冷えた青島だけが
朝、川沿いを散歩する。
太極拳をする人民。型も様々、刀を持って体を動かす人も。まるで夏休みのラジオ体操を老若男女問わずにやっているようだ。音楽をかけて、社交ダンスの練習をする人たちも。健康法だろうか、後ろ向きに歩く人の姿もちらほら見かけた。
人民広場は市の中心部にあり、大勢のどちらかと言うとこぎれいな格好の人が集まっている。そこにある博物館、地下のショッピングセンター、さらには地下鉄でも「ビーチサンダルはダメだ」と追い返された。確かに、案内板にあるサンダルの絵にはバツ印がついている。しかし、しかしだ、さして違いのないようなサンダルを履いている人は大勢いて、誰もチェックされていない。
仕方なくビーチサンダルよりは少しましなものを一足買って、再度地下鉄へ。新品の駅だが、券売も改札も自動化されておらず人が働いている。奇妙な光景だった。
始発の駅なのだが、列を作らず我先にと誰もが乗り込み、そして座れた人はうれしげな表情だ。駅の表示など、雰囲気は香港の地下鉄に似ている。駅名を告げるスピーカーはずいぶんと音が悪い。
僕が向かったのは上海駅。ここで香港行きの切符を買うつもりだった。地上に出ると、発券を待っているのだろうか、巨大な人の塊が駅舎からはみ出すほどに。
インフォメーションでは英語が通じず、駅から少し離れた所にある建物へ行くように伝えられた。ここでもまた建物に入るために並び、そしてその中ではそれぞれの窓口にまた長蛇の列ができている。天井にぶら下がるファンは、人いきれで熱せられた空気を無意味にかき回している。壁に掲げられた鉄道網の地図には当然のごとく、しかし僕には軽い驚きだったが、台湾の路線も含まれている。仮にここで「台北から台南まで一枚」と言ったら買えるのだろうか。
分からない、はっきり言って分からない。しばらくウロウロしてみたが何も分からない。諦めてとりあえず戻ろうと再び地下へ。ふと目に留まったトラベルインフォメーションのカウンターで「香港行きの切符はどこで買えるのか」と聞くと、拙いながらも英語で「ロングマンホテルの中にカウンターがある」ということを教えてくれた。
これは先ほどの建物とは駅を挟んで逆の側にあった。かなりのホテルだった。ドアマンに「ここで鉄道の切符が買えると聞いたんだけど」と言うと、「入ってすぐを左の方へどうぞ」と。
英語は今一つ通じないのだが、「香港」を連呼して、希望の日付はそこにあったカレンダーを示してようやく買うことができた。「上海站至九龍站・直通特快列車・人民幣690.00」などの文字が印刷されている。今朝1万円を両替したが、それがほとんど吹き飛んだ。
ドミトリーの隣のベッドにいたクリスは「高価なのは、中国人を香港に流入させないためではないか」と言った。僕はてっきりヴェトナムのように外国人料金が適用されたのでは、と思ったが「それはつい最近廃止になったと新聞で読んだ」とのことだった。
「寝台に乗るんだったら、上段のベッドは避けた方がいいよ。タバコの煙がこもるから」という彼の助言は一足遅かった。僕の切符には「硬臥中鋪」と書かれている。おそらく中段だ。
僕が買った地図には、市バスの路線も書き込まれていたので便利だった。エアコンなしのバスは50角、エアコンがあるとその4倍の2元。
僕は最初にやってきたバスに乗り込んだが、それにはエアコンがあった。途中で一度前を走る自転車にぶつかった。すぐに公安がやってきて、しばらく現場検証のようなことをやっていたが、おかげで僕は冷気に浸ることができた。
上海に入って以来、いや神戸を出て以来、相変わらず僕は心が浮き立つどころか、むしろここに至って心が荒れていた。それは今まで出会ったどんな国の人たちとも異なる(あたり前だが)性格、とでも言うべきもののせいなのか、あるいは大都市故の何かなのかは分からない。しかしバスに乗ってやってきた魯迅公園にある緑を見て、少しほっとするものがあった。公園内では水を浸した筆で、アスファルトに漢詩を書いている人や、針にドジョウを引っかけて池で釣りをする老人などが僕の興味を引いた。
豫園という所を宿の人にすすめられたので、行ってみた。みやげ物屋が軒を連ね、赤くきらびやかな衣裳の一団が何かのアトラクションのようなことをやっていた。
日が沈むと、また青島を数本買い込み、昼間路上で買ったトマトをかじりながら、ぼんやりと外の明かりを眺めた。そのままおいしく食べられて、しかも食事で不足しがちな栄養を手軽に補給してくれるこの野菜を、僕は何の感興も抱かずに義務的にかじった。ビールを飲んでいる時だけが、多少僕は僕を取り戻すことができる瞬間だった。
ドンムアン空港に降り立つ瞬間、いつも僕を揺さぶった興奮とは全くの対称にある感情が、粘っこく僕の体にまとわりついていた。
夜になれば、何かおもしろいことがあるかもしれないと夕涼みを兼ねて、川縁へ。ものすごい人出だった。時計台を始めとしたいくつもの建物がライトアップされ、対岸には悪趣味なデザインのテレビ塔が単調に光を放っていた。串に2個の団子を突き刺したようなその姿は、まるで一昔前のアニメで、先端からレーザー光線を発する、そんな装置のようだった。
しかしその明るさや、人の賑わいは僕の心のどこの部分にも訴えかけてはこなかった。一体、どうしてしまったのだろう。香港に発つのは明後日だ。香港へ行けば、という幽かな期待だけが僕を支えていた。
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