タイゲストハウス

 先日の約束通り、タイゲストハウスに移った。通称タイゲス。
 確かにこれは、口コミでしか伝わらないというような分かりにくい場所にあった。一度カオサンを出て、一本目の路地を入る。路地の入り口には、氷を敷き詰めた上に、様々な魚介類をのせているシーフードの屋台がある。民家の密集する中を通り、さらに細い道を曲がるとようやく入り口がある。
 カオサンから数十メートルしか離れていないのに、とても静かな所だ。
 扉を開けてすぐのロビーは半分がテラスのようになっていて、生い茂った木々を揺らしながら、心地の良い風が吹き抜けていく。なるほど、これなら直接日光が当たるボーニーゲストハウスの庭よりも過ごしやすい。
 レセプションでは昨日とは違い、若い女性が二人受け付けをしてくれた。休みの間アルバイトで働いているとのこと。確かに、客がいない時にはテキストを広げて勉強をしていることもあった。
 ところが、彼女たちは「シングルは一つしか開いていない。ツインの部屋でどうか」と言ってきた。どうも情報伝達がうまくいっていなかったようだ。僕としては別にどちらでも構わないのだが、一応約束は約束だから、「それはおかしい。昨日の晩にはちゃんと部屋をとっておくと言われたんだ。開いてないなら仕方ないが、ツインにする代わりにディスカウントしてもらいたい」と言った。
 しかしながら「だったらシングルに案内しよう」と、ちゃんと二つのキーを持ってカウンターから出てきた。どのようなシステムでここが成り立っているのか分からないが、いずれにせよ当初の目的はかなったわけだからよしとする。
 部屋はせまいが、きちんと整えられていた。ベッドにシーツはなく明るい黄色と緑色のマットレスが置かれているだけだが、汗の臭いもまったくない。壁は当然のごとく薄っぺらい木の板を張り合わせただけのようなものだったが、ていねいにペンキが塗られていたのでむしろ今まで泊まってきた所よりも高級感があった。
 今日はとにかくのんびりすることに決めていた。できることならすぐにでも出発したかったのだが、明日のチケットしか取れなかったのだからどうしようもない。ロビーでおしゃべりをしたり、のどが乾いたら冷蔵庫を開けてコーラを飲んだりしていた。
 午後に僕はマッサージに出かけることにした。2時間で200バーツ(880円)というのは大金だが、旅の前半の疲れを癒すにはもってこいだと考えたからだ。
 平田さんも山畑さんも付き合ってくれることになった。
 カオサンの入り口付近をちょっと入った所にそれはあった。
 中に入ると、人体のつぼと神経の関連を示した人間の筋肉の図が飾られていた。
 1階でまず、足を洗った。そして、階段を上がると、カーテンが閉められた薄暗い部屋にずらっと布団が敷き詰められていた。中にはマッサージを受けている人が数人いたが、まだ仕事のこない女性たちは固まっておしゃべりをしていた。
 僕が案内されて扉を開けると、まずよく冷えたエアコンの風が体を包んだ。エアコンにあたるのはヴィエンチャンのホテル以来だ。すっと汗がひいてゆき、おしゃべりをしていた中から一人のおばちゃんがやってきて、一つのふとんに横になるように言われた。眼鏡とウェストポーチを外すように言われたが、とりあえず貴重品の入っているウェストポーチは二人に預かってもらうことにした。
 一緒にやってきた二人は別にマッサージが目的ではなく、涼しい部屋で午後の一番暑い時間を過ごすことが目的だったので、「とりあえず我々はここで見学するから」と言って、隅の方に座った。マッサージ師の人たちは別にしつこく勧誘するでもなく「ああ、いいよ。まあ気に入ったらやってみなよ」という感じだった。
 ゆっくりとおばちゃんが体をもみ始めた。
 タイ古式マッサージの特徴の一つに、血を止めるというのがある。太股の内側をぎゅーっと押さえることで、血の流れを止め、そしてしばらくしてから手を放す。するとふわーっとまた血が流れ出すのが実感できる。
 2時間の間に何度か「おお、気持ちいい」と感じることがあったが、元来が肩や腰の痛む体質ではないので、予想していたほどの快感は得られなかった。
 しかし、クーラーの効いた部屋でのんびりと過ごすのは悪くなかった。体が宙に浮くというほどではないにしろ、終わった時には確かに体が軽くなっている気がした。
 最後にはおしぼりと、香りのいいお茶が出てきた。
 僕はすっかり満足してカオサンに戻った。
 クィティオナムにとうがらしをいっぱい入れて食べると、もう汗が吹き出してきた。
 せっかくだから、自分用にシルクの服でも買っていくかと、一軒の露店で足を止めた。店番をしていたのは、そこの娘さんのようだった。僕はあれこれとひっくり返して気に入ったものを二つにしぼった。しかし、さすがに二つとも買うわけにはいかず、どちらにしようかと鏡を見ながらずいぶん悩んだ。彼女に「どっちが似合うかな」と尋ねたところ、「どっちも似たようなものよ(Same, same.)」と、ノープロブレムと並んでよく耳にする英語で答えられた。
 しかし、値段交渉で決裂し、僕も相手の対応(この時は、彼女の母親が相手だった)があまりにそっけないので、最初はここで買おうと決めていたにも関わらず、その気持ちがしぼんでしまい、結局はあきらめた。
 他の店で今度はTシャツ2枚と短パンを買った。ここでも十代の女性が相手だったが、最後の最後に205バーツと200バーツの間での攻防に、その店での時間のほとんどを費やした。
 結局は彼女がやれやれという感じで200に収まったのだが、「よし、その5バーツの代わりに君の写真を撮ってあげよう」と僕は言って、シャツを袋に入れている彼女を撮った。本当に彼女は「しようがないわねえ」という表情で写っている。
 夜も相変わらずタイゲスのロビーで話しの輪に加わった。メインは中東各国の話しだった。
 伊藤さんという人が絵はがきなどを見せながら、中東の美しさを語っていた。偶然にも彼は以前まったく別の国で平田さんと出会っていたということが後の方になって分かった。
 「僕が中東に憧れるのも、伊藤さんの話しを聞いたからなんですよ。赤い電球が一つだけ灯ったゲストハウスの部屋で星空の素晴らしさを語ってもらったのがものすごく印象に残っていて。それで、今も何だが聞いたような話しだなとは思ってたんですが、しかしものすごい巡り合わせですよね」
 彼らの話は尽きることがなかったが、僕は明日マレーシアを目指すし、加えて寝不足気味だったので惜しくも先にベッドに入った。
 昨日のボーニーのベランダのベッドは、日が昇ると暑くて眠っているどころではなかったから。


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