春を駆け抜ける

 ハウラー駅を夜中の11時に出て、昼の2時半にヴァラナシに着くヒミグリエクスプレスというのが、僕たちの乗る列車だった。余裕を持って早めに到着した駅の待合い室で僕たちは、それぞれの友達へ絵はがきを書いたり、辺りを見て回ったりして出発を待っていた。
 なんせ、インド亜大陸を巡る鉄道だけに、インドの主要な駅には待合い室だけではなく、食堂やあるいは簡単な宿泊施設まで用意されている。しかし、そうは言っても大多数の人にとっての待合い室や食堂や宿泊施設(リタイアリングルーム)は、だだっ広い駅構内の床、ということになる。
 時間が夜だったこともあり、大勢の人が床に寝ていた。自分でわざわざ布団を持ち込んでいる人までいる。なぜだか、インド人には布団を持って移動する人がいるのだ。
 日本では基本的に普通とグリーン車という二つの等級しかないが、インドの鉄道にはいくつもの区別がある。なぜに、ここまでと僕などは思ってしまうほどなのだが、どうしてなのだろうか。イギリス占領時代の名残かもしれないし、あるいはカースト制度なんかも関係しているのかもしれない。シートが木かクッションか、座席か寝台か、1等か2等か、それぞれでエアコンが付いているかいないかと言った区別がある。
 僕らが予約したチケットは「2等寝台エアコンなし」という下の上程度のものだった。
 時間になって、目的の列車がやってきた。しかし、どこが何両目なのか、どれが僕たちの乗る等級なのかが極めて分かりにくい。人に聞いたり、食堂車へ迷い込んで「ここは違う」なんて言われながらようやくに乗り込むべき車両を見つけた。入り口に貼られた予約シートに名前があることをチェックして乗り込む。
 結果として僕はこの旅の間に、ぎゅうぎゅう詰めで固いイスの2等の自由席から、豪華なシャタプディエクスプレス、それに1等寝台まで使ってみたが(純粋に好奇心から)、はっきり言って夜行を利用する時であっても、この2等の寝台が一番合理的であると結論づけたい。エアコンについては時期が時期だけに、必要だとも思わなかったが、真夏や南インドではまた事情が異なってくるかもしれない。
 さて、2等寝台は通路を挟んだ両側に座席がある。
 一方は二段ベッドになり、もう一方は三段式だ。もちろん、昼間はみんな一番下のベッドになる所を座席として利用する。二段の方は進行方向に沿う形で、元々上の方のベッドは固定されている。そして下の方に向かい合った座席があり、その二つの座席の背もたれをパタンと内側に倒すと、それがベッドになる。
 また三段の方は、進行方向と直角にベッドがあり、二組ずつが向かい合っている。一番下は昼間は座席で3人が座る。そして、そこはそのままベッドにもなる。真ん中の段のベッドは下の座席の背もたれを90度持ち上げて、ぶら下がっている鎖をフックに引っかけるとできあがり。一番上は最初からベッドのままだ。
 さて、それではどこに陣取るのが一番いいのだろうか。もちろん、一応は指定席だから予約の時にどこそこにしてくれと頼んでみるわけなのだ。ちなみに僕はずっと後になるまで座席のリクエストができることを知らなかったのだけど。
 二段の上の方、というのが僕の答えだ。いずれにせよ、上は常にベッドになっているわけだから、好きな時に寝起きできる。それに二段の方は、天井が多少張り出しているものの、広い空間があるからだ。
 また、天井には扇風機が付いているが、ちゃんと動くのは半分くらいだった。そして、窓には鉄格子がはめられている。
 列車が重たげに走り始めた。そしてそれほどの時を待たずに眠りについた。カルカッタで買ったチェーンでバックパックをベッドを支える鉄の棒に固定して。枕代わりにするには大きすぎるが、やはり体が触れる範囲に置いておきたいから、仕方なく僕は足を曲げてビニール張りのベッドの上に寝ることにした。
 翌朝早く目が覚めると、列車は一面菜の花の咲く草原を走っていた。昼は暑く、夜は冷え込んだが、こうして早朝の空気の中で黄色と緑で彩られた農村地帯を目の当たりにすると、それはまさに春の風景だった。そして線路際にはヤシの木が何本もくっきりとした青い空に向かって伸びている。
 早く目が覚めたのは、周りが騒がしいからだ。みんな、起き出すのが早い。それに、物売りの声がまたよく響くのだ。様々な物売り、あるいは物乞いが声を発していた。ある程度の大きさの駅に着く度に、乗り込んできては声を上げる。僕が聞き取れたのは「チャイー、チャイー」という声と、「ポリッス、ポリッス」という声。「ポリッス」だけではなんのことやら分からないが、その少年の姿や、あるいは「シューポリッス」という音を聞いたらすぐに判明する。そう、「shoe polish」だ。どうも「sh」の発音が苦手なのか。そういえば、昨年のヴェトナムでも文字を見るまで「フィス」が「fish」のことだと理解できなかった。
 他にも、新聞にピーナッツ、サラダ売りなんかもいた。大きな平たいざるに材料の紫タマネギ、コリアンダー、ケッパー、豆などをのせて、それを小さく切った新聞紙の上でスパイスと混ぜて売る。フライパンで炒めものをするように、その小さなスペースの上でザッザッと混ぜていくのはちょっとした見物だった。
 物乞いもまた色々なのがいた。体の不自由なのを見せながら金を求める人、歌を歌いながら車内を歩く人(これも実に見事な歌声から、歌以外の手段を考えた方がいいのでは思わせる人までいた)、または小さなほうきを携えて、それで車内を掃除して後にお金を回収に来る子ども。
 また、窓の外にはおもしろいものがあった。塀に何かがびっしりとくっついているのだ。手のひらよりも一回りほど大きい丸いもので、数本の筋が入った茶色い物体。進行する列車から目を凝らして見ると、どうやら牛の糞。それを整形して手を押し当ててその指の後が模様みたいに見えるのだった。
 単線のため、列車は何度か止まることがある。その間に僕は外に出てみた。ドアに鍵はかかっていないから簡単に出られるし、実際に外に出て体を伸ばしたり、外の空気を吸って疲れを癒す人もいる。
 そして向かいからやってきた列車とすれ違うと、またゆっくりと走り出す。なかなかスピードに乗らないから走り出したからってあわてて駆け込む必要もない。幼い頃に読んだ本だろうか、あるいは目にした映像だろうか、とにかく何かしらに影響されて、僕は走っている電車に飛び乗る、という行為にずっと憧れがあった。それを実際にできるのだった。3段ほどの段があって、扉の横には手すりが付いてる。まず小走りしながら、段に足をかけて手すりをつかむ。そしてぐいっと体を引っ張って勢いを付けて車内へ。
 けれども、そうやって色々と未知なることに出会って楽しめたが、しばらくすると飽きてくる。予定の時間になってもまだ目的地には到着していない。まあ30分くらいの遅れはもちろんあるだろうと予想していたのだが。
 一つ手前のムガールサラーイに着いた時、歩き方に「ムガールサラーイ駅から市内に入るには」という記事があって、てっきりここで降りるのだろうと僕は思った。そして荷物のチェーンを解き、とだたばたしていたら、前に座っていたおそらくは夫婦二人連れの男の方が「どこへ行くんだ」と声をかけてきた。「ヴァラナシへ」と言うと、しきりに否定のニュアンスを込めたジェスチュアで進行方向を指さしながら何事かを伝えようとしている。片言の英語も使っていたが、どうやらあと一つ先がヴァラナシ駅らしい。危ないところだった。
 こんな風に、僕は鉄道を使う度に、周りの誰かに世話になった。そうでもしないとなかなか降りる駅すら分かりにくいのだ。それだけではなく、乗り込むときにもまず聞き込みから始めなければならないことの方が多かった。
 そのムガールサラーイでまた長いこと停車していた。30分くらい止まっていたのではないか。「次の駅だ」と聞いていただけに、あと数分で着くだろうと楽観していたのでこの最後の数十分はちょっとつらいものがあった。
 ようやく動き出した列車が、途中で大きな鉄橋を渡った。そう、橋の下を流れるのがガンジス川だ。ヒンディー語で「ガンガー」と呼ばれる、ヒンドゥー教徒にとって聖なる大河。
 実際にその場所に行ってそこにあるものを自分の目で見る、というのは旅の大きな意義の一つである。しかしそれとて、常に感動を伴うというものでもない。もちろん、「おお、これが……」と感じることの方が多いのだけど、まあいい意味でこのガンガーは僕の予め持っていた矮小なイメージを砕いてくれた。多少の失望感と共に。けれど、それは「正しくものを見る」「他の価値観と比較できる」、そして「自分の偏狭さを身に沁みて知ることができる」というようなプラスの意味をもたらす。
 旅の目的の大きな一つが、このガンガーに出会うことだった。その5、600メートルはあるだろうという長大なマーラヴィーヤ橋を渡る時、この聖なる川に向かって多くの人が祈りを捧げるような崇高な光景が見えるのではないか、と勝手に僕は考えていた。もちろんそれは日本で培ったイメージがほとんどなのだが、一度カルカッタのハウラー橋をタクシーで渡った時に、運転手が夕陽に向かって手を合わせたことがあった(もちろん、ハンドルからは放して!)から、というのも理由の一つではあった。
 ところが実際には、多少外を見やるものの別段それまでの車内の雰囲気と変わったところは認められなかった。

ヴァラナシ駅
 そして、ようやくにヴァラナシ駅に到着した。結局予定よりも2時間と30分だけ遅れて。さっき、もう一つ先だと教えてくれた人も降りていった。
 僕たちが着いたのは10番線だから、ここはかなり大きな駅だった。大勢の人、何が入っているのだろうと言うほど大きな荷物、そしてそれをひょいひょいと運ぶ赤い上着を着たポーター、バナナやミカン、タバコなどの物売り、それに何頭もの牛で溢れかえる駅でもあった。
 出口を求めて歩いている横で、一頭の牛が勢いよく小便を始めた。もう少しタイミングがずれていたら足にかかるところだった。危ない、危ない。
 ヴァラナシに着いた僕たちがまず訪ねたのは、構内にあるツーリストインフォメーション。次の目的地はネパールのポカラと決めていた。この街からバスが出ているらしいから、その情報を手に入れるためだった。そして、できればこの日の内に予約をしておきたかった。あまり残りの日程がない今川さん(彼女は、帰国して数日で次はインドネシアに飛ぶことになっていた)に合わせたのだが、まあ僕はカトマンズから下りてきてどうせここを通るのだから、もし気に入ったらまた戻ってきてもいいと思っていた。そして実際に僕はとてもここを好きになったので、また訪れた。2ヶ月弱という短い日程の中で、二度目は1週間近く滞在した。
 ツーリストインフォメーションのじいさんは、「こんにちは」と話しかけてきた。ま、日本人がよく来るからそれくらいの日本語は知っているのだろうな、とくらいに僕は思った。だから当然のごとく英語で用件を伝えると、返ってきたのは立派な日本語だった。片言なんてものではない。そしてその場でチケットを切ってくれた。どこかに電話をかけたり、コンピューターの画面に向かったりして予約状況を確認するということもなしに、あっと言う間だった。「大丈夫かな」とも思ったけど、さすがに駅の中にあるちゃんとした施設だけのことはあった。後日、しっかりとバスに乗ることはできた。どうやら、この親父が扱った分がオーヴァーブッキングになっていたという以外はノープロブレムだった。何より、料金も手数料なんか取られていなかったし。
 僕たちがバスのチケットを受け取ると、今度は地図を取り出してきて事細かに役立つことを教えてくれた。曰く「どこそこ辺りのみやげ物屋はぼったくる」、曰く「安宿はこの辺りにある」、曰く「オートリクシャーで行っても、大体駅からここまでだったらいくらくらいだ」等々。
 痛感したのは「英語を母語とする連中と、僕たちの旅とでは決定的に何かが違うのではないか」ということだった。わずか10分ほどだったけど、完全に日本語だけで用が足りたこのインフォメーションでは、英語で意志を伝え、必死になって相手の言うことを聞き取るという努力が全く必要とされなかったため、あっけなかさを感じた。それは確かに楽ではあったのだが。もちろん、旅の本質は英語のトレーニングなどではなくもっと別の所にあるのだが、それでも外国語である英語を主に使って旅をする僕らと、慣れ親しんだ言葉で意志疎通ができることの多い人々とを比べるわけにはいかない。しかし、それでも何かは違うと感じざるをえなかった。
 宿は、今川さんがカルカッタで知り合った人から勧められていたゲストハウスを目指すことにした。オートリクシャーで人混みと牛混みでごった返す通りを、爆音と共に駆け抜けて、10分くらいで着いた。途中で一度リクシャーの調子が悪くなって、運転手が他のリクシャーをつかまえてそれに乗り換えるということがあったが。
 ただ、ガンガーを見おろすことのできる広いテラスがあるその宿はいっぱいだった。どうしようか、と思っていたらリクシャーの運転手が「この近くにいい宿があるから、見に行かないか」と誘ってきた。近くだから歩いて行こうと言われた。とりあえず僕が荷物を置いたままリクシャーと二人を残して彼の後をてくてくと着いていった。てくてく、てくてくと。何が近いものか。結構歩いた。けれど、彼は途中で「ここは、昔のマハラジャの住んでいた跡だ」などと、色々しゃべってくれた。
 ようやくに着いたそこはチャンダゲストハウスという名前だった。「ツインの部屋しか空いていないけれど」と言われたが、部屋は清潔で、なんと言ってもシャワー(もちろん共同の)でお湯が使えるというのが僕には魅力だった。これで80ルピーだと言われた。3人で頭割りすればかなり安い。僕は宿の人に「日本人ている?」と尋ねてみた。「ああ、一人随分と長いこと泊まっているよ」と言われたので、ちょっとほっとした。
 断っておく。「日本人が一人でもこの宿にいる」ということについてほっとしたのではない。「数多くは泊まっていない」という事実に喜んだのだ。いずれ書こうとは思うが、あまり日本人が多い所は苦手だから。けれど、だからと言ってどこかに行った時に「うわ、日本人ばかりだなあ」なんてことは言わない。
 とりあえず二人の所へ戻って話しをすると、それでいいということになった。
 その夜は、高さの数センチ違うベッドをくっつけて、3人で雑魚寝した。


戻る 目次 進む

ホームページ