やはり、今日もまずはパサールアタスへ出かける。建物の3階部分はスーパーマーケットになっていた。荷物を入り口のロッカーに預けて、手ぶらで入らなくてはいけない。市場などで買うよりもわずかばかり安い。日本のイメージとは少し異なる気がする。ここで、蚊取線香を買った。
エスチャンプルーを試す。かき氷に色とりどりのゼリーをのせたもの。ゼリーはサイコロのような形だったり、あるいはヒモ状になっていたり、口に入れやすい大きさだ。店の前の、梅酒を漬けるようなビンが並んでいて、それぞれにシロップやこのゼリーが入っている。かけられたシロップは毒々しいほどに赤く、また味も見たままの「赤い」味だった。
ひとまずチェックアウトしたものの、待ち合わせまではまだ大分あった。ロビーで宿の従業員数人と話しをした。ここで、いくつかの果物の名前や大体の値段、食べ物の名前などを教えてもらった。また、ここの宿の名前「ティゴ・バラーイ」は村の名で、「3つの市場」を表すということや、店の前の通り「A.Yani通り」は建国の勇者アハマット・ヤニにちなんでいるなどと、何となく気になっていた言葉の意味を教えてもらった。
途中で「モスクに行く」と言って席を立ったリム君の駄洒落には思わず笑ってしまった。
「ランブータンを食べ過ぎるなよ」「オランウータンになってしまうからね」
前半を聞いたときに、ランブータンを大量に身体に入れると、腹痛でも起こしかねないのだろうかと考えただけに、どうしようもない言葉遊びとのギャップがおかしかった。以後、何度かこれを借用させてもらった。
「君たちはインドネシアには雨期と乾期しかないと思っているだろうけれど、そんなことはないんだ」「いなかの方へ行くと、その果物の旬に合わせて、ランブータンシーズンとかマンゴーシーズンとか、いくつでも呼び名があるんだ」
「これから行く先に、タバコをおみやげに持っていくんだけど、どんな銘柄が喜ばれるかな」
「いいね。タバコをあげるのは、相手に対する尊敬を示すことになるんだ。そうだね、グダン・ガラムなんかがいいんじゃないかな」
「それじゃやあ、また明日もどってくるから、部屋とっといてね」
バックパックを背負って、英語教室の前に着くと、すでにバートさんの方が待っていた。正しくは、ウダァーという名だ。
「2時からずっと待ってたよ」と言うが、しかし約束の3時にはまだなっていない。しかしその割には準備が悪い。「ちょっと家に戻って着替えてくるから、ここにいてよ」
その間、ミナンカバウの文化についての研究を著した小冊子を先生から頂いた。アメリカで暮らしていた彼の別れの言葉は「グッドラック」であった。いかにも、である。
まずはベモを拾ってバスターミナルへ。きのうは目的地に行くことができなかったが、今日は彼らがいるから何の心配もない。1時間ほど走る。辺りには水田とヤシ、それに遠景に山が見える。
しかし、このバスで直接に彼らの家には着かない。1時間後、バスを降りたところで言われた。「ここからはバスもあるんだけど、景色を見せてあげたいから歩いていこう」
もちろん、僕はバックパックを背負ったままだ。
「どれくらい?」
「1時間ほどかな」という言葉に少々げんなりしながらも、あぜ道や石がごろごろする緩やかな坂道をどこまでも歩く。
畑の隅を指さして「父親の話だと、ここら辺に日本人が穴を掘って隠れていたんだ」
そう言えば、バスを降りたすぐの所に、日本軍の慰霊碑がそびえ立っていたっけ。70年ほど昔に生まれていたら、ひょっとしたら僕もここの穴に身を隠し、爆撃から逃げていたのかもしれない。
1945年の兵士と、1997年にバックパックを背負って歩く自分との間には、単に日本人であるという程度の共通点しかない。それでも僕は見たことのない光景について親近感を覚えると同時に、拭いがたい違和感を得た。
こぶし大の石が敷き詰められているのか、自然にそこにあるのか知らないが、歩きにくいことこの上ない。何せこちらはいつ鼻緒が切れてもおかしくないビーチサンダル一つなのだし。バックパックを背負ったままこれだでの長距離を歩くのは初めてだ。移動にはバスや電車を利用するし、普段は宿に置きっぱなしだから。
セサミのアーニーに似たウダァーが、興味津々という感じで、そして多少おどけて僕に質問をしてきた。
「ねえ、日本では女の子をどうやって誘うの」
他の人がどうかは知らないが、僕の経験を踏まえて答えた。しかしそれは個人的なものではあったが、おそらくかなりの普遍性を持っているだろうとも思っていた。
「手紙とか、電話だね」
けれどその普遍性なんて、結局のところ偏向した(あるいは日本人である僕らにとっては一般的な)ものでしかなかった。彼は、もう一つの質問を口にして、自然に会話を続けた。
「相手の家に電話がなければ?」
正直に言って、考えたことがなかった。
「日本では、電話のない家はほとんどないんだ」
実際、僕が今まで出会った中で家に電話がないというのは、ただの一人しかいなかったのだ。
日は傾いているとは言え、汗をしたたらせながら足を進める僕とは対照的に、一軒一軒の家の人と彼ら二人は、軽い挨拶を交わしながら歩く。別に、それぞれの家のドアをノックして、ではなく、なぜだか多くの人が外に出ていた。
「みんな、知り合いさ」ということだ。
自慢じゃないが、僕は体力に自信がない。ましてや根性なんて精神とは縁遠い人間だと自負している。安逸な方向への選択肢が大好きなのだ。
希望的観測を求めて、30分ほど歩いたあたりで残りの距離を確認してみた。
「あと、どのくらいかな」「うーん、1時間くらい」
おいおい、歩き始めたときに「全部で1時間」って言ったじゃないか。それは、彼らのペースでということだったのだろうか。
カメラや水の入った小さいカバンは持ってくれているが、やはりバックパックは軽くはない。それよりも、体にへばりつくシャツと、背中とバックパックとの間にこもる、むしむしした空気がたまらなく疲れさせる。
「ここで、休憩しよう」と腰を下ろしたのは大きな岩の上。
岩に上り、上ってきた道を振り返ると、そこには棚田(ガイドブックなんかには「ライスフィールド」などと書かれているが、間違ってもそんな物言いはしたくない)が広がる。三期作が行われているため、刈り取りが終わった田と、まだ青々と稲が茂っているものとが隣り合っていた。
そして山の向こうには、霞んだ空にまさに日が沈まんとしていた。果てしなく静かな風景だった。日本昔話に出てきてもおかしくない。ただし、ヤシの木がなければの話しだが。
「ほら、あのメラビ山の向こうがブキティンギだよ」と指さされた山頂からは、ひとかたまりの確固たる噴煙が、ぽっかりと浮かんでいた。その煙は、まるでスローモーションの映像みたいに、のんびりと変形し、たなびいていった。しばらくじっと眺めていても動いているようには見えないが、ちょっと目を話すといつの間にか先ほどとは違う形をしている。不可思議な時間が流れているようだった。
「ほら、ここから見えるあのヤシの木の向こうが家だ。暗くなる前に着きたいから、歩こう」
しかし、そのヤシを超えてもまだ着かなかった。彼が示したのと、僕が捉えたのとは違っていたのかもしれない。
結局、2時間近く歩いた。
家のドアには、立派な彫刻がなされていた。ミナンカバウの家の扉の特徴なんだそうだ。
床にぺったりと座ると、彼の家の人を紹介された。父母、祖父母、それに叔父、あるいは友人。全部で数時間しかいなかったが、色々な人が出入りしていて、一体どこまでが家族だったのかよくわからなかった。あるいはそもそも、僕とは違った観念を持っているのだろうか。
家に電気はなかった。明かりは、煌々と燃えるランプ。その元で、甘い紅茶が出され、僕はタバコをすすめた。やはり、みんな吸う。
インドネシアでは、文字どおり老若男女がタバコを吸う。まだ10才にもなってないような子どもが、ひねこびた顔(なぜだろう、タバコを吸う子どもはそういう顔をしている)で煙を吐き出しているのも何度か見かけた。
ウダァーが1メートル×50センチほどの絨毯のようなものを持ち出した。
「ここに座りなよ」とくるかと思ったら、彼が座ってメッカに向けて(我々には尻を向けて)祈り始めた。ランプの元、コーランをめくりながら低い声を唱える。スピーカーが、がなり立てるコーランは幾度となく耳にしたが、目の当たりにするのはこれが初めてだった。
いかに宗教が生活に密着しているかを目の当たりにした僕は、彼の邪魔にならないように、すでに祈りを終えたアディにおそるおそる尋ねてみた。
「ねえ、写真撮ってもいいかな」
すると、さっとこちらを向いたウダァーの言ったことは、「ノープロブレム」
それどころか、正装をするからちょっと待ってくれと言い出した。
やがて彼は足にサロンを巻き付けて部屋から出てきたが、「コピア(ムスリムがかぶるもの。小鉢をひっくり返したような形の帽子)を父親に借りたいんだけど、ちょっと外に出ちゃったから帰ってくるまで待ってよ。すぐだと思うからさ」
その間、コーランについていくつかのことを教えてもらったが、父親は戻ってこなかった。ウダァーの言うところによると、村の喫茶店で集まっておしゃべりをしたり、ドミノに興じたりしているのだそうだ。