、本当に僕の順番が回ってきた。ところが、ちゃんとメモを見せたにも関わらず(そりゃあ確かにseatと書くべき所をsheatと書き間違えてはいたんだけど)、行き先を間違えて、もう一度やり直すもんだからまた時間がかかる。しかも勤務を終えて帰っていく人が、この窓口にミネラルウォーターを忘れていたので、まったく毛一筋ほどの躊躇もなく、僕の前ににゅっと手を突き出してそれをつかんでいった。何ともはや……。
 チケット一枚に40分近くかかった。
 約束通りさっきのシクロの運ちゃんが待っていた。「ノーマネーで送る」と言ってくる。こいつはあまりに疑わしい。くどいほど何度も、その英語をあまり解さない彼と大仰なジェスチュアを交えて確かめた。「ほんとに、ここから、シンカフェまで」と言って地図を示す、「ノーマネー、つまり0ドンで行ってくれるんだな」。「いいかい、来る時が9000ドンで」と言い、電卓に9000と打ってみせる、「帰りがノーマネーなんだな」と言って0を加えて、その結果の9000という数字を見せる。
 「オーケー、ノープロブレム。ノーマネー、オーケー」。ここまで言われたら、こっちとしても疑わしいながらも乗らないわけにはいかない。
 シンカフェ前に着いたところで、それではと9000ドン払って部屋に戻ろうとしたら、彼が追いかけてくる。「往復しただろ、だからこの倍払え」と理不尽な、しかしある程度は予想の内にあったセリフを吐いてくる。先ほどの駅でのこともあってかなりイライラしていたから「言うとおりに払っただろ、じゃあな」とさっさ歩く。しかし彼は食い下がらない。シンカフェの中まで着いてきてレセプションの人がたどたどしく通訳してくれたが、どうもはっきりと伝わらない。こちらにはもとより9000しか出す気がないのにまだ「倍、せめて15000は出せ」と言ってくる。堪忍袋の緒が切れた。切れると大阪弁だ。「おっちゃん、何ゆーてんねん。さっき何度も確認したやろ。えー加減なことゆーとったらあかんで。そこまでゆーんやったら警察でもどこでも出るとこ出よやないか!」
 迫力勝ち。
 後から聞いた話だが、ヴェトナムのシクロに関するこの手のトラブルは結構あるらしい。旅行者によっては始めからシクロだけは乗らないと決めている人もいるほどだそうだ。しかしまあ、これも一つの体験だ。
 少し気を落ちつけてから手持ちが6ドルほどしかないことに気付いたのでラオス領事館でヴィザを取ってから、宮崎君に教えてもらった、市民劇場のそばにもあるというヴェトコンバンクを探した。しかし銀行が閉まる時間になっても見つからなかった。少しまずい状況だ。さて、どうしたものかと思案していると、先日のココナツジュース売りの二人組にまた出くわした。
 彼らと少し言葉を交わしている内にちょっと元気が回復してきた。
 外貨両替という看板を出している店を運良く見つけたのだが、当然円のトラヴェラーズチェックは扱っていない。明日の朝には汽車に乗り込むから、さすがに6ドルでは心許ないので、やむを得ずクレジットカードでキャッシングをした。
 ちょっと現金が手元にあると、例えそれが借金であろうと、すぐに気が大きくなってしまうのが僕の悪い癖だ。
 その足で国営デパートでまたTシャツを買った。ホーチミンの似顔絵のバックに、真っ赤な国旗が揺らめいているデザインの1枚は、右翼思想の友人へのみやげにしようと思う。おもしろいことに、モノは同じでも、ベンタン市場よりこの国営デパートの方が安かった。まあ、デパートと言ってもクーラーなどがあるわけもなく、日本の地方のスーパーを30年ほど昔にタイプスリップさせたような代物なのだが。
 自分でその洒落たみやげに満足して、ドリンクコーナーの一角で333というビールを飲んだ。もう、これだけで今日起こったことも忘れてかなり幸せな気分になれた。
 さらに帰る道すがらフランスパンサンドウィッチを買ってほおばりながら、夕暮れのレライ通りを歩いた。フォングーラオ通りを出てすぐの所にニューワールドホテルという超豪華なホテル、おそらくそれは日本でも僕は泊まったことがないようなレヴェルの、があるのだが、その横を通りながら感じた。「この曇り一つなく磨かれたガラスの向こうは、今の僕には手の届かない別世界だ。しかし今は金無きが故の自由を謳歌しているのだ」と。
 夕食は昨日見つけた食堂。豚の煮込み、野菜の煮込み、それにトマト、おくら、しゃくしゃくしたセロリのような野菜がたっぷりと入った甘酸っぱいスープとたっぷりのご飯。これで8000ドン(≒80円)。幸せだ。


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