都会、再開、そして愉快

 昨夜、途中の駅から乗り込んできたおばさんが、「足元に荷物を置かせてもらってもいいか」と尋ねてきた。「それは構わないけど、足をのっけてもいいんだったら」「いいよ」
 その段ボールの上に投げ出した足をぺちぺちと叩かれて、目覚めた。「あたし、ここで降りるから」
 何気なく窓の外に目をやると、圧倒的な光の洪水が目に流れ込んできた。ちょうどそこは、ドンムアン空港駅だった。一般道、ハイウェイ、空港ビル、その全てに一分の隙もなく敷き詰められたイルミネーション。そして、その中を高速で行き交う多数の車。
 そこから目を離すことはできなかった。たかだか2週間の間だったが、インドシナ3国を旅してきて、確かに多くの心奪われるものに出会った。しかし、それらとは全く異なった次元で心が揺さぶられた。
 ファランポーン駅に到着すると、そこは日の出前だというのにすでに多くの人で賑わっていた。売店も開いている。
 しかし、残念なことに銀行はまだだった。とりあえず、あと3時間ほど待とうかと思ったら、 ATMは開いていたので、最小額の500バーツだけキャッシングした。
 街は暗かった。しかし、その暗さは光の逆の意味での暗さであり、僕はそこら中に喧噪の残像を見出すことができた。あと、数時間もすれば光は影を覆い、深夜遅くまで都市を映し出すのだ。
 交通量の少ない中を猛スピードで飛ばすトゥクトゥクに乗りながら、曲がり角にさしかかるたびに、僕は足元の荷物を放り出されないように押さえておく必要があった。びっしりと並ぶ建物の合間にひびくエンジン音も耳に心地よかった。
 カオサンロード。終夜営業の店には、多くの旅行者がたむろし、酔っぱらったグループはバーで歌声を張り上げていた。
 この時間ではさすがにボーニーゲストハウスはまだ開いていないから、一軒の店で時間をつぶすことにした。
 僕はトーストとコーヒーを頼んだ。トーストとコーヒー、普段なら絶対に旅先では口にしようとも思わないこのメニューも、カンボジア・ヴェトナム・ラオスと巡った後のバンコクでは、これ以上にふさわしいものはないように思われた。ぱさぱさの紙のようなトースト、辛うじてコーヒーの香りがするだしがらのような黒いお湯。
 タイのオリジナルの食事とは全くの対極にあるこれらは、僕に「先進地域へ戻って来たんだ」という感慨を否が応でも感じさせた。文明の先にある退廃を口にすることで僕は自分を状況に適応させた。
 夜が明けるまでは、付けっぱなしになっている下らないホラー映画を見るとはなしに見ていた。そんな風に僕が時間をつぶしている間にも、新しい旅行者が何人もカオサンに到着した。そして、開いているゲストハウスを探すか、あるいは僕と同じように街が動き始めるまで食堂で適当に時間をつぶすかしていた。
 辺りが白み始めると、まずゴミの収集車が出て、通りをきれいにしていった。そして、黄色い法衣に身を包んだ僧侶が托鉢のために数人歩いていた。僕はその時、コカコーラのペットボトルを抱えて歩く一人の僧侶に気付いた。捧げものは、米や野菜だろうという一方的な思いこみを持っていたから、それは少し奇異に映った。

カオサンロード
 7時になったので僕はバックパックを背負い、ゆっくりとボーニーゲストハウスへ向かった。
 対応に出たのは、にこやかなボーニーではなく愛想の悪い従業員の方だった。まだ十代だと推察されるその女性は、ボーニーゲストハウスを知る人の間では有名だった。ポルポトによる大虐殺の時にタイに逃げてきた一人だという彼女の素性についての噂を聞いたのも確かヴィエンチャンでだった。
 彼女は、自身の存在さえも疎ましいと思っているのではないかと見えるほどの対応の仕方だった。60バーツ(≒260円)のドミトリーが空いていたので、50バーツと20バーツのコインで支払おうとしたところ、「10バーツないの?」とまるで僕を攻めるように尋ねた。それがないから70バーツ出しているのだ。「ないよ」と答えると、フロントにある小銭入れの缶を憎々しげに開け、そこに釣り銭がないことが分かると、舌打ちしながら奥の部屋に入っていった。僕はその態度に不愉快を通り越して、ぞっとするものを感じた。
 さて、結局彼女は10バーツを見つけてきたので晴れてチェックイン。2階に上がって、荷物を置いた。僕に割り当てられたベッドはベランダにあった。部屋の中より少し安いし、何よりここしか開いていなかったのだ。
 時間をかけてシャワーを浴びて、2日分の洗濯をすると、あまり寝ていないはずなのに眠気はどこかへ行ってしまった。
 久々に辛いタイ式ぶっかけご飯を食べて、食後にキーンと冷えたシンハビールを飲んだ。そう、コンビニエンスストアで買ったビールだ。
 ゲストハウスの庭にある石のベンチに腰掛けて、手招きして寄ってきた猫と遊ぶ。50代くらいのグレーの髪の毛の欧米人と目が合ったら、彼はニカッと笑いかけてきたので、僕も「おはよう」と負けないくらいニコッとあいさつをした。空は晴れ渡り、辺りはざわめきに満ちていた。
 そばのブランコ(4人乗りの)でタバコを吸っていた人が話しかけてきた。「確か、キャピワンでお会いしましたよね」
 そう、シェムリァップから戻ってきた時に出会った人だった。その時も相当に濃かった髭が、まるで連続して髪の毛が生えているかのように顔の下半分を覆っていた。
 プノンペで話した時、彼は翌日にシェムリァップに行き、しかも260にステイするつもりだと言っていた。
 僕は最後の日は修行僧に会えなかったので、別に親しくなった人にアドレスを書いて、彼に渡しておいてもらうように頼んであった。もしよかったら、どこからでもハガキを書いてほしいと言っていたのに、その時は結局アドレスを交換するのを忘れてしまっていたから。そんな彼にちょっとしたお礼代わりに、僕はマルボロを1箱買って、この彼に託した。これは生涯で最初の自分の金で買ったタバコだった。
 「いやね、260に行ったんですが会えなかったんですよ」と彼は言った。当然そういうこともあり得るだろうと思っていたから、「もし会えなかったら吸って下さい」とも伝えてあった。
 しばらく彼ととりとめもない話をしていると、新しく日本人がチェックインしてきた。
 彼女がお腹が減っていると言うので、再び目の前のビアガーデンへ行った。別の所でもよかったのだが、暑いからあまり動きたくなかったのだ。髭の彼は部屋に戻って行った。
 彼女は僕とは逆のルートで南からバンコクに入ってきたと言う。ペナン島に一月いたと語り、プラザホステルという宿の36人部屋!のドミトリーを教えてくれた。「近くにインド料理の屋台があって、それがおいしいんですよ。もうすっかり向こうの人とも仲良くなって、とっても居心地のいい所だったわ」
 そんな「ペナン」とデザインされたカラフルなシャツを着た彼女の話に触発されて、僕はペナンへ行ってみることにした。別にどこでもよかったから、もし彼女が他の所を勧めていたらそっちに行っていただろう。
 戻る途中、角の食堂で「粟津さーん」と声をかけられた。260で一緒になった人たちだった。ここでもまた「再会」だった。
 その食堂は、カオサンに面している割にはどちらかというと生粋タイ式という感じの店構えだった。フルーツジュースを飲みながら読書、ということを何度かしたことがある。
 一緒のテーブルに座って、260の日本人のその後の話を聞いた。日がな一日ガンジャを吸っていた親父は、気付くと宿からいなくなっていたという話しや、ガンジャを入れたオムレツを食べた女性が倒れて3人がかりで看護した話しだとか、なぜかそれに絡んだものが多かったが。
 みんな暇だから船でどっか行こうかということになり、プラアティットまでぞろぞろと歩いていった。
 船着き場は川の上に浮いているので、かなり揺れがひどい。「いやあ、以前船を待って1時間くらいいたら、船に乗らないのに船酔いしたことがあるんですよ」と山畑さんが言った。
 学校帰りの中学生が、ウルトラマンのポーズをとっていたのを見た平田さんはそれに対抗して、カメハメ波の格好をして見せたら大ウケだった。ちょっとした文化交流。
 南へしばらく行ったオリエンテンという所で下船。すると、そこでは南の方の島を巡って、またバンコクに戻ってきたと言う、以前ボーニーの庭で一緒にウイスキーのグラス(紙コップ)を傾けた人たちとも出会った。
 この辺りはツアー客が泊まるホテルが多くあるので、どうも僕たちは場違いだった。きれいなホテル、磨き込まれたショーウィンドーにはダイナースクラブのステッカー。
 さらに都会的なシロームに出た。道の両側には現代的なビルが立ち並び、道路は車で溢れている。それでも、目を転じると道端では炭火の焼き鳥屋台なんかも出ている。これがバンコクという都市の側面の一つだ。
 散歩している内に一軒の日本料理屋に出くわした。メニューに印刷されたカラー写真は全員の食欲をそそった。しかし、「この寿司うまそうだな」と言うだけで、結局入らなかった。もちろん、経済的な問題が一番の理由だ。
 代わりに僕たちは、別の方面から久々の日本食にアプローチした。吉野屋バンコク店。レギュラー(並)で39バーツ(≒170円)。味は少し濃い感じもするが、ちゃんと短粒米で、親しんだあの味だった。おもしろいことに、オレンジジュースなどとのセットメニューもあり、香の物の代わりにキムチもあった。また、チキンの牛丼という日本にはないメニューもあった。
 その後、近くなので見聞を広めることを兼ねてパッポン通りへ行った。言わずと知れたバンコクの夜の顔の代表格、歓楽街。時間が早かったが、それでも光や音が溢れかえっていた。「9時くらいになるとこの狭い道の両側に3重くらいに露天がひしめくんですよ。で、当然客引きがあちこちからやって来るし、店の前ではお姉ちゃんが手招きするし」
 山畑さんが一軒の露天で、しばらくお兄ちゃんとやりあった後に時計を買った。950バーツ(≒4200円)が、結局は350(≒1500円)になった。そこまで値切る彼も大したものだが、それほどまでの値段を設定していた店の兄ちゃんもさすがのものだ。
 確かに、あちこちの店の前では水着姿の女性が盛んに呼びかけてくる。手に手に怪しげな日本語で書かれたビラを持った客引きが次から次へとやって来る。
 「それでもね、パッポンだから僕たちがこんな格好でも話しかけて来るんですよ。同じ格好でタニヤ通りに行っても、無視されるだけ。同じ夜の街でも、あそこはもっと金のある日本企業のサラリーマンが行く所だから」
 しかし、パッポンは単なる観光目的で来ても十分に楽しめる。それに買い物(と言っても偽物ばかりだが)目的でも、おもしろいみやげ物が手に入ると思う。エネルギッシュでちょっと怪しくて。香港の女人街や男人街と同じような場所ともとらえることもできよう。
 カオサンに戻った僕たちは、山畑さんが常連だと言うバミーナムの屋台で今日を締めくくった。彼はここでタイ語を教えてもらったり、皿まで洗ったりしたそうだ。
 ここのワンタンは、つるりとしていて、しかも肉が入ってる。なるほど、これなら毎晩通いたくなるのも分かる。
 さて、タイゲストハウスという所に滞在している平田さんが、そこをとにかくいい所だとほめるので僕たち2人も明日そこに移ることに決めた。


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