バクシーシ

 ビルマ寺の前を通る、町に一本だけの大通りを少し市場に向けて歩いた所にある、大きな布を竹の支柱で支えているだけの店でプーリー(小麦粉を練って手のひら台に丸めて油で揚げたもの。プレーンドーナツのような感じ)と皮付きのままのじゃがいものカレー、紫タマネギの刻んだもの、食後にはチャイも飲んでこれで7ルピー。カレーに添えて食べるのは他にチャパティーやナンなどがあるが、僕はこいつが一番のお気に入りだった。
 店の入り口で、チャパティーができる様子を観察した。練った粉を棒状に伸ばして数センチずつちぎり、めん棒で器用に丸く広げていく。それを鉄板の上で焼く。次から次へとチャパティーを焼くおっさんは、ギリシア悲劇に出てくるような宿命的に悲劇的な顔つきだった。

マハーボーディ寺院
 昨日見逃したマハーボーディ寺院へ。透明な空の元、くっきりとそびえ立つ大きな塔だ。ブッダが悟りを得た地に、アショーカ王が建てた高さ52メートルもある建造物。
 入り口には多くの物乞いが椀を持って集まり、喜捨を待つ。それ用に手数料をとって小銭に替える商売もある。誰かが両替すると、それっとばかりにその人を取り囲み、我先にと飛びつく。喜捨をする方はこれで徳を積んだと思っているのだろう。
 もちろんインド人も多いが、それ以外にも様々な国の仏教徒が巡礼に訪れている。
 今から2500年前にゴーダマシッダールダが悟りをひらいた場所には、大きな菩提樹が縦横に枝を広げる。
 その周りでは、信者が熱心に祈りを捧げている。
仏陀が悟りを開いた菩提樹
 僕はここで一枚の落ち葉を拾って、ノートに挟んだ。丸っこいような、三角形のような、それでいて先は細く尖っている。
 悟りをひらいた後にブッダがどの場所で何をしたか、という説明があちらこちらにあった。悟りの後の何週目かにブッダが瞑想していたという池は、少し中心から外れていたために人がほとんどいなかった。池の真ん中に、瞑想するブッダと、それを雷から守る巨大なコブラの像があった。説明によると、色々な生き物が彼を嵐から守るために集ったのだとか。
 ネーランジャー川をに架かる建造中の橋を渡り、橋が途切れた所からは直接に川を歩いた。とは言え、今は乾期のまっただ中なので、水は一滴もない。幅は数百メートルもあろうかというそこは、小さな草がわずかにへばりつくだけで、砂漠だと言われても納得しかねない。
 対岸にいた子どもにセーナー村への道筋を尋ねると、「こっち、こっち」と。
 セーナー村はブッダが村の娘スジャータから乳粥供養を受けた土地だ。
 寺院類はあらかた見て回ったし、時間はあり余っている。元々「……という土地があるから行ってみようか」という理由でやってくる。何もしないとさすがに退屈だから、時間つぶしがてら観光ポイントにでも行ってみようかとなる。村上春樹は言う「バックパッカーなんてそんなものだ」と。
 僕がセーナー村へ行こうと思ったのもそれだけの理由だ。
 15分ほど道やあぜを道なりに歩くと、ヒンドゥーの寺院と乳粥供養の像に出る。それ以外の建造物は農家くらいしかなく、周囲は田畑しかないから迷いようがないだろう。
 一人の男性が「寺にはここから入るんだ」と教えてくれた。彼は大学で社会学を学んだと言い、ここでハリジャンのために学校を開いているのだた。
 「あなたは立派な教育を受けてきた。けれどここの子どもは、以前は観光客から金をせびることしか知らなかった。金銭や物品よりも、教育がまず必要なんだ」
 こう語ると、10数人の生徒を集めて、名前や年齢、それに父親の職業などを子ども達に英語で質問した。
それなりにきちっとした返事だったが、なるほどインディアンイングリッシュはこういうところでも拡大再生産されていくんだなあ、と僕はどうでもいいことを発見した。それにしても「父親」についてしか聞かないあたりが、これまたインド的だった。
 年齢を「8歳」と答えた女の子は、どう見ても4、5歳ほどにしか見えなかった。そういう生活をしているということだ。
 その次は先生が体の各部を指して、全員が英語でその名前を発音した。けれど、鼻を指している時に「mouth!」と元気に言っちゃう子だってもちろんいた。
 さらに彼は入学の申込書や、この学校の要旨を記した英文の書類やら、生徒の出席簿などを、あまり整理されていないファイルから次々に取り出して僕に示した。親のサインの欄には母印を押している人も多かった。
 そして最後には一冊のノートが出てきた。寄付をした人のメッセージノートで日本人も何人か書いていた。けれどそこには「先生の考え方に共感しました。私のできることをしたいです」というような文句が書き連ねてあるだけで、僕は「やっぱりな」くらいにしか思えなかった。
 だけど一人だけ「村の子ども達に連れられてここへ来た。そういうことだ」と書いている人がいて、これを読んで少しだけほっとした。何も全員が全員とも頭が悪すぎる、というわけでもなかったから。
 僕は結局ボールペンを一本と、ウェストポーチの一つのポケットに入っていた小銭を寄付?した。
 けれどその時、別のポケットには1300ルピーという大金が入っていたのだ。
 この行為がいいことなのか悪いことなのか、よく分からない。それ以前に、誰にとって?ということからしてあまりにも僕には困難な問題だ。こうやって教育に尽くしている彼だってそこら辺の物乞いと言えばそれまでではないのか? 人のため、次代のため、そんな理由のために活動している彼への寄付と、その日の食べるものにすら困っていて、両足がないから地面にはいつくばっているような物乞いへのバクシーシ(喜捨)とに違いなんてあるのか?
 数年前の僕ならば彼の活動に大いに共感し、もっと多額の寄付をして、ノートに何かしら書き留めたかもしれない。けれど今の僕は、幸か不幸かそういった行為がとてつもなく下らなく思える。もちろん、意義は認める。すごいことだとは思う。けれど……。という辺りで具体的にはまだ言葉になってはいないが、それだけではないんじゃないかという漠然としたものを抱えている。確かに、こちらがどう思っていようと、彼と生徒にとってはとりあえずはすぐに手に入る現金の方がありがたいことはありがたいのだろう。けど、僕自身は納得がいかない。
セーナ村
 自分自身に対して釈然としないものを抱えたまま学校を後にして、元来た道を引き返し始めた。青々とした麦畑を渡り、ヤシの葉をビュゥっと鳴らす風は気持ちよく僕の体を吹き抜ける。透明な水色の空に輝く午後の白い太陽。遠くに、ブッダが苦行を行ったという前正覚山が、何もない平原に唐突に盛り上がっている。
 ここまで僕を連れて来た男の子が「もうお金持ってないの?」と聞いてくる。やっぱりだ。
 「君もさっき見た通り、全部渡したんだよ」と、とりあえず言ってみるが引き下がらない。「そっちのポケットには入ってないの?」「ここにはパスポートなんかの重要なものが入っているから開けるわけにはいかない」
 「パスポートなんか僕には何の役にも立たない。絶対に取ったりしないって約束するから、とにかく見せてよ」「いいや、ダメだ」
 「僕は道を教えてくれたことには感謝している。けれどそれは君の親切心だと思っていたんだ(嘘だ!)。お金がほしいのであれば、まず最初にそう言うべきだったんだ」
 「別に親切からなんかじゃない。だけど、これは僕のミステイクだね」
 「そういうことになる。これから旅行者がやって来たら、『お金を払ってくれたら案内する』と持ちかけてみればどうだろう。そうするとお金を手に入れられるかもしれない」
 それでも彼は川の半ばほどまでは僕のすぐ後ろを着いてきた。砂地を歩きながら、無性にのどが渇いたけれど、ここでザックからミネラルウォーターを取り出して飲むことは僕にはできなかった。そうしないことがわずかながらでも正しいことのように思えたから。
 午後の風は今日も強く吹き、時折舞い上がった砂が全身にたたきつける。微少な傷が僕の心に無数に刻まれたようだ。そんなセーナー村見物だった。
 日のある内にシャワーを浴びていたら、次第に水が細くなって、しまいには水が出なくなってしまった。仕方がないから、トランクスだけはいて庭のポンプからシュコシュコと井戸水を汲み上げてバケツにため、それで体を洗った。
 今夜もポレポレで食事をした。日本人女性と見るとすぐに話しかけていっては体を触るみやげ物屋の親父が今日もいた。彼はいつでもハイテンション。
 「元気だね」と言うと、「そう、元気が一番。僕の言うことまちがってる?」
 「正しいよ」ある意味では。けれどその時の僕は、元気じゃない時にどうするかの方がより重要なことに思えた。


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