たいへんよくたべました

 パサールアタスとは「高い市場」という意味なのだそうだ。なるほど、ブキティンギの街を坂に沿って上っていくと、市場に出る。かなり大きなものだ。

市場の時計塔
 朝のこの時間は、まだそれぞれの店が開店の準備をしているか、あるいは開いたばかりというところだった。中心部に3階建ての建物があり、そしてその周りに青空市場がぐるっと広がっている。
 何はともあれ、朝飯だ。食堂街のような一角があり、それぞれの店で出す料理が看板に掲げられている。大体、何が食べられるのか言葉を見ただけで分かるようになってきた。
 何種類ものおかずが湯気を立てている店を選んだ。それぞれの品は、豪華な雛壇のように並べられている。目に付いたものを適当に指で示した。すると、それ以外にもあちらから野菜、こちらからは汁、そこからはイモとちょこちょこと手際よくご飯を盛った皿の上にのせてくれた。
屋台ご飯
 その味は、タイを思い出させた。しかし、辛さはほとんどない。柔らかな味は、極めて朝食にふさわしいように思えた。ルーツはタイなのか、インドネシアなのか、それとももっと違う国なのかは知らないが、海を隔てても確かにそこに関連を感じた。
 イリコなどの干した魚がかごに山盛りになって、そのままひょいとつまみたくなるような、魚介類の乾いた匂いを放っていた。あるいは、下着が山と詰まれた店もある。地面に敷いたシートの上に並んだ細々とした雑貨を見て、僕はボールペンを買った。そして、思わず写真に収めたものがある。プラスティック製のそれはおそらく弁当箱だと思うのだが、ふたの絵が妙だった。富士山を背景に、鳥居がその手前、そして前面には劇画調のくの一がいる。IZUMIという文字が上の方にある。日本のどこかでこれを作っているのか、あるいは誰かが「日本的なデザインでよろしく」と言われて、その人の知る日本を描いたのか。ともかく、徐々に存在を強めていく午前の光の中で、そのプラスティック製品は愉快な想像力をかきたてた。
 市場はここまでだという境界を知ることができるのは、店が途切れているからというのもあるが、それ以上に目に付くのは、買い物帰りの客をあてこんで並ぶバイタクだったりトゥクトゥクだったりもする。パサールアタスでは、馬車だった。一頭だての二輪馬車が、山のように積み上げた果物屋の先にずらっと待っていた。顔に取り付けられた黒い四角い板で、馬の視界は限られている。馬糞で路上を汚さないように、馬と馬車との間にはちょうどそれを受けるためのビニールが張られている。それでも道にはワラの名残をとどめた排泄物がいくつも落ちているのだが。
 いつの間にか下っていたらしく、階段を上って引き返す。市場を構成する要素はいくつもあるが、物乞いの姿もよく目にする。小さな皿を目の前に置いた人々が階段にしゃがんでいる。いくばくかの小銭の入った皿もあったし、空っぽのものもあった。
 今度は古着を扱う店があった。店の頭上に張られたオレンジ色のビニールのせいで、朝の光が染まっている中、ヴェールをかぶった女性が真剣に品定めをしている。
 小ぶりのドラヤキのよう、と例えるのがふさわしいお菓子をつまんだ。焦げ茶色の空飛ぶ円盤のような形で、口の中にバナナの香りが広がる。
 十分に食欲は満たされているはずなのだが、需要は供給によって刺激される。一度はそこを行き過ぎたのだが、3歩も行かずに僕の足は回れ右をして、たった今焼き型から勢いよく取り出されたばかりのお菓子を二つ買った。もちろん、一つはすぐに口の中へ。カップケーキよりは一回りほど大きく、そのカップ自体は何かの葉でできていた。店のおばさんは、葉の燃えてしまった部分をぱんぱんとはたいていた。中にはしゃくしゃくとしたココナツがたっぷりと。ぎゅっと詰まったそれは、ふかふかではなく、ずっしりと舌に乗りそして腹にたまった。
 別にこれはすぐに食べるわけではないが、マンゴスチンと、ジャガイモにしか見えない果物をそれぞれ半キロずつ買った。どう見ても外見はジャガイモでしかないそれは、サワォーという名だと後で知った。  「これとこれ、500グラムずつちょうだい」とインドネシア語で言ってみたけれど、「ああ、半キロね」とちょっと意地の悪い初老の小学校教師のような目つきの彼女は、にっこりと英語で返事をした。
 赤道までわずかしかないはずなのに、想像していたような暑さはない。周囲を山に囲まれたこの街の標高がかなりあるせいだ。けれど、日光の強さが南緯1、2度しかないことを思い出させてくれる。
 サングラスにTシャツ、短パン、ビーチサンダル、布のザックを肩に引っかけ、手には先ほどのマンゴスチンとサワォーの入った白いビニール袋。店の窓ガラスに映る姿を見て、ちょっと格好いいかなと自分で思う。誰もそうは思ってくれないかもしれないけど。
 「世界でここしかないよ」という文句で、赤道の売り子はTシャツを宣伝していたが、ここにもあった。全く同じものだ。世界地図に赤道が大きく示され、「I CROSSED THE EQUATOR」というロゴが入り、BONJOL SUMATERA INDONESIAという地名が小さく書かれている。後に、これを見た友人は「え?須磨寺」と読んだが、もちろんスマトラが正しい。水族館は、ない、と思う。
 店の兄ちゃんは、観光客相手の売り物のわりには英語ができなかった。お互い自分の言葉でなんやかんやといいながら、電卓を叩く。最初からそれほどの値段ではなかったし、値下げの幅が500ルピア単位なので、かなり順当な値段とその下げ方ではないかと思った。
 経済学者、クリフォード・ギアツなる人物は、インドネシアのパサールにおける値段交渉を「騒々しく攻撃的な交渉」「敵対的な相互作用」なんて言ったらしいが、なじんでしまえば楽しい。彼もそんな言葉を考える暇があるなら、もっとおしゃべりをして、買い物をすればよかったのだ。
 食事と散歩を終え、ゲストハウスへ。まずは初めてのサワォーを。黄色く薄い皮は簡単にむくことができた。濃い茶色の果肉にかぶりつくと、それは甘かった。とても。黒砂糖にも似たこってりとした甘さで、のどにささるほどだ。甘いものは好物だが、これは少しくどい。
 気を取り直し、今まで見た中でも最も大きなマンゴスチンをかぱっと割り、白い実をつるりと口に入れる。ため息と共に「ああ、女王様」という声を上げたくなるほど、うまい。ブドウに似ていなくはないが、その甘みを濃縮し、えぐみは完全に取り除かれている。咀嚼によって細胞からはことごとく果汁がしみ出し、のどをしたたってゆく。
 ここには、日本軍が終戦間際に掘った洞窟が残っている。パサールアタスの横を通り、時計台のある公園の芝生を横切り、右に曲がった。
 「おーい」と呼びかける者がある。わずかに草がしがみついている、建築前の土地のような空き地があり、その奥の建物の前のベンチから二人の男が僕に声をかけていた。その雰囲気から、てっきり工事に関連した人だろうと思った。そして、ちょうど昼休みか何かで時間があって、たまたま目にした外国人にちょっと声をかけてみた。そう思った僕は、軽く手を振ってそのまま通り過ぎてしまってもよかったはずなのに、なぜだかそちらへ歩き出した。
 急いで洞窟に潜らないと爆撃される危険があるわけでもない。単に、そこにそういうものがあって、ちょっと興味を引かれたから、まあ見物してみるかという程度の理由からだった。だから、同じ暇をつぶすならば、 おしゃべりでも構わないか。そんなくらいだった。
 セサミストリートに登場する、バートとアーニーによく似た二人組だった。顔が縦に長いバートの方が、集中的にしゃべる。いや、しゃべくる。言葉につまると、くわっと目をむいたり、歯をにかっとむき出しにしてみたり、上体を揺すってみたり、人差し指を額にあててみたり。動作もまた賑やかだ。
 そこの建物は工事中でもなく、その前の空き地も建築を待っているわけでもなかった。もちろん、彼らも作業員ではなかった。その建物はMY BROTHER ENGLISH COURESEという名の英語の塾であり(そう言われると、窓の向こうには教室があり初老の教師が数少ない生徒に向かってテキストを読んでいた)、そしてその二人は、彼ら自身の言葉を借りるなら「正規ではない生徒(illegal students)」ということだった。その軒先で英語を教えてもらい、授業料を納める代わりに雑用をしているとか。ちょうど彼らの手元には、タイプ打ちされた英文のプリントの束があった。
 観光客を捕まえては、ここで英会話の実践練習をしているのだそうだ。
 何も高い料金を払わなくたって、英語の(あるいは語学の)訓練はできるものだ。香港のドミトリーで出会った有川君は「街角でアクセサリーを売っている人に話しかけるのが、自分の勉強法だ」と言っていた。英語が上手にできないと英語でコミュニケーションはできない、あるいは海外の一人旅なんて以ての外なんて考えの人は、一生日本語で暮らせばいい。
 いつの間にかその先生も登場して、輪に加わっていた。彼の手にはチョークの粉がしみついていた。黒板で授業をするとどうしても避けられない。彼の頭髪の一部が白いのはしかし、チョークによるものではなかった。けど、僕はそこで手をはたくから白く汚れたズボンも、あるいは汚れたままの手で配られたため端の方にチョークが付いているプリントも苦手だ。
 けれど彼の話しっぷりやその内容は溌剌としていて、とても好感が持てた。戦前の小学校の先生のようだ。けれど、仮に僕がその先生に生徒対教師として教室で向かいあったら、それほどいい感情を持ち得なかっただろう。
 彼の口からポンポンと飛び出すのは、完璧にアメリカ英語だった。それは英語として完璧だからなのではなく、その雰囲気やねちゃねちゃとした音としてアメリカ的であることに非の打ち所がないということだ。文法は結構いい加減だった。けれど、会話に邪魔になるほどではない。それどころか、僕なんかよりも比較にならないほどに流暢だった。「アメリカに住んでいた」という言葉に、僕は納得した。
 なんだか、話しの内に、彼ら二人の実家がある村に招待された。もちろんそこは、セサミストリートではなく、パヤクンブッという名の村だった。
 先生曰く「ミナンカバウ人の伝統が残るよい場所だよ。それに、生徒にとっては英語の経験にもなるしな。日曜だったら私も休みだから一緒に行くところなんだが、残念ながら授業があるので」
 彼らが言うことには「ガイドじゃないから、お金はもちろんいらないよ。お菓子とタバコがちょっとあったらいいかな。お菓子は自分のために、タバコはちょっとしたおみやげ代わりに。あと、長袖、長ズボンは持っているよね」
 彼のお菓子(snack)の発音が、aの部分を妙に引っかけて強勢を置いたために、最初はそれが蛇(snake)に聞こえて、少々驚いたが。
 ちょっと、トントン拍子に事が運び過ぎている気もしなくはないが、行ってみることにした。明日の3時にまたここで待ち合わせることに。
 最後に先生は言った。「彼らの村に行くという約束は、どんな種類の約束なのかい? 旅行者としてのだろうか。旅行者の中には、約束だけして実行しない人がいるもんだが、君はどうかな」
 確かに、旅での約束は曖昧なことが多い。旅人同士ならそれもまたある程度は許容されるかもしれないが、彼らは違う。僕はちょっと考えてから、こう言った「もちろん、人としての約束です」
 「人として」の部分で僕はわずかに躊躇した。最初にas a manという語句が浮かんだが、人一般を示すならばもう少し適切な表現があるはずだから。「人」を表す語はいくつもあるが、どういう場合にどれが相応しいのかということを、昨年の講義でイギリス人の教官に質問した覚えがある。しかし、さてどうだったかと頭の中で検索していてもうまいのが引っかかってこない。まあ、いいかということで思いついたそのままを答えた。
 すると彼はいたく気にいったらしく「そうか、そうか。promise as a manか」と繰り返した。願わくば、「男としての約束」と解釈されていないことを。僕はそういう考え方をしない(そして、むしろそんな人を避けたい)人間だから。
 言いたいことをその通りに伝えられない(それ以外の甘さを残してしまう)ということは、僕を少々苛立たせたが、より一層言葉の力を磨こうという刺激にもなった。
 「それじゃあ、また明日」と、英語塾を後にして、当初の予定通り洞窟へ。
 公園の入り口、そしてトンネルの入り口、その両方で入場料が必要だった。20メートルは下るだろうかという長い階段には、「WELCOME TO JAPANESE TUNNEL」と、文化祭の看板のように陽気で稚拙な文字が大書されていた。
 ぼろぼろと崩れそうな柔らかな岩盤を削ってつくられたその穴は、予想外に広いようだった。けど、その広さに反して、蛍光灯が疎らにしか設置されていないため、明るいものではない。もちろん、50年以上も昔に、なぜ日本人がインドネシアでこれほど広大な穴を掘ったのか(もしくは、掘らせたのか)ということを考えると、仮にミラーボールが回ってマグネシウムがスパークしていたとしても、決して心浮き立つものではない。
 胃が、ギュッとくる恐怖がある。亡霊が現れるから地元の人は夜になると近づかないとか。まさか、そんなことは、と楽観してもいられない。壁の部分のちょっとした盛り上がりが、人影ではないということに気づくまでのわずかな時間、僕は息を詰めていた。
 ヒヤリとした空気が沈殿した中を歩き回ってみると、200メートル四方はありそうだった。ここは防空壕であると同時に、刑務所でもあったらしい。いくつかある部屋の中には、囚人のためのものもあった。
 通路にシャベルが一本落ちていた。まさか、当時のものではないだろうが、それは何かしらの意味を投げかけてくる、重いシャベルのように見えた。
 そいつを持って地面を掘るまねをした写真を撮ろうかと僕は思い付いたが、想像してみるとそれはセンスはあるが、趣味の悪い写真だということに気づいた。それに撮ってもらうにも、他に人は見当たらない。
 それでもせっかく入ったのだからと、隈無く歩き回る。通路と通路の間は、低く狭い穴がつないでいた。腰をかがめないと入れないほどだ。そして、そういった道には明かりはない。懐中電灯を持って来ようなどという考えが浮かぶわけもなかったので、僕はライター(タバコは吸わない。蚊取り線香のためだ)のわずかな明かりで足下を照らしながら、おそるおそる闇を進んだ。
 ある通路は、その先がほのかに明るかった。谷になっている側に突き抜けているようだった。その向こうに見える圧倒的な眩い光と生命を象徴するかのような植物群、それに唐突に耳に飛び込むようになったセミの声。
 さて、地上に戻ると、僕はその公園を歩いてみた。展望台からは眼下に展開するシアノッ谷を一望できた。これはインドネシアのグランドキャニオンと呼ばれるらしい。悪くはなかったが、おそらく本物のグランドキャニオンはもっとすごいのだろう。でなかったら、アメリカのシアノッ谷と呼ばれるだろうから。
 宿のあるヤニ通りに向かって歩く途中、小学校の前で制服姿の子ども達が、アイスクリーム屋に群がっていた。僕もそこに混じって、同じものを食べた。シャーベットに近い、シャクシャクしたチョコレート味だ。甘すぎることなく、また少々物足りない程度の量がちょうど良かった。
ミーアヤム
 ついでに市場で昼食にした。ミーアヤムを出す屋台に座った。直訳すれば鶏そばだ。小さめの丼(その内側には、宿命的にAJINOMOTOのロゴがあった。とにかく、グルタミン酸ナトリウムはインドネシアでは圧倒的に有名だった)に入った汁そばで、麺はぼそぼそとしていたが、ゆでられた青菜ととろりと煮込まれた鳥肉、それに熱々のスープが最高にうまかった。腹一杯になるだけの量ではないのが、またニクイ。
 うどん、そば、ラーメン、バミーナム、それにこのミーアヤムは、どれも汁の中に麺が入っているという基本的な性格において似たもの同士だが、麺さえもう少しなんとかなれば間違いなくミーアヤムが最高なのだが。
 ヤニ通りでバスチケットを探す。宿でも手配できたが、できればもう少し安いのがないだろうかと、片端から当たってみた。座席が2+2なのか1+2なのか。トイレがあるかないか。エアコンか、ノンエアコンか。あるいはバス会社によっても値段は異なった。
 とりあえず次はジャカルタまで行くことにしていたから、できれば快適なバスで行きたい。しかしあまり高いのはいただけない。いくつかのパラメーターを頭の中で動かして、2+2、トイレもエアコンもなしのANSという会社のバスに決めた。インドネシア人の発音は「アイ・エヌ・エス」に聞こえる。そういいえば、バイト先によくかかってくる似たような名前の会社があったような。ああ、あれはエー・エム・エスか。
 朝が早いと、一日がとても長い。ずいぶんいろんなことをしたような気がするが、まだまだ昼過ぎだ。
 ひょっとしたら泳げるかもしれないと期待して、水着をザックに放り込んでマニンジャウ湖へ行こうと思い立った。さっきの英語の先生がすすめてくれた場所の一つでもある。
 ベモ(ミニバス)に乗り、ひとまずバスターミナル。もちろん、ここで入場してはお金を取られるだろうことが経験から分かっているし、実際に徴収係のような人もいたので、ちょっと手前で目的の車を待っていた。もちろん多くの人はそうやっている。
 相変わらず「どこに行くの?」と声がかかるから、僕は答える。「ブラウ・マニンジャウ」
 「よーし、だったらこの車」と示される。うん、順当だ。ぎゅうぎゅうに客が入るまで必死に呼び込みをして、そして出発。
 思ったよりもやけに早く下ろされたそこは、湖なんかではなかった。適当に辺りを歩くが、ひょっとしてと思った場所も単なる森だった。どう考えても、見当違いの所に来てしまったようだ。
 そんなに泳ぎたかったわけでもないので、近くにあった市場をぶらっと冷やかしてみた。ブキティンギの市場ではあれほど丸々とした果物を売っていたのに、ここに並んでいるのはどれもみすぼらしかった。ランブータンの毛は緑ではなく、痛んだ黒だった。それにずいぶんと小さい。
 「ブッキー、ブッキー」という呼び込みの車に乗り込み、地図を示しながら片言のインドネシア語で隣の人に尋ねる。「これ、ブキティンギ行く。(地図で)ブキティンギ、ここ。だったら(と、辺りをぐるっと指さしながら)ここ、どこ?」
 「パダンパンジャン」という名だだった。実際に声に出してみると、「ブラウ・マニンジャウ」とは似てなくもないのだが……。質の低いだじゃれ程度だ。ベモの運転手の聞き違いか、もしくはやられたかだ。
 多少不機嫌になりながら、仕方なくブキティンギへ戻った。
 気分がくさくさしている時は、食べるのが一番だ。一人旅にあっては、自分の状態(肉体的にも、精神的にも)は基本的に自分でコントロールしなくてはならない。そんな僕がいくつかの経験から発見したのが、食べるという行動だ。うまいものを腹におさめれば、大抵のことは許せるような気がする。あるいは、さっぱりと忘れられるような気がする。不思議なことだが、気持ちが陰性の時にはあまりアルコールを飲まないような気がする。酒はマイナスの気持ちを引き下げこそすれ、上方に引き上げることはないからだろうか。プラスの気持ちを引き上げるのには大いに役立つのに。とにかく、何かしら食べるのが僕の解決法。
エスポカ
 暗くなりかけた時計台のそばの店で「エス・ポカ」を注文する。直訳すれば、氷アボカド。
 イスに腰掛けて、様子を見物する。ミキサーの中に、アボカドの果肉を丸ごと一個分、コンデンスミルク、かき氷用の赤と緑のシロップを加え、彼はカセットデッキのコンセントを抜いた。そこにミキサーのコンセントをさし込み、かき混ぜはじめる。途中で、大型の鰹節削りのような道具で細かくした氷を加え、さらに撹拌。グラスにそそいで、仕上げはチョコレートソース。
 アボカドとチョコレート、こんな組み合わせが存在するとは思わなかった。粘性の強いその流動体をストローですすると、こいつが想像をはるかに超えてうまい。チョコレートの香りと、アボカドの青臭さが止揚され、コンデンスミルクがなめらかさを加えている。
 夕食には少し早いし、今こってりとしたものを食べたばかりだったので、とりあえずゲストハウスに戻ることにした。道場のような広い建物の中で、道着をまとった子ども達が体操している。
 「柔道、それとも空手?」と近くの子に尋ねたら、「テコンドー」だと教えてくれた。「ああ、だったら俺、中学の時にやったよ」と、気分がいいものだから害のないウソを付く。もちろんテコンドーをやったことはなく、中学の体育で習ったのは柔道だ。
 「日本人なの?」「そうだよ」と言って、子ども達の感心したような視線を背中に受けながら、僕はなんだ妙な違和感を感じていた。ああ、そうか。テコンドーなんだから韓国人だって言えばよかったんだ。もう少しリアリティーが出たかもしれない。どうでもいいおかしさを一人で感じながら、長い階段をヤニ通りに向かって下りていった。
 シャワーを浴びた。水シャワーを浴びるなら、日のある内がいい。特にここはベッドに毛布が用意されているほど、夜は冷えるから。フラフラを全身にはたくと、体の外側から心地よさに包まれる。
 さて、食事に出ようか。先ほどの階段を今度は上っていく。夕陽を背中に浴びながら、後ろからはコーランが響く。コーランは夕焼け空にこそふさわしい、と僕は思う。モスクから離れるにつれ、音は次第に遠ざかる。と、思いきや今度は前方からも同じようなメロディーが。今度は歩くにつれ、徐々に大きくなっていく。また、モスクだ。本当にどこにでもあるもんだ。日本の神社仏閣の比ではないだろう。
 パダン料理というものがここではおいしいらしい。とりあえず、歩き方に掲載されている店は避けて、同じように店の前におかずが立体的に並ぶ食堂をいくつか見て回る。けれど、歩き方あったそこが結局一番人が入っていたので、そこにした。
 待っていました。席に着くと、並んだおかずを小皿に入れて、いくつも器用に重ねてテーブルに並べられた。キャベツの煮込み、鶏の空揚げ、鶏の煮込み、卵、揚げた魚、レバーなどなど。迷った末に2皿を選んで、ご飯にかけて手で口に運ぶ。手を付けた分だけ支払うシステム。だから、あれもこれも少しづつ食べると、全ての皿の分を請求されることになる。サークルの後輩に、マレーシアでその失敗をやらかしたのがいた。もちろん、手をゆすぐための水が入った容器も一緒に並んでいる。
 道すがら、アンカービールを飲んだ。
 まさに「たいへんよくたべました」というはんこを押したくなるような一日だった。
 ところで、日記のこの日のページの欄外に僕は奇妙な文句を残している。文字が読みづらいことを除けば、少なくとも僕自身には書き留めた内容が分かるようになっているはずなのだが、これだけはいくら考えても何を意味しているのかを思い出せないでいる。
 こんな言葉だ。
 「幸せかい」と聞かれたら、「そうでないことはない」と答えるしかない。
 一体、僕はその時、何を感じていたのだろうか。あるいはその時読んでいた本の引用だろうか。しかし、どんな本を読んでいたか、思い出せない。


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