ラオバオに向けて出発する前にしておかなければならないことがあった。消毒薬をもう少し買い足しておくこと、そして包帯を手に入れること。
もし、バンコクにいたなら、間違いなく医者にかかっていただろうというほどのケガで、昨日以来の消毒で多少は改善されたものの、依然としてリンパ液はあふれ、立つのがやっとという状況だった。とは言え、バンコクで病院に行ってたらかなりの料金を請求されたに違いない。僕はできるだけ旅費を浮かせるために、旅行保険にも入っていなかったのだし。
とりあえずティム君に薬局に向かってもらった。店のおばちゃんにケガの具合を見せると「あらあらひどいわねえ」という顔つきで、薬を処方してくれた。後ろの棚から大きなビンを取り出して、素手で白い錠剤をいくつか袋に入れた。さらに、濃い紫と濃いオレンジのカプセルも渡された。
通訳してくれたティム君によると……「この錠剤は化膿止めで、毎食後に服用。で、このカプセルは中身を患部に直接振りかけなさい」ということだった。
そして親切にも店先で患部を消毒し、カプセルの中身を振りかけ、包帯をまいてくれた。
消毒薬をもう一本と、予備の包帯、これら全てで6500ドン(≒65円)!
実際のところ、僕は飲み薬については若干の不安があったことは否めない。しかし頼るものはこれしかなかった。
パスポートを取りに行くと、先日やりあった例の彼女が応対に出て「来たわね」という感じでニヤッと笑った。
さあ、出発だ。ハンドルと座席の間にバックパックを無理矢理押し込め、僕は荷台にまたがった。
すぐに海を見下ろしながら、ちょっとした山を超えた。風はビュンビュンと気持ちがいい。当然、2人ともヘルメットなんかかぶっているわけもない。さあ、このまま日が暮れるまでにラオバオに着いて、あわよくば今日中にラオス入りできるかと期待を抱いたとたんのアクシデント発生。
バイクのエンジンが頼りなげな音を立て始め、ついにはストップ。さらに、ティム君は、バイクから下りるときに無情にも僕の足を踏みつけた! 声も出ないほどの激痛が足元から脳天に突き抜けた。「スミマセン、スミマセン」と彼もさっき傷口を眼前で見ているだけに必死に謝罪する。彼に悪意などないことは明らかだが、僕はしばらくうめき続けずにはいられなかった。
トラブルは単なるオーヴァーヒートだった。これはまた時間が取られるな、という僕の心配をよそに、彼は近くで洗車していたトラックの運転手に頼んで水をもらい、いきなりエンジンにぶっかけた。いいのだろうか。
よかった。また快調に走り出した。
山頂で一服した後「そしたら、行こうか」と、彼は何とエンジンをかけずに下り始めた。バイクのことはよく知らないのだが、少なくとも自動車教習所では確か「下り坂ではエンジンブレーキを活用し」ということを 習ったような気がする。自動車とバイクは違うのだろうか。しかし、なんと隣を走っている車もエンジン音がしない。まるでこれじゃ自転車だ。
ちょっとした街に着いたと思ったらもう昼を過ぎている。フエだった。一軒の食堂でご飯の上に肉やら卵やらを乗せたものを一皿平らげるとかなり満腹になった。しかし、僕にとってはそれよりも、食前に飲んだセブンナップのおいしさが忘れられない。水の量は限られているし、地図によるとどうもひたすら山奥へ入って行くようなコースだったから、かなり節約していた。しかし、アスファルトの照り返しはジリジリと焼け付くし、車の排ガスをもろに浴びるからのどはがらがらに乾く。そこへ持ってきて一本の炭酸は最高だった。とは言え、ビールだったらもっとよかった。
道はかなり整備されている。しかしほこりっぽい。彼は1時間ほど走るごとに休憩を取った。その度にどこからか水を調達してきて、雑巾を浸してエンジンを冷却した。時には、道端の池からということもあった。僕も水分の補給をする。しかし、プラスティックのボトルに入っているにも関わらず、その水は段々とガソリン臭くなってきた。それとも、僕の口が排ガスにまみれていたからなのだろうか。しかしうまい。体中の細胞という細胞に沁みわたっていく。まるで砂漠に降る雨のようにいくらでも入るが、しかし抑えておかなくてはいけなかった。この賢明な判断は後で僕を助けてくれた。
コンスタントに休憩があるのだが、それでもやはりバイクの後ろに乗り放しというのは楽ではない。それなりに姿勢を変えることもできるが、やはり限界がある。背中や尻は痛むし、汚れた空気と汗で体中が粘ついてくる。のどはいがらっぽく、常に乾きがつきまとう。
しかし、ずっと炎天下というのは一つだけ僕に効用をもたらしてくれた。カンボジアで付いてしまった不様なバンダナの後がかなり目立たなくなったのだ。おもしろいことに、この晩にその新しく焼けたところの皮だけがペリペリとむけた。おかげで、自分から言わない限り、ばれないほどにはなった。ホーチミンシティーではココナツジュース売りの子ども達にも笑われたほどだったのだが。
どれくらい走っただろうか。すでに午後の日差しもかなりの間、浴び続けたような気がする。
あと80キロという表示を過ぎた辺りで、近くにいた男を引っ張ってきてティム君は言った。「彼は僕の友人でラオバオに住んでいる。僕はできれば早く家に帰りたい。そこで、よかったら彼のバイクに移ってくれないだろうか。もちろんちゃんと話は付けておくし、君が払う内のいくらかを僕が彼に渡すから、君は最初に決めた額を払うだけでいい」。
僕としては誰のバイクだろうと、30ドルでラオバオに行くことさえできれば文句はない。今さらティム君を疑う気はない(一緒に酒を酌み交わすというのは大きな意味を持つものだ)ので、「30ドルだけでいいんだな」ということだけをもう一度確認して、ザックを移した。
彼のバイクはいわゆるオフロードタイプで、今まで乗ってきたものよりも大型だった。しかし、荷物を置く場所がないので、僕と彼との間にくくりつけることになった。おかげで逆に僕はかなり窮屈になって、姿勢を変えることもままならなかった。
道はどんどん傾斜が急になって、山奥へと入って行く。すれ違う車もほとんどなくなった。しかし、道端にはかなり頻繁に「ラオバオ ◯◯km」という表示があって、段々とその数字が小さくなっていくから安心して乗っていることができた。
たまに川と並行して走ると、そこでは子ども達が歓声を上げて泳いでいたり、ゆっくりと歩く牛の群れを追う老人がいたりと、風景としては余り退屈はしない。しかし尻はかなり痛かった。
残りの距離が縮むに連れて、余計に気持ちは募る。このバイクはトラブルもなく(スピードメーターは死んでいるが)、軽快に走り続けるのだが、徐々に日も暮れてくるとやはり焦ってくる。
そんなときに、本当に短い間だったのだが、虹を見た。これで、諸々の苦痛がすっと引いていった。ヴェトナムの空に見た7色、これは忘れられないシーンの一つだ。あの素晴らしさを味わうために何時間もバイクにしがみついていたのだとしても許せる。
そして、闇が全てを包む直前に、ついに「ラオバオ 0km」の表示が目に飛び込んできた。そのまま彼は国境へと僕を乗せていった。何も言わずに僕を下ろすと、さっさと帰ってしまった。
さあ、行こう、と思ったがどう見ても国境はもう閉まっている。近くにいた地元の人間が「ダメだ、行けない」と身振りで示す。
そりゃあないだろう、と落胆したがこんなところで留まっているわけにもいかない。もう辺りは暗い。話しかけてきた彼にバイクと自分とを交互に示し、「ホテル」と言ってみる。通じるものだ。ちゃんと彼は自分のバイクに乗せて、ホテルへ連れて行ってくれた。
ところがこのホテルがひどい。中から男が出てきて言うには「シングルはない。ツインで8ドルだ」
しかし6ドルまで落とす。5ドルにしたかったのだが、それだったらどっかに行ってくれと彼が部屋の鍵をかけようとしたので、渋々と従うより他はなかった。
「ちょっと待て、いくらか払え」とバイクのおじさんが、ホテルの人間を介して言ってくる。やはり、ただというわけにはいかないか。国境は朝の7時に開くと言うことなので「だったら、明朝6時にここに迎えに来て、もう一度国境まで乗せて行ってくれ。そうしたら、1ドル払おう」と、僕は1ドルでは無理だろうと思いながら言ってみた。「オーケー、オーケー」、あっさりとまとまった。
とりあえず、このべたついた体をなんとかした。特に髪なんかはひどい有り様だった。
バスルームへ入って驚愕した。シャワーがない。そこには洗面台と、トイレがあるだけ。しかも洗面台の蛇口からは水が出ない。
唯一水が滴ってくるのは、便器の真横の蛇口。当然、水洗用だ。しかし、四の五の言ってられない。そのわずかな水をタオルに含ませ、体を拭いて、髪もなんとか洗う。
もうこれだけで気落ちして、食事をする気にもなれなかった。食欲があってもどうにもならなかったのではないかと思う、その街、と言うより集落は非常に非常にちんまりしたものだったから。とりあえず、のどの乾きだけはわずかに残ったガソリン臭い水で辛うじて癒すことができた。当然、薬も飲んだ。ここまで来たら恐いものなんて何もない。相変わらず強く欲するのは冷えたビール。しかし口にできるのは水だけだった。
することもないので7時過ぎには、じっとりと湿ったベッドに横になった。ファンはなかったがその理由は簡単だ。高地だから寒いくらいだったのだ。しかも突然、大雨が降ってきた。その、屋根をたたきつける轟音は明日の行動を心配させた。外はどれくらい寒いことだろうか、と思った瞬間、天井から水がこぼれてくる。まったく、何と言う……。このホテルは今回の旅で一番値段が高かったのだが。
仕方なく、荷物をベッドの下に避難させて、僕は雨漏りがしてこない方のベッドに移った。
これで大丈夫だろうと思えど、強い風が吹くと、しっかり留め金を閉めておいたはずの窓がバタンと開く。
全く、落ち着いて眠れやしない。