ヴァラナシではいつもガンガーに出ていたのと同じように、ここではことあるごとに海岸に赴いた。
砂浜を掘ってアサリをとってきた人がいて、僕も潮干狩りでもしてみようかと砂浜に出かけた。もちろん村に面した海岸は避けて。インドでは海は手頃な水洗トイレであるからだ。
しかし漁師の村を離れてもしばらくはやはり点々と波の寄せる跡に沿って並んでいるし、今まさに製造中の人が幾人かいた。
足元の危険が去って、ようやく視線を配る余裕が出てみると、かなりの数のカニが砂浜を歩いている。しかしこちらがある程度まで近づくと、まるで滑るようにしてそれぞれの穴に潜り込む。これほど速く走るカニは初めて見た。
適当な所で砂を掘ってみると、数ミリのカニだかエビだか三葉虫だかの幼生がわらわらと出てくるだけで、肝心のアサリはどこにも見あたらない。場所を移動しても同じだった。
仕方なく僕は海岸の散歩をすることに。乾いた砂地よりも、泳ぐには少し高すぎる感のある波が湿らせた砂の上の方が歩きやすかった。
そんな波をものともせずに沖合い3、40メートルに出て漁をする少年達の様子を見物した。
一人が砂浜から指示を出し、残りの二人で網を広げる。引き上げてみると鰯の中羽ほどの大きさで、見た目はボラにも似た、目の上に黄色い筋の入った魚が30匹あるいはそれ以上かかっていた。沖合いから戻ってくる少年は口にも一匹くわえていた。
入れ物がないようで、脱いだ服に魚をくるんでいたので、僕が獲物を入れるためにと持ってきていたビニール袋をあげた。「魚、いる?」と手真似で聞かれたけど、どうもすでに生臭いその魚はちょっと僕はほしいとは思わなかった。刺身になりそうなのがとれたらもらえないかな、という下心もあったのだが。
サンダルを手に持って、海に入る。ぬるい海水が足を洗う。強い波が短パンを濡らした。足の裏の砂が滑り、沖合いに引きずられそうになった。
他にも子どもが何人か同じように魚をとっていた。
海蛇のような緑っぽい動物の死骸が砂浜に転がっていた。猫の死骸も二つ。一匹は干物のようにカチカチに乾き、もう一匹はほとんど白骨化していた。
それほど泳ごうと思っていたわけではないのだが、午後の3時頃に照りつける太陽のせいで汗が吹き出し、肌が焼け付く感じがした。海と浜辺に出なくては、という気分になった。
水着は、クルターなどを売っている衣料品店で手に入れた。黒字にピンク・白・緑・黄色・オレンジの水玉が描かれた絶望的なデザインであった。しかし選択肢がこれよりなかったので仕方がない。
中身を飲んだ後のヤシの実が転がっていたので、それを砂浜に敷いたルンギの上に載せておいた。
さすがにホテル街に面した浜には例のモノは落ちていない。外国人旅行者がちらほらといた。
水は温かい。水深は差ほどではないが、波が強いため少し踏み込んだだけで体ごと吹っ飛ばされる。泳ぎには全く自信がないので、文字どおり水際でばしゃばしゃと遊ぶ。しかしすぐに疲れた。
海水浴、というよりもせっかくだから肌を焼こうという気持ちの方が強かったので、仰向けになってルンギの上に横たわった。
宇宙の漆黒が無限段階のグラデーションを経て、段々と明るさを得る。僕らは目の前にある空気を透明であると知覚する。しかし、本当はかすかに青いはずだ。ちょうどその青さを青さとして認識できるのが空なのだろう。ああ、空は本当に青い。
そんな果てしなさを実感させるような群青色の空に、手を伸ばせばふんわりとつかめそうな雲が流れる。眼鏡を外しているだけに、余計に曖昧模糊としている。だからこそ手が届きそうなのだ。
旅をしていると、空や花や鳥をよく見るようになり、その何気ない美しさを再確認する。見ると言うよりも、見ていることに気付く。
残念ながら、あれほど強烈だった太陽が、雲に覆われ始めた。
最終日には一日ずっと肌をさらそうと思い、朝食後すぐに海に出た。しばらく強い波と戯れた後、ひたすらに横たわる。波の音は10分に一度ほど、ふいに止む。
何も考えられないから、何も考えない。目を閉じた僕が知り得たのは、波が打ち寄せ、太陽が照っているということだけだった。
昼過ぎにもう一度海につかったら、かなり波の勢いが弱まっていた。
水着の上にルンギを巻いただけの姿で、一端サンタナロッジへ戻った。しかし昼食をとってからは再び海に出ようと言う気にはならなかった。