国境線の待ちぼうけ

 ラオスとはどのような国なのだろうか。首都がヴィエンチャンであるということ以外、その位置すらも、それまで僕ははっきりと知らなかった。中学の1年生の社会科で習っただけだ。日本でもラオス関連のニュースをあまり見たことはない。
 そのラオスにこれから足を踏み入れようとしている。
 約束通り6時に現れた昨日の男のバイクに乗り、国境へ。
 朝靄が冷たくまとわりつく。しかしすがすがしい空気だ。
 15才くらいの編み笠をかぶった少女達が数人群がってきた。色白で一重まぶたで、のっぺりとした顔の作りの彼女らの雰囲気は、日本でもたまに目にすることがある。ある種の日本人と、ヴェトナム高地住民とは遠い過去に、ルーツを一にしているのかもしれない。
 どうやら両替商のようで、手に下げたカバンには使い古された札束が詰まっていた。ドンをヴェトナム以外の国で持っていてもおみやげくらいにしかならないから、全部ここでキープに換えた。
 片言の英語で話したところによると、サヴァナケートまで行くバスには6000キープ(≒720円)ほどで乗れると言う。しかもそのバスは、国境が開くのを待つ車の列の先頭にいた。車体の横には「ダナン・サヴァナケート」と大書されていた。車内で一夜を明かした人たちが、ぞろぞろと外に出て体をほぐしていた。
 7時になった。
 先ほどのバスに乗るためにも急いで出入国の手続きをする必要がある。しかし、いきなりヴェトナム出国の時にもたついた。地元の人と同じ窓口に並んでいたのだが、「あなたはこっちだ」と言われてようやく外国人用の窓口の列に並んだ。ようやく順が回ってきたが、係官はまるで戦前の村役場の職員よろしく、時間をかけて几帳面に僕の国籍や名前やパスポートナンバーなどを大判のノートに書き込んでいった。
 緩衝地帯はかなり長かった。ラオス側に入った途端に道路の舗装が途切れ、ぬかるんだ赤土がむき出しになる。しかも電線も見えなくなった。
 かれこれ5分はそのゾーンを歩いただろうか。ようやくたどり着いたラオス側のゲートだったが、そこのイミグレーションオフィスは、「パスポート」などと書かれた木の看板がなければ、絶対にそれと分からなかっただろう。

ラオスのイミグレーション
 木造高床式のそのちんまりした建物の周りでは、黒豚の親子が泥にまみれて走り回り、大きな水たまりでは鳥が水浴びをしていた。まるで、何とか自然公園の事務所か売店といった感じだ。その手のものは無理矢理丸太などを組んで作るが、これはそういうおかしな意図があるものではなく、純粋な意味でのオフィスとしての建物だ。近代的な空港のそれと同じ機能を備えている、はずである。
 対応した係官は「ちょっと待ってくれ」と言うと、何やら奥の方でごそごそやりだした。そして、ようやく出入国カードを見つけてきた。そのA/Dカード(Arrival & Departure Card)には、「人種」や「肌の色」といった、始めてみる欄があった。何と書くべきか不明だったので、無視して空欄のまま提出。別に何も言われなかった。
 ちょっと良かったのは、女性のユニフォーム。伝統的な腰巻き(ルンギ)と洋服を折衷したようなその濃紺の服は、裾の方に幾何学的模様が白い色であしらわれていた。色と言いデザインと言い、アイヌの伝統衣装と似ているな、と感じた。そして胸には氏名を示すバッジ。これが全体をぴっと引き締めていい感じであった。
 体育用具の倉庫を思わせる税関の建物のひさしの下で、相変わらず細かく降り続ける雨を避けながらバスを待っていた。
 体育の教師ならぬ税関の職員に「バスはまだ行ってないだろうね」と尋ねたのだが、「よく英語は分からない」と陽気に言われてしまった。そこで、バスをジェスチュアで示すのは至難の技だから、絵を描いてもう一度聞いてみたが、これも通じなかった。
 絵が下手だというコンプレックスは、中学の美術の時間以来、どうでもいい感情と化してほとんど忘れ去られていたにも関わらず、実用面で役に立たないと分かると、さすがに僕はがっくりときた。
 仕方ない腰を据えて待つか。と思って売店のイスに腰掛けた。ビールやジュースが店頭には並んでいたが(なぜかラックスの石けんまであった)、どうせそのままぬるいのを飲まされるのだろうと思うと、ビールを頼む気にはなれずにコーラを買った。ところが、出てきたのはちゃんと冷えたコカコーラ。これならビールにしておけばよかった。
 まあ、これはこれでカロリーはあるだろうから、昨日の夕食と今日の朝食を兼ねた食事にしようと、無理矢理に自分を納得させた。当然、食後には薬も飲んだ。
 細い道路(未舗装の)を挟んだ向かいには、草むらが広がり、さらにその向こうには先ほどのイミグレのオフィスと同じような高床式の民家がいくつか建っていた。いつのまにか、また目の前を子豚が何頭か駆けていった。
 寒いということ、腹が減ってるということ、冷えたビールを飲みたいということ、バスが来るのだろうかということ、これらをのぞけばその店先で辺りを眺めながら時間をつぶすのは悪くはなかった。たまに、背中に大きな竹製のカゴを背負った女性が数人道を歩いている。足はビニールのサンダル履きで、独特の衣装に身を包む彼女らは、「◯◯族」と呼ばれる少数民族なのかもしれない。
国境地帯にて
 山にかかる雲は、風に流されてその濃淡を刻々と変えてゆく。
 バスを待つ時間はのんびりと過ぎてゆく。しかし、僕はあまりゆっくりとしていられない。どう見ても辺りに宿泊施設などなさそうだし、よしんば寝床は確保したとしても、昨日の宿から数キロしか進んでいないのではどうにもならない。それに、そろそろ急いで南下する必要がありそうだ、という気にもなっている。
 仕方がない、10時半まで待って来なければ、ごくたまに通るトラックにでも乗せてもらおう。こう考えて、さあ行こうかと思った瞬間話しかけられた。
 「こんにちは」
 中国やビルマ(ミャンマー)を回って来たという彼の名はササーキー。写真家だから、アラーキーに対抗してこう名乗っているのだと教えてくれた。彼がイミグレで昼過ぎのバスがあると聞いてきたので、二人して取り留めもない話しをしながらそこで待つことに。
 ダナンのホテルのフロントは、サヴァナケート行きのバスは月に2本だと言っていたが、どうやら日に2本ということらしい。それを知っていたらティム君に大枚をはたくこともなかったのに。かと言って、今更悔やんでも仕方がない。足が痛いということはあったにせよ、体を動かして情報収集を怠った自分に全責任があるのだから。
 「こんな、日本の2千年前のような風景、もうここでしか見られませんよ」、と言う彼の言葉を、素直に納得した。
 ようやく昼も過ぎて、バスがやって来た。運転手と交渉して乗せてもらえることになった。
 「10ドル(≒1100円)だ」「いや、そいつは高すぎる」「8000キープ(≒960円)ではどうだ」「だめだ、もっと安くしてくれ」「よし、だったら一人5000キープ(≒600円)で手を打とう」。
 乗客の数はそれほどないのだが、バスの中の空間には至る所に狭苦しいほどに荷物が詰め込まれている。その荷物の上に寝転がっている老人もいた。
 なぜか天井部分が、音楽関係のスタジオのようにふかふかしたクッションで覆われていた。「ひょっとして、これって天井に頭がぶつかるほど揺れるってことなんですかね」「まさかな」という不安もあったが、とにかく動き始めた。
 「サヴァナケートまで何時間かかるか、賭けようか」とササーキーが言い出した。「う〜ん、僕は6時間くらいだと思うけど」「だったら、俺は3時間だ」。
 と、いうわけでまあかわいく500キープを賭けることになった。しかし、こいつは共に楽観的観測にすぎなかった。結果として賭は流れたのだから。
 密林の中のでこぼこの一本道をひた走る。風景に何の変化もない。たまに、高床式の住居の集落や水田がぽつぽつと目に入るだけ。山のてっぺんにいたはずだけど、全く下っているという気がしない。相変わらず道は舗装されていない。
 途中、休憩のために止まった所で、僕は面倒くさかったので席に着いたままだったが、窓から見おろすと、男性がずらっと道端に横一列に並んで用を足していた。あまりにもおかしい様子だったので、思わず写真に収めようかとも思ったが、さすがにとどまった。
4時過ぎに食事のために長めの休憩があった。窓の外には何人かの物売りの子がいる。僕は鶏の足を竹の棒で挟んで焼いたものを買った。昨日のフエでの昼食以来の固形物を口にした。しかし、これが固い。食いちぎる時に本当に肉がめしめしと音を立てる。あごが疲れた。ちょうど外を黒い鶏が元気に走り回っていたが、おそらくあんなヤツを焼いたのだろう。これだけのびのびと育ったのなら、筋肉が発達するのもうなずける。
 この辺りから、一緒に乗っていたヴェトナム人の兄ちゃん2人連れと仲良くなった。飲料水のボトルを渡してきたから、のども乾いていたこともあってぐっと飲んだ。ところが、これがまた焼酎だった。「プハーッ」。のどが焼け、胃が燃える。あっと言う間に酔いの感覚が体をめぐり、狭い座席の苦痛もどこへやら。ササーキーも含めて4人で即席の宴会が始まった。
車中の宴会
 言葉はなくとも酒があればよい。加えて、食べ物もあったからなおすばらしい。彼らが買った鶏肉を少し分けてくれたが、これはそれほどは固くなかった。
 お互いにニコニコしながら自分たちの言葉だけだったが、何となく雰囲気が保たれていた。僕はこうなったらせめて礼は彼らの言葉で言おうとガイドブックにあったカタカナをそのまま発音したのだが、相手は首をひねるばかり。ヴェトナム語表記のそれを見せると、「オー、サンキューね」。なんだか拍子抜けした気がしないではなかった。
 しかしおかげで、バスの旅の後半は愉快に過ごすことができた。
 サヴァナケートのバスターミナルに到着したのは、すっかり日も暮れた7時過ぎだった。さて、どうしようかと言っていたら、一人のトゥクトゥクの運転手がやって来た。
 「安いホテルに連れて行くよ。どう、そっちの人も乗りなよ」と、同じバスに乗っていた体格のいいアジア系の旅行者を含めて3人で乗り込んだ。
 彼は韓国人でチョーと名乗った。
 5分も走らずに目的のホテルに到着。「ホテルメコン」という、メコン川沿いにいくらでもありそうな名前のそのホテルはトリプルで8000キープ(≒960円)だと言う。部屋を見せてもらったがなんと、部屋は今までに見たことがないほどに広く!エアコンまで付いている!! トイレは自動の水洗で!柔らかそうなトイレットペーパーも備え付けられている!! ホットシャワーまであると言う!!!
 3人ともすぐさま気に入って、フロントに戻りパスポートを提示してチェックイン。するとさっきからずっと着いてきたトゥクトゥクの運転手が、一人1000キープ(≒120円)を要求してきた。
 ふざけるな! あれだけの距離でそれはあまりに法外だ。僕らは3人で1000だと主張した。しかし、運転手は頑として受け付けない。
 言い合う内に、チョーが彼の手に1000キープを渡して「オーケー、レッツゴー」と言い放った。
 当然、運転手は納得がいかない。言い返すが、するとチョーは「あっそう、いらないの」とあっさりとその1000キープを取り返して、 運転手には何事か朝鮮語で言い捨てて、スタスタと部屋へと歩き出した。
 僕とササーキーは、あっけに取られながらも彼の後に従った。
 しかしこれで諦めるようなら外国人相手のトゥクトゥク運転手としては勤まらないだろう。
 さすがに部屋の中までは入って来なかったのだが、成りゆきを見ていたホテルのおじさんがドアをノックして入ってきた。
 そして、彼を仲立ちにして交渉した。僕らの主張は単純だ。「彼は、ここに来る前にトゥクトゥクの値段については何も言わなかった。(実はこの論は、邪道だ。こっちから言っておかなければ、言い値でも仕方がない、というのが常。しかし、いつもそうだということは何事でもあり得ない)しかも、ホテルは2人で1000キープだと言ったのに、3人で8000だった。だから、僕らは彼の言うことに納得がいくわけがない」
 15分くらいおじさんを介して話し合いは続いたが、「まだまだ続くから、もうシャワー浴びようや。お先にどうぞ」とササーキーが言った。
 シャワーは湯沸かし器はあったのだが、残念ながら湯は出なかった。やはり、こんなものなのだろう。
 2日分の洗濯物を片づけて、さっぱりとして出てくるとようやく話しはまとまっていた。結局一人500キープ(60円)で折り合いが付いた。
 最後にチョーがバスタオルを巻いて出てくると、彼の鍛え上げられた肉体に僕とササーキーは驚いた。
 「ちょっと、テコンドーやってるんだ」と語る。そう言えば、彼が着ていたスポーツウェアの後ろには「テコンドー」と書かれていた。
 夕食はホテルの近くでヌードルと、ビアラオ。冷蔵庫でしっかりとに冷えているそれは、ようやくに僕の希望を十分に充たしてくれた。
 雨はヴィエンチャンの街にも降りしきる。道にはかなり水がたまっている。僕はもうケガが汚れることにさして抵抗を覚えなくなっていた。
 帰り道、ホテルの目の前を流れるメコン川の対岸をながめると、煌々と明かりがついている。ヴィエンチャンにも街灯はあるが、それでも数百メートル向こうの方が明るく見えた。暗い流れを渡ればタイのムクダーハーンの街である。
 ふいに、バンコクが懐かしくなった。明日、船で渡れば、後はバス一本で帰れるのだ。カンボジア、ヴェトナム、ラオスと移動してきて、久々に24時間の絶え間ない喧噪や、汚れた空気や、ネオンなどを包含した都市に浸りたいと痛切に感じた。
 しかし、せっかくここまで来たんだ。当初の予定はヴィエンチャンから、ノーンカーイに抜けることにしていた。そして何より、ホーチミンシティーでは「サヴァナケートしか行けない」と言われて、安いツーリストヴィザを蹴った経緯がある。募る思いもあるが、ここはやはりヴィエンチャンに行くべきだろうと思い直した。
 帰りがけに買ってきたビアラオを、部屋に備え付けのティーカップにそそいで乾杯。談笑の内にふいに停電。やはりな、という程度の感想しかもはや持てなくなっている。僕はザックからシェムリェップの市場で買った懐中電灯を取り出し、チョーはフロントにロウソクを取りに降りた。
 先ほど夕食に出たときに、1階のフロアでは、着飾った男女がカラオケパーティーに興じていたのだが、戻ってきたチョーによると「テーブルでロウソクを灯して、相変わらず賑やかにやってたよ」ということだった。
 仄かな明かりを中心にぼやっと明るくなったが、窓から見える対岸の光が余計にまぶしかった。
 「世界中のコインを集めているんだ」というチョーに、僕は手持ちのコインを見せたが、彼の気に入ったのは1円玉だった。「日本のコインでこいつだけ持っていなかったんだ。ありがとう」と、お返しに韓国の切手を何枚かくれた。僕としては別段、切手に興味はないのだが、餞別をくれた友人の一人に行く先で切手を買ってくるように頼まれていたので、彼女へのみやげに加えることにした。
 彼は旅先で出会った人へのプレゼント用に自国の切手を持ち歩いているのだと言う。殊勝な心がけだと思う。僕はとてもそんな所まで気が回らなかった。
 ササーキーは色々なものを持っていたが、チョーはチベットのコインを受け取っていた。
 僕は、「タイのコインはいいの?」と尋ねると、「ああ、タイは次に行こうと思ってるんだ」と言った。
 そこで、ササーキーが「バンコクならパッポンだ」と、帰りがけに買ってきたビアラオの勢いも手伝って陽気に語った。
 パッポン通りというのは、いわゆるバンコクの夜の顔の一つである歓楽街である。この間の滞在中には僕は行かなかったので、チョーと一緒になって「どの店がぼったくらないのか。どういった感じの呼び込みに気を付けなければ行けないのか」などの話しを聞き入った。
 「いいかい、パッポンには1と2があるんだ。1の方は安全な所が多いが、気を付けなくちゃいけないのは2の方の店から来ている呼び込みだ。彼らは大抵、日本語のビラなんかを持っている。そして、警戒心を薄れさせたところで2の方へ引っ張って行って、有り金を奪う」
 「おい、チョー、その指輪は何だ」とふいにササーキーが聞いた。「ああ、婚約指輪だよ。この旅から帰ったら結婚するんだ」と彼は言った。
 「何だと、だったら貴様はパッポンへ行ってはならぬ」とササーキーが言ってみせると、「いやいや、それはそれさ」と、しながらも何と今度は婚約者ののろけ話を始めてしまった。
 相変わらずの暗がりの中で、久々の愉快な会話は続いていった。


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