さよならの風景

 ファランポーン駅を発車するのは2時過ぎだから、ゆっくり寝ていても十分に余裕があった。
 昼前にもぞもぞと起き出して、昨日平井さんが「もう、めちゃめちゃうまいっすよ」と言っていた屋台の豚足のせご飯を食べる。とろけるうまさ。ここは、地元の人も大勢やって来て、昼時だと間に合わないくらいに売れていた。
 しかし、これだけでは満腹にならなかったので、何かヌードルを腹に入れることにした。15バーツの屋台がある、と聞いていた辺りで見当を付けてみたが、そこは20バーツだった。麺の量はかなりあったが、味の方はいまいちだった。でも、これが最後のクィティオナムになってしまった。
 タイゲスに戻って、とりとめもない話しをした。
 平田さんも山畑さんもチャイナタウンに遊びに行くついでに、駅まで見送りをしてくれると言う。
 僕は駅まで出るルートをトゥクトゥクか市バスしか知らなかったが、ニューワールドデパートの近くの運河から、船が出ていると言う。ニューワールドまでは歩いても5分くらいだし、それに何より運河だと渋滞に巻き込まれることがないから、安心して行ける。
 運賃は6バーツだった。運河そのものはかなり臭い。家の軒先をかすめるように、かなりのスピードで水の上を走っていく。花を飾っている家なんかもある。所々で工事が行われているので、その間を縫うように器用に進む。

ファランポーン駅
 駅にはすでに僕が乗る列車が待っていた。派手なサリーを身にまとったインド人らしき一段が賑やかに別れを惜しんでいた。
 僕はチケットを片手に、まずは座席を確認。寝台車だが、昼間は通常のシートだ。僕は少しでも安くということで、上段を選んだが、これは飛行機の上部の荷物入れのように手前に開いてベッドができあがる仕組みだった。
 二人に別れを言い、定刻になった。しかし列車が出発する気配はない。
 別れ、というのにもタイミングがある。僕たちも駅に着いてすぐはのんびりと雑談を交わしていたのだが、発車時刻が近づくと二人はホームに戻り、「それじゃあ」などと言って雰囲気も何となく盛り上がっていた。それなのに、出発しないのだから、5分10分と経つ間にその雰囲気が間延びしてきた。その間に山畑さんが餞別だよ、と小さいドーナツを一袋売店で買って渡してくれた。
 しかし、それでも30分後にはようやく列車は動き始めた。別れの瞬間はさすがにさみしい。
 カンボジアで知り合い、2週間後にバンコクで再会を果たした彼ら。一緒に酒を飲み、食事をし、語り合った彼ら。
 窓から身を乗り出し手を振ったが、駅を出るとすぐに緩いカーブがあって、あっと言う間に姿は見えなくなった。
 寝台車のシートは、夜には下段のベッドにかわるため、シートにしては幅が広めだ。
 出発してしばらくはまだまだバンコクの市街を走る。線路の両脇ぎりぎりにまで家が建ち並び、洗濯物がすぐ目の前で風にはためいている。子どもたちは線路で遊んでいた。ピーと言われる精霊をを祭った祠も見える。
 食堂車から注文をとりにきたが、とてもではないがそんな余裕はない。
 僕の目の前に座ったのは同じ年か、少し上くらいの女性だった。最初はタイ語で話しかけられてしまった。僕はタイ語が分からないし、彼女は英語があまりできないようだった。ずっとウォークマンで何かを聞いていた。せっかく女性と向かい合っているのに、なかなか話すきっかけが見つからない。
 仕方なく僕はマレーシアでどうしようかとプランを立てることにした。「歩き方」をぱらぱらとめくっていると、50代くらいの日本人男性が関東風のアクセントで話しかけてきた。完全な東京弁で、なんだか僕が責められているような気がした。でも、これは僕の思いこみにすぎない。関東人が関西弁を評してヤクザか漫才師のような言葉遣いだと感じるのと同じような、無意味で個人的な受け止め方なのだから。
 こちらが圧倒されるほどに彼はよく口を動かした。「この姉ちゃんかわいいな」という感想を僕に伝えた後、タイ語も少し知っているようで何事かを話しかけていた。彼女が少し窓側に寄って、彼のために場所を作ってくれて、おじさんは喜んでいた。
 「俺はよくこの国際急行に乗るんだけど、去年の洪水の時はそこら辺の家はみんな浸水して、列車もバシャバシャ音を立てながら走ってたくらいだ」……。
 タイのことに詳しいようだが、どんな素性の人なんだろうかと僕は少し疑問に思った。見た感じ決して悪人には見えなかったが。
 「今は、お仕事夏休みなんですか」と尋ねたところ。「いやあ、俺って風来坊でさ、まともに職に就いたことがないんだ。日本で働いて金ができるとすぐ外国に出るって生活でね」と言った。
 なるほど、これも一つの生き方だ。
 彼にドーナツをおすそ分けするついでに、というか実は彼をだしにするつもりで、さりげなく向かいの女性にもすすめてみたけど、彼女は鞄から同じものを取り出して「ほら、私も持ってるから」というようにニコッとした。せっかくこれを機に仲良くなろうと思ったのに。
 「それじゃあ、俺は自分の席に戻るよ。本当は寝台で行きたかったんだけど、昨日予約したら、もう残ってなかったから向こうの車両にいるんだ」と言って、彼は去っていった。
 市街を抜けて少しの間は高級そうな家が立ち並ぶエリアがあって、それから先はもう水田か草原が続くだけだった。
南へ向かう列車
 夕方に一度スコールがやってきた。雨が入り込むから窓を少し下ろしたが、おかげでずいぶんと涼しい風が流れるようになった。
 日が沈む少し前にまた彼がやって来た。手に持っていた駅弁の一つを僕に渡して「食べなよ、焼き飯だけどさ」と言ってきた。
 彼は自分の分の焼きそばまで食べるように勧めた。しかし、こんなによくしてもらういわれはない。僕はありがたいと思いながらも、きっぱりとお金を払おうとした。すると、「いいよ、いいよ、学生さんなんだろ」と言って、取り合わなかった。
 「でもね、これじゃ量少ないよね。10バーツじゃなくて、20バーツの方がいっぱいあってうまいんだ」と、彼のその言葉があったから、僕は次の駅で窓越しに20バーツの弁当を買ってみた。
 短い時間で効率よく売り買いするために、弁当箱のふたにはマジックで値段が大きくかかれていたから、すぐに分かった。ご飯の上にそぼろと辛いタレをかけて食べるそれは、しかし冷えていたせいもあってそれほどうまいとは思えなかった。それでも、とりあえず腹はふくれた。
 早いもので8時過ぎにはベッドメイキングがなされた。シーツも枕カバーもピッと張りがあってきれいだった。
 いくらなんでも、こんなに早くは寝付けないから、ビールでも売ってないかなと、ある駅で下りた。残念ながらビールは見つからなかったが、代わりにお粥を食べた。下車してすぐに売り子が寄ってきて一度は腹は減っていないからと断ったのだが、結局買った。お粥にそぼろ、うずら卵、青菜がのっていた。熱々なのが何よりうれしかった。
 ドアは開けっ放しだから、再び動き出した電車に乗り込んだ僕は、そこで風を受けながらふーふー言ってそのお粥を食べた。
 生まれて初めての寝台車だったが、それまで想像していたほどに快適とは言えなかった。まあ、寝台車には乗りたいが大金は払えないという事情から2等寝台の上段ベッドを選択したのは僕自身なのだが。
 まず、窓は下段にしかないから外からの風は全く入ってこない。加えて、扇風機の風は座席に向かって吹くように設置されているので上段のベッドには、その余りがほんのちょっと吹き込むだけ。さらに、カーテンがあるが、それを閉めてしまってはそのわずかな風も完全にシャットアウトすることになる。しかたなく、明かりが差し込むのはがまんして、カーテンは開けたまま寝た。寝相が悪い僕は夜中に通路に落っこちないだろうかという心配があったが、これはちゃんと対策がなされていた。
 以前のタイプの車両では、夜中に下に落ちてケガをする乗客が後を絶たなかった。しかしついにある時、タイ人の老女が落下して、打ち所が悪く亡くなってしまうという痛ましい事件が起きた。それ以来、鉄道側は重い腰を上げて改善に乗り出し、結果として今は頭の方と足下との2カ所に太いベルト状のものをベッドの端と天井との間にフックで掛けることによって、よほどのことがない限り落下事件は防げるようになった。だが、残念なことに、この措置によりタイ国鉄は上段と下段との値段差を大幅に縮めることにしたのだ。
 ……これはウソ。でも、本当に落下防止のベルトは付いている。
 列車のガタゴトという振動もずっと続いているから慣れてしまって、意識してようやく「あ、寝台車に乗っているんだな」という感触をつかんだが、間もなく眠りについた。


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