チャー

 朝一番のチャイも宿代の中に含まれている。これに毎食後、それとおやつの時間に出るチャイで、すなわち一日5チャイ。ブラックティーもレモンティーも選ぶことはできたが、やっぱり僕はチャイがよかった。ただ、一つの難点は、水なんかを飲む金属製のコップに入っているので、熱いということだった。チャイはやはりチャイグラスか、テラコッタに限る。
 自転車を借りて、銀行と郵便局へ出かけた。
 インドというただ一つの国をわずかにかじっただけでも、自分の価値観が限定されたものだとは分かる。価値観の相対性の遵守も認める。けれども、銀行でなかなか応対の進まない窓口に出くわすとイライラしている自分に気付く。
 まあ、頭で知っていることと実際との乖離を実感したことだけでも価値はあるのか。
 何度か同じ道を巡ったものの、ヒンドゥーの聖地としてのプリーの顔であるジャガンナート寺院を路地の向こうに見つけた。辺りの建物に抜きん出ている。二つの塔が見えたが、奥の方のより高い方は、工事中のようで足場のための鉄骨が張り巡らされていた。ここも異教徒の侵入は許されない。
 ジャガンナートから伸びた一本の細い道には、政府の経営する麻薬の店がある。
 「ガヴァメントショップはパチンコの景品交換所みたいなものだよ」と聞いていた通りだった。わずかにひさしのの伸びた木造の店には、お金と品物とをやり取りするための手首が通る程度の小さな穴が二つ開いている。夏休みの宿題で小学生が作った鳥小屋と言ってもうなずけなくはないほどのものだった。しかし看板には「GOVT.BHANGA SHOP」との文字が見える。別段臆する風もなく、インド人が買っていき、旅行者も平気で列に並んでいた。すると中から「あんたも買わないか」と声がかかったが、「いや、見てるだけだから」と断った。
 部屋に戻ると、隣に女性がいた。部屋の前には机と椅子が置かれているが、荷物を解いた彼女が座っていた。
 「よかったら、ミカン一ついかがですか」と差し出したら、ちょっとした違和感が発生した。ああそうかと気付いて、即英語に切り替えた。すると彼女はにこやかに「ワタシハカンコクジンデス」と。
 僕は日本人と、韓国人や香港人や台湾人などとの違いがなんとなく分かるつもりでいたが、そうでもないようだ。
 チャーと言う名の彼女は塾で古典を教える講師の職を辞めてインドに来た。ぐるっと南を回ってここに着いた。次はダージリンなどの北部を目指すと言った。
 ミカンを二つ食べた彼女は、タッパーやナイフや諸々の調味料、それに市場で買ってきたというキュウリを取り出してキムチを漬け始めた。
 彼女は犬が苦手だった。ところがサンタナでは大きな犬を飼っていた。どうしても玄関へ行くためにはそのそばを通らなくてはならなくて、いつもビクビクしていた。時には僕の腕にしがみついてくるほど。役得、と言えるかもしれない。
 夕食の後、CTロード沿いにある酒屋で買ったウィスキーの小瓶を持って、チャーを誘って屋上へ。ゲストハウスの兄ちゃんまで着いてきた。
 彼女は27才だと言った。僕よりは年上だろうとは思っていたが、よもやそこまで離れていようとはちょっとした驚きだった。
 日本語と韓国語の相似点であるとか、あるいは韓国人のバックパッカーは徐々に増えているからいずれは韓国人宿といったものもできるであろうとか、とりとめもないことをウィスキーを飲みながら話した。彼女の英語はとても聞き易かった。
 しかし、いかんいかんとは思いながらもポクナ(確かこんな名前だったと思うが定かではない)とはどうしても日本語になってしまいがちだ。
 「いいよね、星空、波の音、酒、それに女性が隣にいてさ」と彼に言ったが、これを彼女に伝わる英語で言えなかったところに僕の弱みがあるのかもしれない。おそらく、そうなのだろう。
 彼女は旅の動機をこう語った。
 「家族が亡くなって、自分が空っぽになってしまった。そんな時に宗教の本を読み漁っていたら、インド人は泣かないらしいということが書かれていた。それがどういうことなのかを知るためにインドへ来たの。人も木も動物もみんな生きているんだから何も一人の人間が死んだからって悲しまなくてもいいんじゃないかってことを学んだわ。全ては一つなんだって。(Everything is one.)」


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