冷えたビールへの思い

 ヒマだ。とっくに目覚めているのにも関わらず10時過ぎまで無理矢理にベッドの中でゴロゴロしようと努めた。これが、月曜から金曜まで毎日5コマ出席した後の日曜日なら、こういった時間を過ごすのは無上の喜びになり得るだろうに。
 さすがに限界がある。おかげでようやく「魔の山」上巻を読了。下巻に取りかかっても、節ごとに足の消毒を続ける。またも足は琥珀の標本だ。ラベルを付けてどこかに展示できるかもしれない。「20世紀後半のホモサピエンスの足;リンパ腺に固められたため保存状態が良く……」なんて、説明書きが付いたりして。
 ここの部屋には一応、お茶が用意されている。とは言え、それほどいいものでもない。ボロボロに錆びている茶筒のふたを、その錆が混ざらないようにそっと開け、お茶葉を取り出す。花柄の魔法瓶からお湯を注ぎ、耳が取れてる小振りのカップにつぐ。朝食は、ホーチミンシティーから持ってきて、すでに黒ずんでいるシュガーアップルをかじる。
 「魔の山」の1日5回の贅沢な食事が心底うらやましい。マッチ売りの少女ならば空想の世界で空腹を満たせたかもしれない。でも、僕がここで息絶えるには少し早すぎる。
 手紙を書くことにした。まだまだ余っているアンコールワットの絵はがきだ。ある程度は友人の住所をメモしてきたのだが、この時ほどもっと準備しておけばよかったと感じたことはない。
 読書、治療、お茶、ゴロゴロ、これだけで夕方まで過ごすのは苦痛に近かった。精神的なものに加えて、実際に足も一向に回復せず、むしろ痛みを増していた。おかげで街歩きもできやしない。
 空腹感も募る。けれどそれ以上に体が欲するのはキーンと冷えたビール。
 6時になったらティム君が迎えに来る。よし、5時45分になったら支度をして出ていこうと決めたが、腕時計とのにらめっこは大変だ。時間は決して均質に流れてはいないことを知った。最後の10分、5分、そして秒針の最後の1周と、段々と長くなってくる。
 彼はまず、路地の奥にある彼の家に僕を連れて行った。家族に紹介されて、ぬるめのビールを1杯ごちそうになった。3才くらいのちょこまか歩き回る娘さんがかわいらしかった。
 94年版の「地球の歩き方」のコピーを棚から取り出して、「ここに書いてある魚と麺を鍋で煮る料理を食べに行こう」と誘ってきた。
 彼に案内されたのは、屋台に毛が生えたような店だった。銭湯にあるイスのような、小さなイスに腰掛けた。周りの人たちはビール片手に楽しそうにやってる。さあ、僕も冷たいビールが飲めるぞと否が応でものどが鳴る。その期待は半分だけ現実になった。確かにビールは出た。が、ぬるい。ああ、またなのかと落胆していると、彼が僕のグラスに氷をいくつか入れた。元々それほど濃いビールではないのに、溶けた氷で余計に薄まる。
 ちなみにタイのシンハビールはアルコールが高めだ。宮本輝の小説に「愉楽の園」というバンコクを舞台にした作品があるが、その中で「氷を入れて飲むとちょうどいい」といったセリフが登場する。
 しかし、こいつはあまりいただけない。しかも、水の素性がわからないから不安でもある。
 さて、鍋の方である。しゃぶしゃぶ鍋のような構造で、中央と下部に赤く炭が燃えている。あらかじめだしの中には魚と野菜が入れてある。この野菜はホーチミンシティーの食堂のスープに入っていたのと同じ、しゃくしゃくする何かの茎のようなものだ。 こいつが汁を吸ってて、かむとジュッと口の中にが広がる。
 カラシ菜なのような野菜と麺をその中で泳がせて、ニョクマムの入った小皿に取って食べる。これがめっぽうにウマイ。空腹だということを差し引いてもなお余りある。熱いからビールを飲む。するともうあっと言う間に汗だくになるが、そんなことは構っていられない。
 しかも「ヴェトナムの酒」というヤツが出てきて、お猪口でぐいぐいあけていく。おそらく昨日飲んだのと同じ焼酎だろう。
 しかし、冷えたビールへの思いは充たされることはなかった……。いつになったら飲めるのだろうか。
 「じゃあ、明日の朝にまた迎えに来るから、パスポートを受け取ったらラオバオまで行こう」とホテルの前で分かれた。
 ほろ酔い加減の体に冷たいシャワーは心地よかった。さて、下着をはこうと思って、全く何の気なしにそれをパンパンとはらったら、足にコツッと当たるものがあった。はっきりとその正体を見ることができなかったが、ヤツは動いた。しも、その動きは見覚えがある……。
 慌てて眼鏡をかけて隅の方に逃げたヤツの姿を確認すると、紛れもなく「ゴキブリ」であった。しかも、体は大きく触覚もかなり太い。さらに、黒光りする背中にはトロピカルな白い紋様まで付いていた。


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