ペナン食べ歩き

 ハジャイで、前の席の女性が下りていった。
 昼頃にようやく、タイ・マレーシア国境の駅、パダンベサール到着。手続き上は国境駅だが、地図の上ではもうマレーシアだ。ずいぶんとこぎれいな駅だった。タイの駅では、駅名は木に書かれていた。しかし、ここでは金属製の青いボードに、白くくっきりとPADANG BESARと書かれていた。
 駅舎の中に両国のイミグレや両替屋がある。乗客の流れに従って荷物を持って建物の中に入っていった。手続きは出入国共にスムーズにすんだ。手に持ったパスポートを見ていると日本人もかなり乗っているようだった。

イミグレーションオフィス
 税関でバックパックを開けたときに、蚊取り線香の缶を取り出した係官に「これは何だ」と聞かれたのには戸惑った。どう説明したらいいんだ。しかし、「ああ、モスキートコイル」かと彼が自分で納得した。なるほど英語ではそう言うのか。小さい方のザック(僕が持っていたのは、着替えなどの大荷物を入れる45リットルのバックパックとその後ろにチャックで取り外しができる、手回り品を入れるための小さいザックだった。普段はその小さい方だけを持ち歩いていた)を開けようとしたら「いいよ、もう行って」という具合にあっさりしたものだった。
 それまで客車を牽引していたタイ国鉄のディーゼル機関車が、マレーシア国鉄のものに替わった。何となくこちらの方がきれいで、馬力もありそうだ。
 風景は相変わらずだが、森の中に飛ぶ鳩くらいの大きさの真っ青な鳥を何羽か見かけた。南国にやって来たんだなと思う。
 昼頃にバタワース到着。このまま電車で先を目指すにしろ、もう一度ここで窓口に並んでチケットを買い直さなくてはいけないシステムになっているから、とりあえず全員が下車した。
 僕にはここがマレーシア最初の目的地への入り口だった。
 マレーシアの通貨、リンギットを手に入れる必要がある。最後に残っていた20バーツがあったのだが、先ほどのパダンベサールの両替屋には断られていた。さすがに、こんな少額ではできないのだろうかと不安に思いながらもとりあえず、この駅にある両替屋に入っていった。念のために、確実に両替できる1000円札をポケットに入れながら。
 旅行代理店にはそこでアレンジできるツアーの行き先の地名や、ヴィザの代行を行っている国名が大きく書かれているが、ここには各国の紙幣がガラスの窓にべたべたと貼り付けてあり、その中に見慣れた夏目漱石の顔もあったからだ。
 なぜ、ここでトラヴェラーズチェックを両替しないのか。答えは簡単だ。目的地であるペナン島にある個人の両替商の方がいいレートで交換できる情報を得ていたからだ。
 「これだけなんだけど、両替できるかな」「ええ、できますとも(Sure!)」
 プノンペンで耳にしたWhy not? と同じく、すごくホッとする言葉だ。
 とりあえず、フェリーに乗るだけのお金は確保した。そのまま人の流れに乗ってフェリー乗り場へ歩く。おもしろいことに、こちらから島に渡るときは料金が必要だが、逆のルートの時は無料だということだった。
 柔らかい日差しが降り注ぐ海はエメラルドグリーンに輝いていた。穏やかな水面を大きなフェリーがゆっくりと進んで行く。ペナン島は目と鼻の先だ。丸く白いビルが水色の空にとどくかのようにそびえていた。それだけが高い建造物なので、やけに目立つ。
 トライショー(自転車のような人力の乗り物に座席を設置したもの。今までの国ではシクロと言っていた)やタクシーの客引きは全くしつこいところがなく、むしろ拍子抜けするほどだった。
 聞いていた、32人部屋のドミトリーがあるプラザホステルは場所が分からず、とりあえず安宿の集まるチュリア通りを歩いていった。これは船着き場からほとんどまっすぐ歩けばいいので分かりやすい。大安旅社という所が安いらしいのだが、残念ながら部屋はなかった。
 もう少し歩いて、目に付いたスカイホテルという所に入った。スカイホテルと言えば聞こえはいいかもしれないが、何のことはない看板には晴天旅社とも書いてある。典型的な安宿だ。しかし、ここでもドミトリーはいっぱいだと言われた。しかし暑い中これ以上探すのも面倒くさいし、早く落ち着きたかったので15リンギット(≒610円)のシングルに決めた。どうせ、この街には一泊しかしないことでもあるし。
 部屋は思いのほかに広かった。しかも棚やライティングデスクも備え付けられていた。
 チュリオ沿いにあったインド系のおじさんがやっている両替屋でチェックをリンギットに換えた。
 「もうちょっと何とかなんないかな」「そうは言うけどさ、ほら今日の新聞の経済欄見てごらんよ。この公式レートよりいいだろ」「うん、そいつはわかっるんだけど、ほらもうちょっと頼むよ」「よし分かった。我が友よ、もう50サン(≒20円;1リンギット=100サン)だけ上げよう。けどここまでだぜ」という感じで、僕はリンギットを手に入れた。だけどいつの間に彼と友達なったのだろう。まあ、いいか。
 ここに来る途中で、地元の人で賑わっていた一軒の鶏飯屋が頭から離れなかったので、そこで食事をとることにした。
 平皿に、丸く形取られたご飯と鶏肉がのっていて、中華風の油っこいタレがかかっている。そして、湯飲みのようなカップからはスープが湯気を立てている。また、小皿にはとうがらしの入ったタレが入っていた。
 周りの人のやり方を観察してから、鶏を小皿のタレに絡めて食べる。鶏肉はとろとろと柔らかい。タレをたっぷりと吸ったご飯も次から次へとお腹におさまってゆく。
 コムタというのが、先ほどフェリーから見えたビルの名前だった。そこは展望台や数々の店も集まり、その一体はここジョージタウンで一番賑やかな場所らしい。また、そこはバスのターミナルにもなっており島内を巡るものはもとより、クアラルンプールなど他の都市へ向かう長距離バスもそこから発着する。
 僕は見物と、クアラルンプールへの値段を調べるためにそちらへ歩いて行った。迷うはずがない。ちょっと顔を上げて、ぐるっと見回せば必ず目に飛び込んでくる。
 道すがら、先ほど食事をとったばかりなのに、クリーム色のタマネギを抱いたモスクの横の狭い路地でカレーの屋台に引きつけられた。ターバンを巻いたおじさんが忙しそうに働いている。
 色々な香りのするルーがいくつも並んでいる。これとこれちょうだいと言って、席に着いた。しかし、大きな釜に入ったご飯は、僕の目の人でちょうどなくなってしまった。びっしりとおこげがついていて、僕はそれも食べてみたいと思ったが、あっと言う間に水に浸されてしまった。
 「ちょっと待ってて」ということで、その数々のルーを眺めていると炊きたてのご飯が出てきた。海のものをしばらく口にしていなかったから、僕が頼んだルーの一つは小さなイカが丸ごと入ったものだった。大降りのエビなんていうものもあったが、経済的な理由からイカにした。
 新しい国に入った時に何に戸惑うか。言葉という答えが浮かぶ人もいるかもしれない。しかしこれは違う。だって、僕たち旅行者はよほど特別の場合を除いては、英語を主要に用いるからだ。それぞれの国でなまりがあったり、独特のイントネーションがあったりということはあるにせよ、英語が分かれば何とかなる。もし英語で通じなければジェスチュアもある。
 では、本当の答えは何か。あくまでこれは僕の感覚だが、それはお金の問題だ。単に通貨の呼び名が替わるだけではなく、同じ額面でも価値が異なる。さらにややこしいことに、お札ならぱっと数字が目立つようにデザインされているが、小さなコインは色も違うし分かりづらい。1円玉よりも小さいコインもあったりする。
 けれど、屋台なんかではあまり大きなお札を出すわけにもいかない。だから僕はとりあえずウェストポーチに小銭を多めに用意しておく。そして、一つかみ取り出して、手のひらにのせ、店の人に取ってもらう。それを何度か繰り返す内に、何となくその国の貨幣制度に馴染んでゆく。
 このカレー屋台でもその方法で払った。
 両替したばかりだから余裕がある。歩きながらフルーツの切り売りを買ったし、コムタの下のスーパーで買ったアンカービールもごくごくと飲んだ。
 このアンカービールは、この旅で口にした中で最も気に入ったビールだ。一瞬スペルを見たときに「えっ、アンコールビール?」と思ったが、大きくイカリの絵が描かれていた。
 そこでは、みやげ用に「ドリアンケーキ」なるものも買ったのだが、後日それを食べた人間は概して、とってもいやな顔をして、吐き出すか急いで飲み下すかだった。最もひどい感想は、「まるでドブの香り」というものだった。確かに、生のドリアンもきついが、これはまた別の味としてひどかった。メロンはおいしくても、メロン味のお菓子はまずいというのと似ているかもしれない。
 ぶらぶらと見物しながら上っていった。5階のフードセンターでナシゴレンを食べた。これはよく言われることだが、マレー語で「米はナシ、人はオラン」のその米を炒めたもの。つまりマレーシア風の焼き飯だ。大抵どこでも一番安い。同じように、マレーシア風の焼きそばはミーゴレンと言う。表記はローマ字なのでこれくらい覚えておけばとりあえず食事はできる。
 そこから上は会社などが入っているようで、行くことができない。一端1階に下りて、今度はそこのジューススタンドでマンゴージュースを飲んだ。
 バスターミナルでクアラルンプール行きのバスの値段をチェックしたり、グァバジュースを飲んだりした。今日は飲み食いしてばかりだが、これではとどまらない。夜にもいっぱい食べた。
 次に目指したのはペナンヒル。
 まだまだ昼間の熱気が残るコムタを後に、30分くらいバスに揺られた。そこからさらにペナンヒルの真下まで行くバスが出ていたらしいのだが、それを知らなかった僕は歩いた。途中、道を聞くついでに一軒の食料品屋でビールを買って飲みながら。
 ケーブルカーが動き始めると、ひんやりとした空気が体を包んだ。おや、エアコンかなと思ったが、開け放した窓から流れ込む自然の風だった。
 途中で一度乗り換えがあったが、結局30分ほどで山頂に到着。夕日にはすんでのところで間に合わなかったが、眼下のイルミネーションはもう少し暗くなると映えるだろうと思い、しばし待つことに。
 真っ暗な海の上にポツポツと光っているのは船だろう。しかし、何より目立つのは島と半島を結ぶ橋のイルミネーションだった。
 ぼんやりと眺めていると、ここにも日本人がいて現地ガイドの説明を聞いたり写真を撮ったりしていた。
 下る時に、中学生か高校生くらいの日本人の女の子が、夜景を見ながら「わあー、超キレイ」「チョベリグー」と感想をもらしていたのには驚いた。
 ツアー客達は、待ちかまえていたバスに乗り込んだが僕は歩いた。
 途中、団地の広場のような所で祭りに出くわした。周りの人に尋ねたところ、満月を祝う祭りなのだそうだ。「お茶やコーヒーはフリーだよ」と言われたので、人が集まっている店との下で一ご相伴に預かった。
 自転車の荷台にくくりつけた木の箱に入った餅にすりゴマをまぶしたお菓子を買って食べた。前方のステージでは新時代歌劇団というグループが歌っているが、ぱっとしなかった。
 大きな中華鍋でおばちゃんがミーゴレンを作っていたので値段を尋ねたところ、「これも無料だよ」
 わざわざ箸と皿を持ってきてくれた。
 適当に目に付いた所でバスに乗った。いずれにせよコムタには着くだろうからそこで下りればよいと思った。しかし、運のいいことにフェリーターミナルまで行ったので、そこから歩いてチュリオ通りに戻った。
 夜のチュリアは屋台と人々のざわめきであふれていた。
おでん?屋台
 僕はおでんのような屋台に近くで買ったビールを持ち込んで、一人楽しくやっていた。あらかじめ竹串に何種類もの具がさしてあり、それをぐらぐら煮たぎっていお湯でゆでて、3種類あるタレの好きなものにからめて食べる。魚、肉、ちくわ、野菜、レバー、ピータンなど実に豊富だった。串には、色が付いていて、それによって値段が分かるようになっている。それぞれ20、30、40サン(≒10円、14円、19円)だったが、やはり僕がメインに食べたのは20サンの串だった。回転寿司で、安い皿ばかり取って腹をふくらませるのと同じようなものだ。
 さらに別の屋台でヌードルを食べ、またビールを飲んだ。
 これだけで僕の食べ歩きは終わらない。再びさっきのおでん屋台に行き、また数本腹におさめた。ところが、具が抜けてお湯の中に入ってしまった。すると、店のおじさんがおたまでさっとすくってくれた。
 お金を払う時におばさんに、サンキューと言うと、ずっとぶすっとしていた彼女だが、にっこり笑ってサンキューと返してくれた。


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