ただ一人の女性のために

 アーグラー駅に列車が到着すると、早朝だと言うのにさっそくリクシャワーラーがやって来る。大きなザックを背負った外国人は、どう見たって旅行者にしか見えないからだ。
 アーグラーの駅前には便利なリクシャーのシステムがある。市内の主要な場所への値段があらかじめ設定されていて、前払い制でチケットを買って乗ればいい。
 指定したホテルへ走り出したリクシャーのはずだが、やはり「もっといい宿がある」と言い出す。「知ったこっちゃない。とにかくちゃんとここへ行ってくれ」「見るだけでもいいんだ、友達だろ」「悪いけど、君とは友達じゃない」
 観光地にさしたる興味はないが、まあせっかくだからタージマハルは見ておこうと考え、一泊しかしないことに決めていた。だから多少値段は高くても、さっさと宿を決めて見物に出かけるつもりだった。
 タージの門からわずか50メートルほどのところにある一泊100ルピーの宿に決めた。バスルームも付いていて、ホットシャワーも使える少々贅沢な宿だった。
 しかしロビーのソファーで寝ているフロント係を起こしてみたが、部屋は満室だと言われた。チェックアウトタイムまでには出ていく人もいるだろうからと、食堂の方でチャイを飲みながら待つことにした。
 タージマハル。シャージャハンが王妃ムムターズマハルの御霊を弔うために、ありったけの財力を傾けて建築した巨大な大理石の墓。
 インド最大の観光地というだけあって、まずは入り口でセキュリティーチェックを受ける。カバンの中も調べられた。

タージマハル
 石造りの門をくぐると、眼に飛び込んできたのはまさに想像していたタージマハルだった。世界史の資料集で見たそれが目の前にあるのは、奇妙な感動だった。
 整備された芝生の上に均等に木が立ち並び、噴水が飛沫をあげる。さすがにそれほどゴミは落ちていない。その数百メートル先に白いタマネギ型の屋根を抱いた建造物。
 そのドームの真下、まさに棺が収められているその部分は格子窓までもが大きな大理石をくりぬいて造られている。薄暗い内部には、壁の部分に唐草のような模様がある。そのツルの先端には赤い花を型どった石がはめ込まれている。その中のいくつかは光を通す。わずか人差し指の先ほどの花びらに懐中電灯を当てると、光が差し込んだ瞬間に深く赤い透明な光を放つ。まるで埋め込まれた時の長さを映し出すように、石の中を光が巡る。
 ヤムナーの対岸に黒大理石で自分のための墓を造り、タージマハルとを橋でつなぐのがシャージャハンの望みであったとか。
 しかし彼の思惑とは裏腹に、彼の亡骸もここタージマハルに埋葬されている。
 王妃の柩よりも一段高い所に彼の柩が並べてあった。皮肉なものだ。
 ほとんどの観光客は、門からまっすぐにタージへ向かい、またまっすぐに戻っていく。しかし同じ敷地内にはモスクも隣接しているし、脇にそれるとちょっとした植物園のような趣で花が咲いている。
 そこで僕は数匹のリスを見かけた。赤い花に首から突っ込んで蜜を吸っているものもあった。緑色の鳩のような大きさの鳥が飛び、枯れ葉の中で翼をばたばたさせる茶色い鳥もいた。
 僕はこういった寄り道が大好きなのだ。
 アーグラー城へはタージから歩いて行った。それは、しかしさほど僕の興味をひくものでもなかった。
 そこで一人の旅行者と出会った。今朝チェックインした宿が不愉快だから移りたいんだが、と言った。僕の部屋はツインだから、シェアしても構わないと言い場所を教えた。
 一度僕はホテルにもどって、絵はがきを書いた。タージのすぐそばに郵便局があるのを先ほど見つけていたので、そこで投函した。
 そこにいた警官に呼び止められた。「あなたと話し合いをしたい」と言われた時には驚いた。何かまずいことをしてしまったのだろうか。
 彼がdiscussという単語を使ったから構えたが、なんのことはない彼はおしゃべり相手に僕を選んだだけだった。
 目の前を次から次へと観光客が歩いている。
 それを見て彼は言った。「アメリカとかカナダの女性はセクシーだよ」「インドの女性は宗教上の理由から肌を隠す。けれどな、とても優しいんだ」
 30分近くとりとめもない会話をしていたが、ひょっとしたら先ほどの彼が部屋にやってくるかもしれないからと、僕はその場を後にした。
 ラッシーでも飲もうと、ホテルの中の食堂へ出たら彼がやって来た。彼は東大の薬学部の3年生だった。絶対に僕より年上だと思っていたから、同じ年齢だと分かって驚いた。
 夜は彼と一緒にちょっとしたレストランへでかけた。重厚な雰囲気の入り口で、テーブルにはナプキンが立っていた。僕の格好で入ることがはばかられるような店だった。
 一品が40〜100ルピーもしたが、しかしそこら辺の安食堂と味が違うように思えない。テーブルクロスの上に並べられる食器は確かに慣れ親しんだ金属の薄っぺらなものではないが、汚れがごびりついていたり欠けていたり。宿命的にインドだ。
 彼は「日本円にしたら安いよ」と。確かにそれも一つのスタイルではある。
 帰り際、サイクルリクシャーと交渉していたら、ふいに街灯や店の明かりが一斉に消えた。けれど多くの店は自家発電の設備を備えているようだった。
 オートリクシャーの運転手が「サイクルリクシャーにはライトがないから危険だが、俺の車にはライトがついているぞ」と横から割り込んできた。サイクルリクシャーも負けてはいない。自分の目を指さしながら「俺の目はグッドライトさ」と格好のいいことを言う。
 でも彼は「15ルピー払うなら直接ホテルまで行く。見るだけでいいからみやげ物屋に寄れば10でいい」と条件を出した。
 15を払う気にも、店に寄る気にもならなかったから、とりあえず歩き始めた。別のリクシャワーラーが近づいてきて、英語のできない彼は10ルピーと5ルピーの札を目の前に取り出した。「高いよ」と言って歩き続けると、今度は10と2枚の1ルピー札を提示した。それに乗って少々肌寒さを感じる中、ホテルへ戻った。


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