カトマンドゥを発つ晩、ネパールルピーの消費を兼ねて「味のシルクロード」という、タメルにある日本料理屋へ。以前、日本人家庭でお手伝いをしていたという人がやっていて、割合に旅行者には有名な店。通称「味シル」と呼ばれる。
僕はショウガ焼き定食を注文した。店が移転したばかりなので、店内はこざっぱりとしていた。
食事が出てくるまで、相変わらず時間がかかるので、僕たちは醤油さしを鼻先に持っていって、久々に日本の香を満喫した。それが醤油でなく、マリファナであったとしても誰も疑いようがないほど僕らは熱心に吸い込んでいた。 また出されたお茶は、麦茶だった。とりたてて日本食を食べようと思って来たのではなく、まあ話しのネタにという程度だったのだが、もう醤油と麦茶でくらくらしてしまった。
日本語の本や、新聞などもかなり置いてあった。「ハーイあっこです」を読もうと、朝日の日曜版を手に取った。いつの間にか赤ん坊が産まれていたのには驚いた。しかし、それよりも俵万智の連載に紹介されていた短歌が僕の心を打った。
「われら鬱憂の時代を生きて恋せしと碑銘に書かむ世紀更けたり」
ずしんと響く力強い歌だ。僕はとっさに、テーブルにあった紙ナプキンにボールペンで書き写した。
ショウガ焼き定食もまあそれなりにおいしかったし、久々にジャポニカ米も食べられた。インディカ米も僕はもちろん大好きだが、やはりご飯だけを単独で食べるならばこちらの方がいい。また単品で大根下ろしを頼んだら、削り節が振りかけられていてこれもまたうれしかった。
オートリクシャーを拾って、ニューバスパークまで。ここで長谷川君ともお別れだ。「いい旅を」「気を付けて」なんて、やはり神妙になってしまう我々だった。
バスターミナルは表示が少なくて、時間も迫ってくるし、かなりあせって人に尋ねた。一番外れから出るようだ。そこにいた人に「ビールガンジ?」と聞かれたので、ああここだ。
しかし本当にここでいいのだろうかと不安感があった。もはや完全に日は暮れて妙に心細い。バスは中々現れない。
しかしそれでも僕は久々の一人旅の快感に浸っていた。バスに乗れるのかという不安、そして国境を越えるという期待、見上げれば星空。誰かと話しをしていても、それは100パーセント自分に向けられた言葉だし、頼るものがない状況。しかしそれでも一人旅のよさは格別だ。一見するとマイナスの要素にもとれる、不安や孤独というのは実はそれすらも快感の大きな構成要素なのだ。
バスは結局30分ほど遅れてやってきた。座席にはアラビア数字の表示がなかった。人に尋ねたらその席には先客がいた。けれど、「僕のシートなんだけど」と言うと、あっさりとどいた。
隣の座席に座っていた男とゆっくりとした英語で会話をした。以前、関西テレビと仕事をしたことがあり、その折に大阪と京都へ行ったことがあると言った。奇遇だ。僕は朝日放送でアルバイトをしているし、今は京都に住んでいる。一本の山道を走るバスの中、車内の明かりは消えていたが僕らは意外な共通点が見つかったことから、話しが弾んだ。
目が覚めるとほとんどの乗客は降りたあとだった。どうやらインドネパールの国境のインド側の街、ビールガンジのバスステーションのようだ。まだ日が昇るには時間がありすぎる。「国境はまだ開いていないからどっかで待ってなよ」と降り際に声をかけられた。
数軒の店には明かりがともっていたので、そちらへ歩いていった。チャーでもすすりながらゆっくりと夜明けを待とうという算段だった。
小便をしようと、店の裏手へ向かったら、左足がにゅもっと何だかどろっとした所に……。全身の血の気が引いた。ひょっとして肥えだめか。明かりの元で見ると、幸いなことにどうやら単なる泥のようだった。心の中でべそをかきながら、昨晩18ルピーで買ったばかりのミネラルウォーターで汚れを洗い落とす。
店に入って、とりあえずチャーを一杯。前回の旅で足が化膿した苦い経験があったので、とりあえずひび割れていたかかとを消毒してバンドエイドを貼った。
6時を過ぎたころに出ようと思った。けれど「How much?」が通じなくて「まあここに座れ」と言われ、水が出てきたり……?
どたばたやっていたら、客の一人が手を差し伸べてくれた。3ルピーだった。
5ネパールルピーを払うと、おつりに5インドルピーを渡された。なんだかおかしな感じがしなくもないが、ちゃんとレート通りだ。
ターンガーという小さな2輪馬車に乗ってトコトコ進む。その親父が「バスのチケットは?」と聞いてきた。「予約してある」「見せてみな」
すろと親父が「そこのゲストハウスで乗車券に引き替えるんだ」と言った。
心底焦った。そう言えばチケットを予約した時にビールガンジ側で乗車券にするように言われていたのだった。すっかり忘れていた。もし彼が声をかけてくれなかったら、また新たに買わなくてはならないところだった。
しかし、結局は指定されたゲストハウスへ行くと「ふむふむ、そしたら国境を越えたところにあるオフィスで引き替えてくれ」と言われた。よく分からない。
途中で一人の日本人と出会って、一緒に国境へ向かった。彼もパトナーを目指すとのこと。
すがすがしい朝日が草原を照らし、そしてぽつりぽつりとしゃがみ込み、思い思いの方向を向いて用を足している人々を照らしている。
ネパール側のイミグレはとても愛想がよくて「オハヨーゴザイマース」「サヨナラー」と。しかも「How was Nepal?って日本語でどう言ったらいいんだ」とまで聞いてきた。結局ビザの有効期間の2週間を目一杯利用したことになる。気持ちのいい、ネパールとの別れだった。
しかし反対にインド側のイミグレはとっても不愛想だった。向こうが書類を書くのにボールペンを貸せと言われ、結局それは返してもらうのを忘れてしまった。
先ほど指定された旅行代理店へ行くと「パトナーでストライキがあって3日間バスは動かない」と唐突に。しかも今日が3日間のストの真ん中の日らしい。なるほど帳面をのぞきこむと(はっきり言って、彼の言葉を疑っていた)、一昨日までは交通手段の欄に「バス」と書かれているのに、昨日になるとみんな「鉄道」になっていた。
「チャイでも飲むか、もちろん金は出すよ」と言われたり、あるいはちょっと身なりのよいインド人がどうらやチケットを買いに来ていて、彼がわざわざ英語で「パトナー? ノー!」と言っていたのも、余計に疑わせる材料になった。
彼の英語は特に聞き取るのが困難だったが、やはりはいそうですがと納得はできないから、あれこれと交渉した。確かにストライキが本当だとしたらそれは彼のせいではないのだろうが……。
「本当に申し訳ないと思う。50ルピー渡すから鉄道で行ってはどうか」ということになり、パトナーまでいくらで、どこで乗り換えたらいいのかと事細かに教えてくれた。
ひからびたうんちが散乱する線路を歩いてラクソウルの駅へ。
窓口で「ムジャファルプル」(ここで乗り換え)、と言うとなぜだか「Nobody」という返事だった。どういうことなんだ、と訝しんでいたら、ここからガヤまで行くと言うネパール人の二人連れが話しかけてきてその電車の発券は9時からだと教えてくれた。
お礼に一緒にチャイを飲んで、僕が支払った。すると、彼らはバナナやピーナッツをどんどんすすめてくれた。
買ったチケットは2等の座席だが、彼らが「こっちに座ろう」と言って2等寝台の多少はゆったりとできるシートに座った。大丈夫なのかなとも思ったが、まったく問題はなかった。
やはり、標高が低いということとわずかながら南に下ってきたということもあって、僕はクルターを脱いでTシャツ一枚で、春の風を受けながら列車に揺られていた。
時折待ち合わせのためか停車するので、僕は線路に出て体をほぐした。風を受けながら腰に手を当て、ぐるっと見回すと、インドの大地を一直線に伸びる線路の上にいる自分を発見。「ちょっと格好いいんちゃうか」と思ったけど、そんな足元にはひからびた糞が所々に。
乗り換えた駅で親切なネパール人とはぐれ、今度はハジプールまでの切符を買い、自分たちの乗る列車に乗り込んだ。
夕方になってようやくハジプール到着。さらにここからはさらにリクシャーでパトナーを目指すことになる。何キロあったのだろうか、ガンガーに架かる長大な橋を渡った。すでに夕刻だった。
バスの屋根に乗った人が、何かの旗を振りかざしていたり、パトナーの駅前では演説がおこなわれていたりでどうやらストライキは本当のようだった。警官が警棒でサイクルリクシャーを追い立てていたが、日が沈みかけていたからこれは少し怖ろしい光景だった。
ようやくたどり着いた安宿街はなぜだか、どこも満室でどう見ても旅行者用ではない、貧相な一軒しか空きがなかった。
「部屋あるかな」「ちょっと待ってくれ」とフロントのじいさんい言われ、待つこと15分。「チェックインしたいんだけど」「ちょっと待て」
どうしようもなくイライラしてくる。「When can I check in?」と怒りを抑えながら尋ねたら、「24 hours OK」と言い放った。堪忍袋の尾が切れた。「アホか、一体どれだけ待たせたら気がすむんや!」
すると「お前は気性が荒いから泊めてやらない」ときたものだ。それはまずい。僕は昔どこかで聞いたことのある尊敬表現を使った。「Would you please....?」
と、言いつつもとっさに机の上にあった宿帳を手元に引き寄せ、返事も待たずにさっさと書き込んだ。
食事をする気にもならなかったので、コーラを飲んで、あとは道端で買ったミカンとバナナだけを食べて早々にベッドに。朝になったら、とっとと列車に乗ってブッダガヤを目指そうと思った。