朝、まずは甘く熱いチャーを一杯。ヒマラヤを眺めつつ散歩をしていると腹が減る。通りに沿って軒を連ねる食堂でブランチにカレーや、トゥクパというあっさりとした汁そば。小腹が減ったらモモを食べ、時には昼からビール。合間に、ちょっと一息のチャー。そしてもちろん、夜には居酒屋へ繰り出す。
そう、ポカラでの生活ではずっと何かを口にしていたような気がする。
いかにも旅行者向けのレストランというのは、特にレイクサイドの方に多くあったが、ほとんど利用しなかった。第一にそういった店は、高い。それにネパールに来てまで、朝にトーストとコーヒー、昼にはパスタ、そして夜にはステーキなんていうわけのわかんない食生活は送りたくなかった。
そうそう、欧米風、イタリア、メキシコといったメニューに並んで、店の前に出された黒板にローマ字で記された日本食の名前もよく目にした。TONKATSUや、RAHMENなどはまあいいとして、COROCEやらSOKIKIのように日本人としては首をひねらざるを得ないものもいくつかあって、そういうのを見つける度に文化伝播のおもしろさを実感した。前者はコロッケで、後者はすき焼きではなかろうかと長谷川君が推理した時には、なるほどと腹を抱えて笑った。
だから大抵はいかにも、というほどではない食堂のような所で食事をした。パノラマの前の通りに沿ってネパール料理やチベット料理を安くそしてうまく食わせる店が並んでいた。ところが、それらが食事のできる店であるということに気付くまでにはちょっと時間を要した。大抵は道に面して入り口があり、大きさは例えば「数人座れば満席になる」というような飯屋くらいのもので、コンクリートブロックで囲まれた土地に簡単な屋根を乗せているというくらいの建物。最初は家屋だと思っていた。しかしこれは当たらずと言えども遠からずで、奥の方が住居兼台所というくらいの土間になっている。そこでシュコシュコと灯油だかガソリンだかを燃料とする携帯用のガスコンロに近いようなものでいろいろと料理をつくる。
こういった店が並んでいるから、特に僕たちはモモの食べ歩きをした。その通り沿いの店のモモはほぼ制覇したのではないだろうか。おかずとしてももちろん、それだけをつついても軽食にぴったりだった。中の肉が細かくミンチになっているか、ゴロゴロとしているか(実はこれは肉が固いと致命的)、その形もスライム型かギョウザ型かという違いもあるし、ピリッとしたタレの味にも店ごとに違いがあった。蒸しモモと揚げモモの2種類があったが、蒸した方がはっきり言ってうまいと思う。
そんな中で、僕はある一軒のモモがいたく気に入った。「めちゃめちゃいうまいモモレストラン」と読もうと思えば、かなりの努力を払った後に読解できなくはない日本語が看板に書かれた、パノラマから湖の方に向かって突き当たるちょうど中ほどにある店。入ると、ちょっとやつれた表情に笑みを浮かべたおばちゃんが「モモ?」と聞いてくる。あるいは、「うちはタンメンしかやってねーんだよ」という手合いと同類なのかもしれない(そんなことはなかった。後日ここでスープヌードルを頼んでみたら、野菜ののったインスタントラーメンが出てきた)。うなずくと、大きな蒸し器に火を入れて、やはりここでもシュコシュコとコンロを操作する(これはどうも燃料を気化させるためではなかろうか)。しばらくしてふたをぱっと取ると、勢いよく水蒸気が立ち上り、モモを取り出す。独特の香辛料の香りと唐辛子のきいたタレにとって口に入れる。そしてはふはふしながら噛むと、口中に羊肉の脂がじゅっと広がり、またそれがつるりとした皮の部分と絡みあって、気が付いたらいつの間にやら皿は空っぽになっているのだ。
加えて一緒に出てくる濃厚なダシ(何だろう?)のきいた、スープもちょっと他では味わえないものだった。 刻んだコリアンダーが薬味として散らされていたのも僕にはうれしかった。
漢字では香菜(シャンツァイ)、日本名ではカメムシ草とも呼ばれるのだが、とにかく僕はそいつに目がない。東南アジアではよくお目にかかる野菜の一つだ。ところが日本人旅行者のほとんどは「苦手」か「どちらかというと苦手」なようで、中には「それをよけて食べる」とまで言う人もいた。
日本ではあまりお目にかかることがないが、僕は一度神戸の中華街で買ってきて、実にそれだけを使ってサラダを作ってみた。ちょこっとしか使われていないのにこれだけうまいと言うことは、頬張ってみたらどれくらい幸せになれるのだろうかとずっと思っていたからだ。おいしかった、しかし期待したほどではなかった。量を食べるまでもなく薬味として使うだけで、もうその味は最大限に発揮されていたのだということを知った。
さてさて、店によっては値段もばらつきはあったが、決して高いものでもない。僕らが日に何度も食べていたということも証拠だろうし、客観的に述べるならばトゥーリスティックな店でコンチネンタルブレックファーストなどを食べるお金があれば数皿はいける。
チャー、特に朝一番のチャーはどろどろに甘くなくてはならない、という信条を構築した僕にとっては、ネパールには満足がいくものが多かった。もちろん、そんなに甘いものをティーカップに一杯も飲めるものではない。ちゃんとそれ用の小さな緑色の厚手のグラスがあるのだ。ところが、たまに何かのスパイスなのだろうか木の燃えかすのような味がするものがあった。これはちょっと好きになれなかった。
毎夜通った居酒屋がある。そこを知ったそもそもの発端は今川さんが持ってきた「地球の歩き方」のあるコラムだった。飲み屋ではシェクワ、という羊肉の炭火焼きがうまいらしい。それに地酒のロキシーを飲まなくてはネパールに行ったとは言えないらしい。
仮にそれが「何々王の墓は必ず一度は訪れたい」というものだったら、さほど気にかからないだろう。タイに回数だけだと4回ほど入国しているが、未だにバンコクの水上マーケットへは行ったことがない。
こと酒に関することとなれば話しは違う。さっそく宿の親父に聞いてみた。「親父さんがよく行く飲み屋の中でも、特におすすめを教えてよ」
彼は親切に道を案内しながら、近所の数軒を教えてくれた。「けどな、もう少し先にある店がオレの一押しなんだよ。ちょっと歩くけどいいかな」
もちろんじゃないか、親父。俺とあんたは親友だ。
その店に入ってシェクワのあることを確認すると、さっそく引き返した。
日は暮れた。さっそく、僕たちは真っ暗な道で牛の落とし物を踏まないように、懐中電灯を持って出発した。歩く、と言っても宿から5分ほど飛行場の方へ歩き、角を一つ曲がるだけだ。
再び店に入ると、飲み屋の親父はニコニコと「やあ、来てくれたね」と僕たちを席に座らせた。実は最初は満席だったのだが、一人の日本人らしき人が何やら「いいよ、僕が席を立つよ」と言っていたようで、僕たちにゆずってくれた。どう見ても旅行者が来る場所でもないし、そんな雰囲気でもないんだけど、と自分のことは棚に上げていぶかしんでいたら親父が教えてくれた。海外協力隊員だとのこと。惜しいことをした。おもしろい話しを聞かせてもらえたのかもしれなかったのだが。僕も一時期は憧れていたのだ。
そこは、縦に長い店で4人掛けの机が4つほど。そして奥にはいわば座敷が一つ。大抵は地元のおっさん連中が酒を飲んでいた。
さてまずはビールは何があるのかと親父を呼んだら、狭い店を走って注文をとりきてくれた。常にニコニコとして、話しをしてもとっても感じのいい人だった。
この店も含めてネパールでよく飲んだビールは実は日本でもそのいくつかを手に入れることができる。なぜなら、サンミゲルやチュボルグと言ったライセンス生産のものがほとんどであったから。オリジナルのスタービールというものがあることはあるのだが、あまり手に入らなかった。知り合ったネパール人の一人は「あれはあんまりおいしくない」ということを言っていた。
僕は結局スタービールは一度しか飲むチャンスがなかった。先ほどのモモ屋で道に面したショーケースにスタービールのビンを発見した時に、それを頼んだ。するとなんとそのケースからそのまま持って来るではないか。「冷たいのってないの」と聞いたら「ない」との返事。どうしようかと悩んだが、長谷川君が「いいんじゃないっすか。せっかくスタービールなんだから」というようなことを言ったので……。
いやはやそれがスタービールに特有なものなのかあるいはガラスケースの中で長い間、日にさらされていたからかを確かめる機会はなかったのだが、そのビールビンの底には白い沈殿物が堆積していた。ワインじゃないんだから。それでも意を決して、できるだけその物質が混ざらないようにグラスに注ぐ。鼻を突いたのはパンのような匂いだった。だめだ、まずい。
そんなこともあったが、この店のビールはちゃんと普通に冷えていた。「普通に」というのは、僕たちの基準でということだ。「キンキンに」ではなく、かと言って「ぬるい」わけでもなくという辺りの温度。ジュースなんかもそれくらいの冷たさのものが多かった。
まずはそのビールでのどを潤す。プッハー。旅のビールはまた格別だ。
「食べ物はどうする」と親父が訪ねてきた。メニューなんてないから、こちらも聞き返す。「何があるんだい」
結果として、親父が言ったものは全てお腹におさまった。4人いたから、それぞれを全員で分けた。
まずは、乾燥した大豆と平べったくつぶして乾燥させたお米。これにコリアンダーと紫タマネギとネギを刻んだもの、それに塩を混ぜてぽりぽりとかじる。しばらくそうしてるとあごが疲れるのが難点だが、さっぱりとしていて悪くない。
もちろんシェクワも忘れるはずはない。やわらかく、かめばかむほど味がしみ出てくる。親父は「やわらかいのは、一度油を通してあるからなんだ。ウチの店独特のやり方でね。うまいだろ」と秘伝を伝授してくれた。
「歩き方」にはまた、ギディという山羊の脳味噌の料理のこともあった。「今日はもうないんだ、明日は用意しておくよ」と言われたので当然再び訪れた。そいつは、理科の標本のごとく、まさに脳味噌であった。香辛料と塩を振ってつつく。魚の白子に煮ているが、もっとドロリと濃厚な味だった。
あるいは、鳥肉や豚肉を煮込んだ料理もあった。いずれも味付けはさっぱりとして、酒がますます進むものばかり。
ビール以外に、ロキシーも飲んだ。彼の説明をよく理解しなかったのだが、粟のような小さな穀物から作る酒だという。おもしろいのは、どこで飲むロキシーも同じ味のものがないということ。味やにおいだけではなく、色も白かったり茶色かったり。アルコール度数にしろ水のように飲めるものから、のどが焼けるものまであった。全ては自家製のものだから、このような違いが生じるらしい。
この店のロキシーは多少白みがかって、度数は低い方だった。匂いはそれほど強烈ではなくストレートでも充分に味わうことができた。客が減ってくると、親父は自分でロキシーのグラスを持って輪に加わったが、彼はサイダーで割って飲んでいた。