Top of the World

 ポカラでは、早起きした方がよい。いや、そうすべきなのだ。間違っても、「眠いから」などという日本にいる時も毎日のように使っている言い訳でベッドから出ないのは、ポカラにいることの重要な意義の一つをみすみす放棄することになる。
 そう、僕はへとへとになってポカラに着いた翌日、二人と一緒に早朝の散歩に出ればよかったのだ。
 ここへ来たのは他ならぬヒマラヤを見るためであった。湖があるらしいので、そこに船を浮かべて眺める山並みはさぞかし美しいに違いない、という期待があった。
 そのためだけであったと言っても過言ではない。もちろんのこと、おもしろいことはわんさとこの街でも出てきたが、ポカラを目指した元々の理由はトレッキングやラフティングなんかでヒマラヤにぶつかり、その雄大さを感じるなどというものではなかった。軟弱な僕は「え、山登り。だるいやん。近くから眺められたらそれでええんちゃうの」としか考えていなかった。
 「俺、寝てる」と言って、再び惰眠をむさぼっていたら、いつの間にか長谷川君が戻ってきた。ヒマラヤが見事であったと、感動の余韻覚めやらぬ声で教えてくれた。しかし、朝の内にしか見ることはできず、しかも今日は5日ぶりに雲が切れたのだ、という宿の親父からの情報も携えて。
 何たることだ。僕は中学3年だった頃と同じ過ちを起こしてしまったのか。東西ドイツ統合という歴史的瞬間をテレビで見ようと楽しみにしていたのに、布団でぐずっている間にベルリンの壁は崩壊してしまったのだ。
 それでも僕がようやくベッドから這い出て、3人で朝のチャー(インドで言うところのチャイ)を飲みに出かけた時でも、運良くヒマラヤに出会うことはできた。
 ホテルパノラマの前の通りをわずかに歩いたところに、うまいぐあいに草原があり、そこに立ちすくんだまま僕たちはヒマラヤに見入っていた。

マチャプチャレ
 透き通る大気の中に、それはあった。
 真っ青な空。青灰色の山肌をさらけながら、雪をいだきそびえる山。朝の日差しに際立つ陰影。
 山というと、緑色でなだらかな稜線を持ち……というイメージのあった僕にとっては、見慣れた山にここでも出会ったとは感じられるはずはなかった。岩、という言葉の方がふさわしいかもしれない。しかし、その巨大さと左右に広がったそれは、やはり山脈であった。
 けれど残念なことに、ちょうど三角に切り立ったマチャプチャレ(「魚の尾」の意味らしい)の中腹辺りに、狙いすましたようにひとひらの雲が浮かんでいた。
 「さっき見た時はなかったけど」と言う、二人の言葉に僕は後悔した。
 友に宛てる手紙に、どんな言葉でこのすごさを伝えたらいいのだろう。思いを巡らせながら絵はがきを物色していたら、見事なコピーに出会った。月光や夕陽などいくつかのヴァリエーションの元で撮影されたヒマラヤが印刷されたハガキには、「TOP OF THE WORLD」とだけ記されていた。
 パノラマのフロントの壁にあった地図によると、ポカラから見える山並みの中では、アンナプルナIIの標高が高いようだったが、遠近の関係でマチャプチャレが最も天に近く見えた。
 ペワ湖では2回もボートに乗った。最初は僕ら3人と、八木さんも一緒に。僕たちが借りたボートは、オールを縁に固定するようになっていなかったので、力を入れてもそれがなかなか動力にならなかった。二人がオールを担当し、あとの二人が、やれ「もう少しあんたが力を入れてこがな」とか、やれ「ほらほら、あっちに進まなあかんのに、回転してるやんか」とか、小さな船の上で賑やかに騒いでいた。
 しかし考えていた湖からのヒマラヤは不可能だった。朝以外は、ヒマラヤは分厚い雲に覆われてしまうからだ。雲の向こうには実は何もないのだ、と言われたら納得してしまいかねないほど全く見えなかった。
 湖自体はかなりの広さだった。ポカラは、レイクサイドとダムサイドという分け方をされる。僕たちが主に行動していたのはダムサイドの方で、湖の一方の端だった。レイクサイドまではレンタサイクルで10分ほど。レイクサイドの方が店やレストランも豊富で便利かもしれないのだが、僕はどちらかというと静かな環境の方が好みだから結局ダムサイドエリアにあるホテルパノラマから移ることはしなかった。そういった、ちょっとした、どちらかと言えば個人的な嗜好がそれほど違わない二人と旅ができたのはとても幸せだった。
 距離にすると大したことがないのに、対岸へたどり着くまでには時間がかかった。釣りをしている人がいて、何と彼は「やってみるかい」と道具を貸してくれた。木の棒の先に、針の付いた釣り糸が1メートルほど結わえられていた。2組借りたその片方には浮きがなく、木切れやタバコのフィルターなどで工夫してみたがあまり成功したとは言えない。
 最初に合わせ方をマスターしたのは長谷川君だった。「ぴくぴくと浮きが動いたら、すーっと沈むから、その瞬間にスナップをきかせればいい」と、教えてくれた。
 なるほど、彼の言う通りにするとおもしろいように釣れる。
 こんな道具で?、なんて疑問はすぐにどこかへ行ってしまった。「これに入れるといいよ」と先ほどの人が渡してくれたミネラルウォーターのペットボトルにタナゴのような数センチの魚が、次から次へとたまっていく。
 しばらくすると、道具を貸してくれた人が戻ってきた。「どうだい?」と聞かれたので、オイルサーディンの缶詰のように獲物がびっしりと詰まったペットボトルを渡した。なんせ、釣れすぎて途中でかなりの数を逃がしたのだが、それでも後から後から釣れたのだから。
 「ありがとう、魚はお礼代わりにどうぞ」と渡すと、彼も喜んでくれた。
 この魚はフライにして食べるのだという。
 2回目には今川さんが一足先にカトマンズへ飛び、八木さんが宿を変えていたので、僕と長谷川君の二人で釣りをした。今回は大物を狙った、もっと本格的なもの。リールの付きのさおをレンタルした。餌には食パンを自分で買ってきて使うように、とのことだった。
 多少は技術も向上したから、昨日は行かなかったような奥の方までこぎ、太公望を決め込む。行きがけに買っておいたネパール製の酒をちびりちびりとやりながら、あたたかな日差しの中でボートの上にごろり。つまみにパンをかじりながら。しかし僕はジン、長谷川君はウオッカの小瓶を手にしていたが、あまりいい味とは言えなかった。特にジンは薬品臭くて。
 3時間の約束でボートを借りたが、相変わらずまっすぐには進めないものの、何とか時間には間に合った。「釣れた?」と聞かれて、そのまま答えるのは悔しいから「もちろん、こんな大きいのが釣れたけど、逃がしてやったんだ」なんて言った。
 そうそう、ポカラで忘れられないのは何もヒマラヤとペワ湖だけではない。チベットおばちゃんたちもいた。
 彼女たちは宝石の行商人だ。パノラマの庭にもやって来て、地面にひいた布の上にザックやらウェストポーチやらからじゃらじゃらとアクセサリーを取り出す。日本語も交えながら、陽気に「これはどう」「ほら、似合うよ」なんて言いながら、売っていた。
 「ヒマラヤで採れた石だ」と言って、ラピスラズリーやサンストーン、山サンゴなどなど。「正真正銘の銀だよ」と言うが、メッキにしか見えない金属。これらを加工してブレスレットやネックレスに仕立てていた。あるいは工芸品的な陶器のパイプや、おもしろいところではアンモナイトの化石なんていうものも。
 僕はそういった品々についての知識は皆無に近いが、決して高価なものではないということだけは明らかだった。相手も、最初に示した値段からどんどん下げてくる。それでも、結局のところ同意した値段はどれくらいのものなのか分かるはずもない。けど、彼女たちとのやりとりも含めて満足できる値段だった。
 それに、日本製品はやはりここでも人気で、物々交換も持ちかけてきた。とにかく日本製。シャツなんかでも、僕らからすればくたびれたようなものも、彼女たちに言わせると日本製は丈夫だから長持ちするのだそうだ。他にもタオル、靴下、シャーペン、小物の整理に便利なチャックの付いたビニール袋なども。長谷川君は、エジプト航空のナイフやフォークも交換したようだ。
 おそらく、数人ずつのグループになって動いているのだと思うが、最初の朝にパノラマにやってきたおばちゃんたちとずいぶん仲良くなった。おみやげに彼女たちから買ったということもあるのだろうけど。
 インドよりはネパールの人の顔立ちの方が、日本人に近いものがある。さらにチベット人となると、これはもうそう言われてみるとそうだな、というくらいにしか思えない。だから、親近感を抱きやすく、加えて彼女たちのとの愉快な商談と雑談もあって、僕らは仲良くなった。
 ポカラにいる間、通りで顔を合わすとあいさつを交わした。一度なんかは、僕らが昼食をとっていた同じ店にやってきて、彼女たちが食べていたチベット風のパンをすすめてくれた。プレーンドーナツのようで、ほのかな塩味と油で揚げたふわふわの具合がとてもよかった。
 そんな彼女たちのおきまりのフレーズがあった。「ぶつぶつ(物々交換)オーケー」「ともだちプライスね」「ちっちゃいしょうばいよ」「あなた、これかう。あなた、しあわせ。わたし、しあわせ。みんな、しあわせ(あなたが買うと、あなたは宝石を安く手に入れられる。そして私はお金が手に入る)」
 こういった言葉が彼女たち独特のイントネーションやアクセントで口からポンポンと飛び出すのだ。よく勉強してるなあと、ほとほと感心もした。
 僕が自分のために買ったラピスラズリーの腕輪は、それから一人旅になるまで毎日のように身につけていた。深い青が好きなんだ。けれど、不器用な僕は自分ではめることができなかったから。


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