待合い室での食事

 昨日の食堂で昼飯にした。悲劇的チャパティー焼き親父は、サモサの中身を詰めて揚げていた。年中ひたすらにチャパティーを焼いているわけでもないのだ。
 何を食べようかと周りを見回すと、みんなチキンカレーをむしゃむしゃやっていて、またそいつがうまそうだった。店の人に「ターリー?」と聞かれたから、迷わず「イエス」
 ターリーとは大体金属製の大皿の上に、ご飯と数種類のカレー、それに豆の粥のようなダールなどが盛りつけられている定食のようなもの。
 どんどんお代わりをしていたら結局36ルピーもしてしまった。かなりの値段だ。いずれにせよ鳥肉はインドでは値が張るようなのだが。
 大通りを外れてぶらぶらと散歩をした。中心部から離れたら話しかける人はいないから、のんびりと。方向が分からなくなる心配はあまりない。嫌でもマハーボーディーが目にはいるからだ。
 早めにシャワーを浴びようと部屋に戻ったら、隣にやってきた女性が廊下にイスを出して漢字の書き取りをしていた。中国語の勉強のようで、見たこともない漢字もならんでいた。でも、確かにそれは漢字なんだけど、やっぱりどこか普段見慣れたものとは違った。恐らく僕が書くアルファベットもネイティヴにはそう感じられるのだろう。
 「母親が中国人だから、行ってみたいのよ。だから勉強してるの」
 「いわば、ルーツを探る旅なの?」「まあ、それもあるわ」
 「いつの日か行けたらいいね」「いいえ、いますぐにでも行きたいのよ」
 ここで僕はin the futureという言葉のニュアンスを学んだような気がする。
 ビルマ寺にはチェックアウトタイムがない。僕の乗る電車は夜中に出るから、これはありがたかった。しかし駅までのバスは6時半が最終だ。しかたがないから、駅の待合い室で過ごそうとブッダガヤを後にした。
 一つ後ろの席にはアメリカ人が乗っていて、インド人とやかましく会話しては笑い声を上げていた。聞くとはなしに耳に入る言葉を聞いていると、彼の父親はウィリアムで母親はスーザンという名だとか。ウィリアムはコンピュータープログラマーで、スーザンは主婦だった。まるで中学校の英語の教科書に出てきそうな夫婦だと思った。
 そのインド人は僕に向かって「スイマセーン」と話しかけてきたけど、僕は無視した。「日本人じゃないのかな」と後ろの二人はごにょごにょ言っていたが、僕は一人で風景を眺めていたかったのだ。
 日光のわずかな残りと青白い月光、それに一番星。水のないネーランジャー川の向こうにはぽこぽことした影を見せる前正覚山。道の脇の草むらには数多くの蛍。
 駅の案内所で聞くと、列車は2番線から出るとのこと。しかし出発まではまだ6時間以上もある。
 待合い室の前で係のおばちゃんにチケットを提示して入ろうとしたら、ノートに必要事項を記すように促された。ヒンディーか、あるいはぐちゃぐちゃのアルファベットが並んでいるだけで、どこに何を書けばいいのかさっぱりわからないから、全く適当に自分の名前と行き先と出発時刻だけを、これまた汚い字で書いた。
 蛍光灯が一つ点灯しかしていないから、本を読むのには適さないが無理をしてスタートレックの続きを読んだ。
 すると、食事をしていた家族連れが甘いミルクにご飯を入れたようなものを葉っぱの皿にのせて分けてくれた。ほのかな甘みとくにゅくにゅとした米がおいしかった。
 インド人はこのように、駅の中でも輪になって食事をするし、夜ともなればわざわざ持ち歩いている布団を床に広げて眠る。
 彼らはプーリーのようなものと、唐辛子も分けてくれた。お礼にと思い、ウェストポーチの奥底にあったタイのコインを渡そうとしたら、その瞬間にその家族だけでなく周囲の人まで一斉に群がってきた。我先にと奪い合う。驚いたが、これはご馳走になったお礼だ。他の人にあげる理由はどこにもない。関係ない人間を振り払ってちゃんと彼らの手に渡した。
 しかしそれでも未練がましく一人の男が「なあ、もう一枚くらいないかな」と言ってきた。なぜにここまでほしがるのか、その理由が僕にはよく分からなかった。
 直前にもう一度案内所で尋ねたら、今度は「1番線」だと言われた。結果としてこちらの方が正しかった。インドの鉄道は何番線に入るかはちょくちょく変更されるので注意が必要だ。ちゃんと確かめておいて助かった。


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