彼らの日本語
8時前には起きたのだが、僕が最後だった。それにしても、川の字にさらに2本加わった雑魚寝は少し窮屈だった。寝返りを打つこともできず、身体を横たえているだけで隣の人に手が触れる。
朝御飯は、ナシゴレン、ミーゴレン(インスタント)、煮干し?にテンペ(大豆を発酵させたもの、ぽろぽろした納豆を板状に固めたようなもの)と唐辛子、それに塩味を加えた、文字どおり塩辛い調味料(あるいはおかず)、それと薄焼き卵。
「ジャングルを案内しよう」という誘いに喜んで応じ、期せずして僕は2度目のジャングルトレッキングに挑むことになった。前回より装備は貧弱で、足元はビーチサンダルである。
一緒に歩くのは、ウダァーとアディの兄弟、それにその友人の二人。
村の周囲にはタバコの畑、棚田、あるいはコーヒーやキャッサバなども植えられている。キャッサバの根本は豚に掘り起こされた跡があり、ウダァーが幹に付いた泥から「これはかなり大きい豚だ」と教えてくれる。
一軒の薄暗い小屋で、大鍋で何かを煮込んでいる男の人がいた。砂糖を作っているのだそうだ。灰汁が浮かんだように見える鍋からカップに一杯すくって、「飲んでごらん」と。さっぱりとした甘みではあるが、しかし温かい砂糖水を飲み干すのは僕にはつらかった。
ブキッラワンの時よりも、鳥の鳴き声が数多く耳に入る。しばしば、彼らが鳴き真似をする。おそらく目をつぶって聞いたら、僕には本物との違いを言い当てることはできないだろう。
次第に道なき道へ。棒や手足を使い、彼らが草木を避けて歩きやすくしてくれる。ずっと上方まで、あふれんばかりの緑が支配しているが、ふと足元をみやると、枯れ葉が堆積している。とても端的な形ではあるが、生命の循環を垣間見た。
たまに猟銃の弾丸が入っていた空箱が落ちていた。
「豚なんかをしとめるんだ」「でも、ムスリムは豚を食べないんだろ?」
「害獣駆除だよ。村に下りてきて、米を荒らしていくからね。それに人を襲うこともある。殺した後は、犬が食べるんだ」
「この葉はかぶれるから、触らないように注意しなよ。こっちのは大丈夫だけど」
そう言ってはくれるものの、僕の目にはその葉はどうしても同じにしか見えない。
直径が1メートルもあろうかという倒木を乗り越えると、何だか「探険」という言葉がぴったりくるようで心が弾む。
ジャングルと聞いて思い浮かぶイメージの一つに、ツルにぶら下がって木から木へと渡る、というものがある。実際にはそこまでではないにしろ、かなりそれに近い体験をさせてもらった。ちょうど手でしっかりと握れる程の太さのツル(あるいは枝なのか?)を彼らがするすると上っていく。僕も、と思うもののそれは固定されているわけではないから、ゆらゆらと揺れるし、それに非力だから思うようにはいかない。加えて、そのツルにびっしりと生えた苔が、まるで雪のようにはらはらと舞い落ちるからあまり顔を上げられない。そんな僕を見かねて、ぐいと引っ張ってくれた。ものすごい力だった。
全身はすでに汗にまみれ、そして苔もあちらこちらにくっついている。それでも得も言われぬほどの壮快感があった。
「それ、どうしたの」と言われて見ると、右足のくるぶしの下に血が一筋流れていた。痛みはなかった。準備のいいことに、赤チンを用意していた彼らは、木切れで血を拭いて、紅ショウガのような派手派手しい色をした中国製の薬を塗り、落ち葉で傷口の周りに広げた。傷口は三相交流のプラグのようだった。先ほど、ちょっとした水場を通過した時にヒルにでもかまれたのだろう。
なんとかなる、としか思わなかった。自分で、成長したもんだなと感じる。去年のヴェトナムでは、お酒の回し飲みにすら腰が引けていたのに(もちろん、飲んだけど)。
「静かに! ほら、あそこに大きな鳥が」と指さす先のわずかな空には、数羽が飛んでいた。そして距離感が不確かだからその大きさははっきりとはしないが、バッサバッサという音が確かに聞こえてきた。こんな音を実際に耳にしたのは、初めてのことだ。
9時前に出発して、すでに正午をまわっている。ずっと歩き続けた僕は、多少疲れを感じ始めた。
後から示されて分かったが、ずいぶん山奥まで行ったものだと思っていたのに実際のところは、村の裏山というくらいの山の麓を半周ほどしたに過ぎなかった。
再び人の手の入った畑や、人家が見えてくるとほっとしたものの、同時に森の中では忘れていた蒸し暑さに襲われた。
バナナの葉に包まれたご飯を、わずかなおかずとゆで卵で腹におさめる。もちろん、その好意には感謝すべきだし、実際にお礼も述べた。けれど、どうしてもそれはおかず食いの僕には、腹を膨らす以上の意味を見出すことは困難だった。
僕はてっきり、これから家に戻るのだと思っていたら、まだ続きがあった。
山の中ではなかったのが、多少の救いではあった。僕らが主に歩いたのは棚田のあぜ道だった。足の幅くらいしかなく、バランスをくずすと両端とも水田である。拾った枝を杖にして注意深く歩く。
水牛に鋤きを引かせて、全身泥だらけで働いている老人がいた。当然のごとく彼らの知り合いらしく、どうも僕のことを軽く紹介しているような様子だった。
と、「このじいさんは、日本語知ってるんだって」と言われた。彼は泥の指に挟んだタバコを本当にうまそうに吸いながら、日本語を口にした。
「バゲロー」
とても、明るく、その言葉は発せられた。しかし、僕はそれがどんな言葉であるのか、しばし理解しかねた。彼がくり返し言う。「バゲロー、バゲロー」
そしてウダァーも聞いてくる。「どんな意味なの?」
そうだ、おそらく、いや間違いなくそれは「馬鹿野郎」であった。なぜ彼がその言葉だけを唯一記憶にとどめていたかは、それほど想像に難くない。
こういう状況が起こり得るだろうことを、知識としては持っていたはずだ。しかしこうやって眼前に示されると、切ない。
繰り返し意味を問われた僕は、苦し紛れにこう言うしかなかった。「怒るときに使う言葉だけど、いい言葉じゃあない」
「これ、食べてごらん」と小指の先ほどの大きさの、黒く丸い実を勧められた。シドマン、という果物だった。キウイのを少しさっぱりさせたような味がした。小さな種が口の中でプツプツと弾ける。
そこからもまた歩いた。ようやく家に戻ったと思ったら、彼らは親切に言ってくれる。「汗をかいたからマンディ(水浴)しよう」
そいつはありがたいと思ったのも束の間、なんとそこまで片道30分の道のりだと言う。僕は自分が疲れていること、そして彼らほどの体力なんてないことを説明して、なんとか二人だけで行ってもらうことにした。もちろん、それは感謝して受けるべき言葉ではあるはずだ。
しかし、実際そのときの僕は疲労困憊していた。その笑顔が、なんだか毒々しいものに見え、言い様のない怒りがこみ上げる。言葉にならない、決してしてはならないものが荒々しく胸の中を通過した後、僕はそんな感情を抱いた自身に身震いした。それと同時に人間として最低の感情が「いけないもの」であるという知識は、空腹や疲労といった極めて物理的に(そして根元的な)痛みの前には、大した力を持ち得ないことを知った。
見送った後、庭にあったホースを拝借して、タオルを濡らして体を拭いた。何のためかは知らないが、そこのおじいさんが穴を掘っていた。僕を認めると、「おいっちにー、おいっちにー」とかけ声を上げながら。
彼らが戻ってきてから、家族で写真を撮った。世話になった礼を言い、「さようなら」の言葉だけは必死に覚えた彼らの言葉で伝えた。
バス停へ向かう道すがら、一軒の家の前にいた少女は僕を大いに驚かせた。知っている人に瓜二つの表情。顔立ちだけではなく、「どうかしたの?」とこちらをのぞき込むような瞳までが見覚えのあるものだった。日本でこの少女に出会ったなら「あれ、久しぶり。ちょっと日に焼けてるけど、どっか行ったの?」と何の疑問もなく話しかけていただろう。
写真を撮ればよかったと、通り過ぎた後に思ったが、撮らなくてよかったのだと今でも信じている。
市内に戻り、彼らがそれぞれの家の近くで降りた。
ヤニ通りの宿に戻ると、昨日の昼間おしゃべりをしたリムがフロントにいた。
「ただいま」と元気に言って、「部屋は?」と尋ねる。
「悪いけど、今日はいっぱいなんだよ。トリプルだったら開いてるんだけど」
「え、だって昨日ここを出るときにとっておいてくれるって……」
確かに、彼にではないが、フロントにいた人にそう伝えて了解をとったはずだ。
「お金は払った?」
いや、そんな話しは出なかった。
今までがすごく楽しかっただけに思わず僕はこの展開に苛立ち「そうか、インドネシア人は約束を守らないんだな」とみっともないセリフを吐いて、再び表に出た。
自分がとても情けなかった。けれど、ちゃんと約束をしていたはずだから、この怒りもある程度は正当性があると思う。そうは言っても、ここは高級ホテルではないのだ。サーヴィスよりもその安さをウリにしているし、こちらとしても安ければ大抵のことは目をつぶらなくてはいけない。
それはそれとしても、「思わず」口にしてしまったセリフの方が問題だ。そこに気付いた自分にも腹が立つ。
とりあえず目に付いた所でさっさと部屋を確保して、腹立たしさは収まらないまま、パサールアタスまで歩いて、あのうまいミーアヤムをすすった。もちろんエスポカも。
「あー、うまい」と声に出し、食べ終わると「よし、元気になったぞ」と自分に言い聞かせる。自分で自分をコントロールするしかないのだ。嫌な気持ちになった時も、そして例えば体調をくずした時だって。
明日の昼にジャカルタへ向けて出発する。バスで30時間以上。そのために僕は本を手に入れておきたかった。
交換を持ちかけようと、ヤニ通り沿いのレストランを物色してみたが、日本人らしき人は見あたらない。しばらく歩道に腰掛けて、道行く旅行者の姿を目で追っていたが残念ながらいない。
仕方ない、諦めて寝るか。そう思って宿に戻ったら、そこに一人いた。
「ちょっと、近くの店でお茶飲んでる途中なんで、よかったら一緒に」
こう誘われて、旅行者で賑わう店へ。
安宿街にはこれまたよくあるタイプの店だ。客のほとんどは欧米系の旅行者で、そこで朝からコーヒーを飲みパンをかじり、夜にはステーキを食べる。コカコーラやハンバーガーだってもちろんある。比較の問題だが、僕が持っている価値観でに基づくと安価ではない。こういう店を嫌悪しているというほどではないにしろ、僕はあまり利用することがない。
僕が旅に求めているものとは違う気がするからだ。
そこの風景と、そしてかつて日本領だったことがあるインドネシアということを考えて、「こういう植民地的な店は、僕はあんまり来ないんですけどね」と軽い冗談を放った。
彼、アサノウさんは北海道在住で雑誌の編集の仕事をやめて旅に出たのだそうだ。僕より、ちょうど10才上だ。インドネシアに入ってかれこれ1ヶ月。ガイドブックの類は一切持っていなかったので、「見せてもらえないかな」と言われた。
僕は、ビンタンを頼んだ。
どこに行ってきたのか、どこがよかったかなどの普遍的な話題から、どうしたわけか彼と論争を始めていた。
きっかけは彼の持ち出した疑問だった。「さっき、植民地的って言ったでしょ。どういう意味?」
僕は自分の意図を説明した。それが冗談としてもそれほど高級なものではないことは自分でも分かる。ただ、僕の判断ではそれはギリギリのところでセンスのいい側に区別することのできるものだった。もう一歩進むと、それは悪趣味と呼ばれる範疇に入る。
「なんで日本人は、すべからく貧乏旅行たるべしって思っちゃうのかな。なんだか求道的でしょ」
この問は僕を激しく打ちのめした。
何事かに熱中しながらも、どこかに客観的にその自分を見つめていられる視点を確保しておくことの大切さ、それを失った人間の滑稽さ。これはここ数年で学んだものの内、最も根底で僕の態度を律しているもののはずだった。
それまでの僕の旅に対する態度は「バックパック旅行は、大勢ではない」という認識から発していた。もちろんそれはすぐに貧乏旅行につながるというものでもない。お金を極力使わないようにすることは、金を無闇にばらまくそれと対極に見えながら、実の所は同一の線上の両端に位置するだけで、結局は同次元の行動だというところまでの認識はあった。
けれど、その程度でしかなかった。バックパッカーだって、結構いるじゃないかという見方もあるのだ。それはそれでいいのだが、その先にある「すべからく金は使わず、屋台で食べて、安宿に泊まって……」という論理に陥ってしまうと、これはちょっと問題ありだ。
結局、自分もそんな程度だったのか、ということに気付かされた。
それともう一つ彼に教えられたことは、同じようにバックパックを背負っていても欧米人の旅の目的はリゾートとか、バカンスなどと呼べるものだから、種類が異なるのだということ。これで、僕がバンコクから乗ったツーリストバスで抱いた嫌悪感が、きわめて自己中心的な見方に基づいた偏見であったかを知った。
けれど、もちろん僕の今までのスタイルで旅を続けてきて楽しかったことも事実である。衝撃を受けたからって、「よし、それじゃあ彼の言うようにレストランにも入って、中級程度のホテルにも泊まってみよう」とひょいと態度を変えてしまうほど僕は自分に自信がないわけではない。
「客観的な視点を確保して、行動を常にチェックする」という信条を再確認できたことに意味がある。
話し合った中身と同様に、こうやって考え方をぶつけ合うことそのものに対する彼の態度も僕には新鮮だった。
「日本人て、リベラルになったよね。あれやこれやと言っても、結局はそれはお互いに感性が違うから仕方ないよね、で終わっちゃうでしょ。納得いかなければ、相手の考え方を変えさせるまでトコトン話してもいいんじゃないかな」
どちらかと言うと、これはしかるべき態度であると考えていた。全ての人に対して、ではないにしろ。
「もちろん、そういうレヴェルまで話し合う相手だっています。けど、僕は世の中の9割5分の人間はアホだと思ってる。それの見極めができないのに、そんなところまで話す気はないんです」
「うーん、それは何て言うのかな、君の……」
「僕はそれが、傲慢とか驕慢と呼ばれるものだということを知っています」
実際、僕はこう言ってしまうこと自体がそれこそ傲慢であるとの認識を持っている。けれど、だからどうしろと言うのだ。
僕は友達を選ぶ方だ。かなり狭いフィルターによって。そしてその友達と呼ぶことのできる連中には、幸いにも僕は彼らの友達として認められていると、僕は思っている。軽い日常会話を交わすだけの相手は、必要としていないからだ。
それなりに試行錯誤して、今はそこに立っている。けれど今までの経緯を振り返ってみても、その時点で正しかったことがずっと正しいということはあまりない。むしろ、自分の価値観はいい意味で裏切られ、その度に僕は傷ついたり、おそらくは人を傷つけたりしながら考え込み、そしてまた新たな自分を形成してきたつもりだ。だから、僕が認めた相手としか突っ込んだ話しはしないという考え方だって、いつかは崩れるかも知れないことを予感として知っている。けれど、まだ実感と呼ぶにはほど遠い。
立ち止まっている余裕なんてない。「これかな?」と思った方向に進むしかないのだ。その過程で、僕は失敗をし、時には成功をし、僕が僕であることを深めてゆければよい。
旅の魅力の一つ、それは自分について考える時間があることだ。ただし、そう望むからではなく、暇で暇で仕方がないことが比較的多いからだ。本も読んだ、日記も書いた、ビールも飲んだという一通りのことをやってしまった後に、最終的な手段として自省することで時間を過ごす。
そして、旅にあると、このアサノウさんの言葉のように、何かしら自分の価値観に触れる存在に出会うことができるという理由による。
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