思わぬできごと

 ポカラを発つ朝。
 前日、パノラマから程近い旅行代理店でバスを頼んだら「6時半にはホテルの前で待っておくように。バスが迎えに行くから」と言われていた。しかし、出発予定時刻の7時に現れたのは、バスではなく代理店のその彼だった。「バスにトラブルがあって1時間ほど遅れる。8時にここにいてくれ」
 チェックアウトはしたものの、話しをすると部屋をまだ使わせてもらえることになった。すると、宿のおばちゃんがチャーを2杯サーヴィスしてくれた。
 3日前に、今川さんは一足先にカトマンドゥへ飛んでいた。もうバンコクか、あるいは日本だろう。わずかに2週間ほど駆け足で共に旅をしただけだが、そこには一人旅では味わえないおもしろさがあった。当然、一人旅でしか味わえないおもしろさはそこにはなかったが。
 建設途上で打ち捨てられた公民館のような寂しい印象を与える空港だったが、人は活気に満ちていた。飛行機はどれも50人乗り程度のプロペラ機で、1本しかない滑走路を離着陸に使っていた。勢いをつけて滑走路を走り、そして空へ消えていったロイヤルネパールの飛行機の後方の窓から見えた、手を振るチェックのシャツが印象的だった。
 さて、宿の家族とバドミントンで汗を流していると、バスは結局8時半にやってきて、僕たちを拾うとすぐに出発した。そして、すぐにガソリンスタンドに入った。まったく、それくらい準備をしていてもよさそうなのに。
 いったい、これからいくつの山を越えると首都カトマンドゥに着くのだろう。時間的には7、8時間らしいが、前回の例もあり、日のある内の到着はあまり望んでいなかった。なまじな期待は、より大きな失望感を生む。
 上りにかかると、やはりグンとスピードが落ちる。山の上から下まで隈無く段々畑が続く。けれど、何も植えられていない。そういう季節ではないのだろう。また、木々も針葉樹の葉が落ち、茶色い幹だけが立っていた。どうやら、酸性雨の影響らしい。おかげで、窓から見える風景はあまり心なごむものではなかった。もちろん緑もあるが、ひからびていると言おうかとにかく褪せて見える。
 乾期の終わりの時期なので、川にもわずかに水が流れているだけだった。
 バスは、細い山道を進む。対向車が来てこちらがよける時はちょっとしたものだ。落ちたらまずいなという先には、畑があり牛が歩き人が畑を耕している。実際に3台ばかり、谷底にひっくり返っているバスとトラックを見かけた。1台は、車軸ごと前輪が外れていた。カトマンドゥでは、観光客の乗ったバスが事故に遭い、死傷者が出たという記事も後に目にすることに。
 けれど、無事にそれも思ったより早く4時にはカトマンドゥに到着。「歩き方」は今川さんの持ち物だったから、僕らにはほとんど情報はなかった。スーパーマップシリーズのカトマンドゥ編のコピーが1枚だけ。
 荷物を下ろしてすぐに、「3ドルのツイン、タクシーはフリーだ」と声をかけてきた。とりあえず初日はどこかに泊まってみて、気に入らなければ翌日にでも宿を変えればいい。
 とりあえず行ってみた、そのホーリーランドゲストハウスは、はっきり言ってとてもいい宿だった。何より清潔だ。それに部屋にはホットシャワーもあり、スイッチを入れてから40分も待つことなくいつでも使えた。実際にはソーラーシステムでお湯を作っていたので、昼間はかなりの熱さのシャワーを楽しめたが、朝方にはちょっと浴びる気にはならなかった。これで二人で3.5ドルは悪くない。
 しかも位置的にも、メインの通りを少しはずれていたのでうるさくもない。
 何より、細い道を隔てた目の前で、チャーを売るおばちゃんがいたのがよかった。宿のそばのうまいチャー屋(あるいはチャイ屋)、これはいい宿の大きな条件。
 チェックインをすませた僕らは、 とりあえず街歩きに出た。入り組んでいるように見えるのだが、このタメル地区は実はそれほどの広さもなく分かりやすい。しかしそう感じるのもスーパーマップに負うところが大きい。
 相変わらず「リクシャー」「リョーガエ」「ハシシ」と言った、あまりやる気のなさそうな声がかかる。とりあえず旅行者と見たら、声をかけてみようか、そんな程度。
 一回りして、ゲストハウスの屋上でのんびりと村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいた。前回の旅では「ノルウェイの森」を何度も読んだ。もちろん両方とも日本でも筋を覚えるくらい読んでいる。共に何度読んでも何か発見のあるとてもいい小説だ。実は、なぜ僕は村上作品にひかれるのだろうということをちょっと考えてみる、ということを旅の目的の一つとしていた。気に入った表現や登場人物をピックアップして分析してみようともくろんでいた。そのためにノートを一冊作ろう、そしてタイトルは「僕と『僕』」としてみようと、そこまで頭の中にあったのに、ノートすら作らなかった。
 ここの屋上は他の建物より少し高いので、カトマンドゥ盆地がぐるりと見渡せた。高いところが好きな僕には絶好の環境だった。
 日が傾くと肌寒さを感じたので、階段を下りていった。すると、下の方から先ほど僕らをここまで乗せてきた兄ちゃんが「君たちを探していたんだ」と言って、我々の名前のような音を発音した。
 手に持ったメモには、紛れもなく僕と長谷川君、それにポカラからチトワン国立公園へ発っていった八木さんのフルネームがローマ字で書かれていた。
 「こっち、こっち」と言うので、訝しみながら長谷川君と一緒に男の後ろを着いていく。3分ほど歩いた、メインの通りに面したレストラン。先ほどの散歩の時にもここを通ったが、「焼き鳥」と書かれた赤提灯がぶら下げられていて、思わず笑い合った店だった。
 入り口にはドアマンのような(実際にそこにはドアではなく階段があったが)人が顔の横に手を掲げて「ナマステ」
 入った先は、ものすごく高級なレストラン。テーブルには花が飾られ、きちんと立てられたナプキンまで。一方、僕はシャワーを浴びてくつろいでいたところだったから、祇園祭の時にもらった地元のFMラジオ局のうちわを片手に、そして短パンの後ろのポケットには「ダンス・ダンス・ダンス」まで入っていた。
 スーツを着た男が出てきて、流暢な日本語で「ここは私のレストランです」と言った。
 相手の意図が明確ではないが、だから一層に怪しい、非常に怪しい状況だと感じた。ところが、彼の口をついて出てきたのは極めて意外な単語だった。
 「イマガワミチヨさん」と発音しづらそうに言って「知ってますか?」
 知らないはずはない。ついこの間、手を振って別れたところだ。
 実は僕はこの名前が出たときにある一つの推測が頭に浮かんだ。と、言うのもカトマンドゥからバンコクへ飛ぶ便のリコンファームが、電話事情の悪さなどもあり、うまくできていなかったのだ。だから、飛行機に乗り損ねたのではないか、と。だから出てきたら笑ってやろうとさえ思っていた。
 彼(モハンという名だ)はさらに続けた。「彼女、ちょっと困ったことになってます」
 彼女の泊まっていたゲストハウスに泥棒が侵入し、荷物を盗まれたということを伝えた。さらに、彼の妻だと言う日本人の女性も出てきて、詳しく状況を説明してくれた。
 幸いパスポートだけは身につけていて無事だったのだが、航空券、T/C、クレジットカード、それにカメラなどがやられたらしい。今川さんが、ちょうどこのレストラン(Grill Fという名だ)の下で国際電話をあちらこちらにかけているところに、たまたま日本語の分かるモハンが出くわし、声をかけてくれたのだった。
 日も暮れてきて、Tシャツでは少し寒さを覚えてきた。しかしとりあえず事情は分かったものの、実際に本人にはまだ会っていないわけだし、どこまでを信用してもいいのかが今一つ明確にならない。ひょっとしたら、ホーリーランドゲストハウスの僕らの部屋の物がなくなっているかもしれないのだ。長谷川君が「だったら僕ちょっと見てきますよ。ついでに、クルター取ってきてあげましょう」と言って、席を立ち階段の方へ向かった瞬間。
 「あ、あ〜!」と張本人がやってきた。ポカラのホテルパノラマに連絡をしたら今朝のバスで出たことを教えてくれたので、バスターミナル近くでずっと待っていたのだった。
 そしてその後は、タメルを歩く日本人旅行者をつかまえては、「日本人の二人連れを探しているんです。一人はクルターを着ているかもしれない。見つけたら連絡して下さい」と話し、さらにはゲストハウスを一軒ずつあたっていたのだと言う。
 別れた日と同じ明るいチェックの長袖シャツを着て、多少疲れて見えた。精神的にも肉体的にもドタバタしていたので、体調を崩し風邪気味だった。
 ここ数日の不安感をあふれさせるように彼女は一息にしゃべった。取られたのは、手荷物用の小さなバッグで、「再発行のできるT/Cやクレジットカードはともかくとして、カメラに入っていた飛行機からヒマラヤを収めたフィルムが一番残念だ」と言った。
 今まではT/Cやカード、航空券などもお腹に巻いて寝ていたのだが、最後の晩だということでふっと気がゆるんでいたらしい。今までさしたるトラブルがなかっただけに残念なことだが、しかしこれはそれからも旅を続ける僕らに大きな教訓となった。
 しかし、彼と妻の仁美さんが非常によく助けてくれたそうだ。保険の請求のために警察に行ったら「ポリスレシートは週が明けないと発行できない」とすげなく追い返された。にも関わらず、モハンさんが署長の友人だったので彼が話しを通すとその場で手続きがなされた。さらに、そのゲストハウスの人も心配してくれて「お金はいいから、泊まっていてくれ」と申し出てくれたのだが、彼らの家に厄介になっているのだと。ちなみに、彼らはかなりのお金持ちらしく、僕らのツインの部屋を見た今川さんは「モハンの家のお風呂場がこれくらいの広さだった」と、せっかく贅沢な宿に泊まって満足していた僕らをがっかりさせてくれた。
 「このことでネパールを嫌いにならないでほしい」と二人は言ったが、今川さんは帰国後「ネパールにはぜひもう一度訪れたい」と語っていた。
 さらにモハンさんにはジャーナリストの友人もいて、さっそくこの事件が、彼の言うところの「ネパールの朝日新聞」であるRising Nepal誌に、かなりの大きさの記事として取り上げられた。しかし、イマガワではなくタマガワと、それにカメラの金額が7万円のところがなぜだか9万7千円と記されて。数日後には英語版にも掲載されるということだったのだが、どうやら結局そちらには載らなかったようだ。
 僕ら二人がポカラで「人類の皆様ごめんなさい」というくらいダラダラとした生活を送っていた間に大抵の必要な手続きは終わっていて、明日航空券の再発行を掛け合うためにロイヤルネパール(カトマンドゥ〜バンコク)と大韓航空(バンコク〜大阪)のオフィスに行けばいいだけであった。だから、思わぬ再会を果たした僕らは、一度今川さんが行ったという、ちょっと奥まったところにある飲み屋へ繰り出した。
 Grill Fを出て、タメルの中を歩いていると、すれ違う日本人に次から次へと話しかけられた。「あ、よかったですね、お友だち見つかったんですね」
 旅人のこういった思いやり、あるいは連帯感というものは僕はたまらなく好きだ。こいつばかりは、日本では絶対に味わうことができない。
 けれど逆に言えば、今川さんがいかに東奔西走していたか、その苦労を思い知った。
 店の前では炭火で焼かれているシェクワが、うまそうな匂いとジュージューという食欲をそそる音をたてていた。店の中は暗く、各テーブルには酒の小瓶に立てたローソクが仄かに辺りを照らしている。脳味噌のフライや、タン、モモ、シェクワなんかをつついて、相変わらずビールとロキシーを飲んだ。
 今川さんにお金を貸してくれた人のエピソードはまた僕らを仰天させた。彼はもう帰国間近だが、手持ちのお金がかなり余っていたので、帰国後に返してくれればいいと彼女に貸した。そして話しをしていると、なんと彼は、ヴァラナシのチャンダの屋上で早稲田の人の話しに出てきた「いいヤツ」その人だったのだ。
 彼がヴァラナシにいる時、たまたま部屋をシェアした人が病気になった。食欲はないが、カロリーメイトなら何とか口にできそうだということで、彼本人は持っていなかったから、ガートの辺りで「もし持っていたら分けてもらえないか」と半日ほどずっと 旅行者に声をかけていたのだ。そして早稲田の彼が持っていたカロリーメイトを渡した。「ただ一晩一緒にいたっていうだけで、ここまで人のためにできるなんてとんでもなくいいヤツだって、俺本当に感動したんだ」と語ってくれた、まさにその人だったのだ。


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