バスはひた走る

 3人とも、実に久しぶりのエアコン付きの部屋だったので、うれしさの余り付けっぱなしで寝た。明け方に余りの寒さで目が覚めた。ササーキーもチョーも、寝るときはかけていなかった毛布にすっぽりとくるまっていたので、スイッチを切って寝直す。
 9時半くらいに、ドアにノックがあった。昨夜のおじさんが入ってきて「今日どうするの」と尋ねてきた。「ヴィエンチャンへ行くつもりだ」と返事をした。
 「だったら、電話をかけて、出発の時間を調べてきてあげよう」と親切な言葉。
 11時半に昨日のターミナルから出るのがある、と言うので急いで荷物をまとめた。
 拾った流しのトゥクトゥクでは1500と言ってきたところを1000キープ(≒120円)でまとめた。やはり、こんなところが妥当なのだ。
 壁に掛けられたボードには、目的地、発車時刻、値段、時間の表示があった。チケットは7000キープ(≒840円)。予定では11時間でヴィエンチャンに着くことになっている。
 サヴァナケートというのは、ラオスでも有数の都市である。そこの交通の中心である長距離バスのターミナル。ここは、校庭くらいの広さの土地に、かなり使い込まれたバスが並び、当然のように食堂などもいくつかあった。
 僕たちは1軒の食堂で、身振りで「何か安いものを食わしてほしい」と伝えた。出てきたのはまたヌードル。こがしたニンニクの香りが食欲をそそる。そして、そのドンブリとは別に、生野菜が大盛りで出てきた。そのままスープに突っ込んで食べる。うまい。ついでに僕は缶ビールも飲んでしまった。さい先のいい1日のスタートである。
 チョーがザックから何やら取り出して、店の七輪で焼き始めた。なんと、スルメであった。すると、その香りに誘われて猫がやって来た。テコンドーと書かれた服を着た体格のいい彼にまとわる子猫。
 我々が乗るバスには「ラオスと日本の援助協定によって寄贈された…」というステッカーが貼られていた。日本でよく見かける、ヒノ製であった。これ以外にも日本の中古のバスは何台も並んでおり、中には「ワンマン」とか「非常口」などの日本語の表記がそのまま残っているものもあった。
 適当に空いている席を陣取っていたのだが、出発直前に乗客の全員が下ろされた。
 何事かと心配したが、単に乗客の名前を確認して、さらに一人に一本ずつ水が配られただけのことであった。
 さらば、ヴィエンチャンと、半日ほどしか滞在しなかったこの街に別れを告げ終わらぬ内に、あっと言う間にガソリンスタンドに寄って給油を始めた。それくらいは、出発前にしておけよ、とあきれた。
 1時間ほど走ったところで第1回の休憩。にぎやかな売り子が、バスに群がるし、商売熱心な子どもは、商品を持って乗り込んでくる者もあった。
 「パオズー」と言って窓から売りに来た、小振りの中華饅を二つ買った。具は少ないが、干しエビの香ばしい香りがよかった。おいしかったので一つは隣に座ったササーキーにすすめた。
 そのササーキーはバナナの葉で包まれた何かを買っていた。「これ、これ。多分チマキみたいな物だと思うけど、うまいんだよ」と、うれしそうにその葉をどんどんとむいていった。しかし、彼の予想とは裏腹に、登場したのはハムのような肉だった。
 「これもうまいんだろうけど、ちょっと生はまずいな。これからずっとバスなんだし」と、がっくりした彼は泣く泣く窓から、近くの犬に放り投げた。
 売り子と犬はペアで現れる。客が捨てる残飯をあさるために、いつも犬はバスの周りをうろうろしていた。賢いものだ。
 「バナナでもないかな」と、彼は近くの店から、青々としたバナナを買ってきた。しかし、皮をむこうとした瞬間「バキッ」と、壮絶な音。どうやら、生で食べるものではないようだ。仕方なくこれを返品してきたが、戻ってきてバスに乗り込むときに、足を引っかけて、胸のポケットに入れていたタバコがぬかるみの上に落ちた。不運だ。
 そんな彼を見るに見かねて、後ろの人が、彼にビールと鳥肉をすすめてくれた。
 道は悪くないのだが、なぜか橋の前後だけはガタガタだった。橋の手前にかかると、ギリギリまで減速する。おもむろに、よっこらしょという具合に大きな段差を乗り越えるのだが、冬の日本海を小型船で行くように、大きく上下左右に揺れる。そのたびに車内から「ひゃー」という叫び声が上がる。
 しかし、それらの橋の内のいくつかには、日本とラオスの国旗が記されている真新しいものもあった。日本の大手建設会社(大林組だったと思うが、定かではない)の看板も目にした。
 昨年同様のルートでヒッチハイクなどもしながらヴィエンチャンを目指した友人は、その18時間もかかった道程で建設中の橋や道路を目にしたと言う。
 大きな荷物は、乗車の時に屋根の荷台にまとめてくくられていたのだが、一体ヴィエンチャンに着いた時に、果たしてまだそこに載っていてくれるのだろうかという不安があった。
 飽きもせずに僕は窓の外に流れる光景を、食い入るようにじっと見つめていたが、赤土の微粒子が際限なくわずかに開けた隙間から忍び込んでくるため、眼鏡はあっというまに曇り、シャツもちょうど胸の部分だけが赤く汚れた。しかしそれでも僕は、今まで見たこともないその果てしない森を脳裏に刻みつけようと眺め続けた。
 細い雨は途切れることなく降り続いた。これが雨期なのか、と思わせるのに十分なシーンに幾度も出くわした。
 水没した森、それはまるで広い湖面から無数の木が生えているように見えた。
 渇水時のダムでは、かすかに残った水から枯れ木が無惨な姿を突き出しているが、それと決定的に違うのは、この木々は青々と生命を有しているということ。
 川では、それが乾期にも川であるという保証はどこにもないのだが、所々で濁流が渦を巻いていた。そして、高床式であるにも関わらず、床上まで浸水している住宅もあった。
 夕方に再び休憩があった。
 僕は再び焼いた鶏肉を買った。昨日のことを忘れていたわけではないのだが、選択肢がこれか米かだけなのであったのだから。
 しかし不安とは裏腹に、それは柔らかくしかも温かかった。ほのかな塩味と独特の香り。
 ササーキーが買ったビニル袋に入った米を分けてくれた。それは固めに炊かれた餅米で、鳥肉と一緒にほおばると何とも言えずおいしかった。

焼き鳥を売る
 粘っこい食感の文化は、雲南を起源として日本に伝えられたのだが、おそらくこの辺りも経由しているに違いない。
 目の前の山は、相変わらず手が届きそうな高さの所に雲が流れていた。標高はまだかなり高そうだった。
 大きな湖の横を走る辺りで日が暮れていった。
 昼間は鬱陶しかった、何度も同じ歌謡曲が流れるカセットテープも、今となっては数少ない安心感を抱かせてくれるものの一つであった。頼りなげな車内の照明とその音楽、そしてエンジン音くらいが確かのものとして感じられるのみであった。
 ふいに僕は「深夜特急」を感じた。沢木耕太郎が感じたこと文章にし、それを読んだ僕が想像した世界。それが今、現実として僕の周囲に展開しているのだった。
 残り1時間というところで、ふいに睡魔が襲ってきた。
 だから、その奇妙な眠りから覚めても、バスが停まって乗客が降りているということが何を意味するのかしばし把握できずにいた。
 そう、結局12時間半かかってサヴァナケートからヴィエンチャンに到着したのだった。
 荷物は無事に屋根にくくりつけられたままだった。多少雨にぬれていたということと、ほこりまみれになっていたことを除けば上出来だ。
 そこはものすごく暗い街だった。そして静かだ。
 普段は「静か」というのは、喧噪が大きく後退した状態を指すが、この場合は、その元々の喧噪すらが存在しない状況での「静か」であった。
 それでも何台かのトゥクトゥクは客引きのためにバスターミナルにいたので、1台をつかまえた。行く先はチョーが持っていたロンリープラネット(タフな旅行者のための英語のガイドブック。日本人のバックパッカーでもこれを好む人は多い)で「最も安い」と紹介されていたゲストハウス。
 しかし散々迷った末にたどり着いた先は、満室。次の一軒はなんと10時までしか開いていないと言う。それが一体宿泊施設と言えるのだろうか。
 「歩き方」に掲載されていた所はシングルで10ドルもする。冗談ではない。
 1時間以上、さして広くはない街を同じ道路を何度も通りながらうろうろしたが最後に運転手が「ここは安い」と行ってきたところで値段を尋ねた。
 シングル5.5ドル、ツイン7.7ドル。さっそくここに決め、ジャンケンで負けたササーキーがシングルで寝ることになった。
 ここの外観やロビーはまぎれもなくホテルのものであった。明るいロビーには池なんかもしつらえてある。そこで泳いでいるのは錦鯉ではなく、灰色のナマズであったが。
 しかし、この値段というのは破格だなという話しをしている間に案内されたのは、一度裏から出た別の建物。これは見まがう事なきゲストハウスであった。あの値段でも十分にうなずける。
 しかも僕らの部屋のファンは回らなかった。「ちょっと待ってくれ」と案内した男は扇風機を抱えてきた。
 もはや日付も変わる直前だが、食事をしたいという気持ちは3人とも強く持っていた。ちょっとだけにぎやかな通りへ出て、ヌードルをすすり、ビールで乾杯。骨付き肉をしゃぶったのがおいしかった。
 それにしても活気がない。店のシャッターは閉まっているし、屋台は目に入らないし、何より通行人がほとんどいない。街灯はちゃんと整備されているからちぐはぐな印象を助長する。
 「おそらく、世界活気のない首都ランキングで3本の指に入るのではないだろうか」などと、冗談を言っていた。「だったら、逆に賑やかな首都ランキングでトップ3はどこだろう」「バンコクとか、東京とか、ニューヨークだとか」「うーん、やっぱりそんなものだろうな」
 その時は誰も気が付かなかったのだ。ニューヨークが首都ではないことに。
 階段すぐにあるシャワールームでは、壁から突き出た鉄パイプから水が落ちてきた。それをシャワーと呼べるのかどうかは議論の分かれるところだ。まるで強制収容所のようだ。 しかし僕らは自由の身である。
 シャツにこびりついた赤土を丁寧に落として、部屋に干した。
 もう、ヴィエンチャンまで来れば、あとは最終目的地のシンガポールまでは真南に下って行くだけだ。もう背伸びでもすればシンガポールが見えそうな気までする。それに明日には久々にタイに入れる。
 インドシナ3国を早足で駆け抜ける中で本当に色々なできごとがあった。カンボジアでは風邪もひいたし、ヴェトナムでは下痢にもなったし、足も化膿した。そして何より冷たいビールが思うように飲めなかった。カオサンにもどったら、とりあえずシンハを飲んでやろうと、僕の気持ちは浮き立った。
 2時過ぎにベッドに入る。
 数時間前に出会っただけの人と同じ部屋で眠ることに、もはや何の感想も抱かなかった。
 「今日は長旅だったな」「ほんと、とにかく疲れた」「おやすみ」「おやすみ」


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