午後3時の夕焼け空

 朝食をとるよりも、まずは帰りの便の航空券を探しに出かけた。
 今回の旅では、帰国予定を8月の終わり頃としていた。前期の最後の講義の日に試験が行われる「農業発展論」という科目を履修していたのだが、その日にはもう上海だからと教官にお願いしてレポートに代えてもらった。そいつの締め切りが8月末日だったのだ。
 大抵のレポート試験は9月末が期限なのに、なぜ……。僕はもっと旅行をしたかった。しかし、「その頃、私はヨーロッパに出てしまっているので」という教官の言葉に従うよりなかった。
 まめに出席していた科目だけに、単位を落とすのは少々もったいなかった。それさえ目をつぶれば2カ月は確保できたのだが、大学生活に5年でピリオドを打ちたい僕としては、一本のレポートを書くためだけにでも8月の内に帰国するべきであった。正確に言うと、そのために一冊の本を読む時間も必要だったのだが。
 さすがに安宿街だけあって、格安の航空券を売る旅行代理店もいくつか並んでいた。少しでも安いものをと、7、8軒で探してまわった。できればデンパサール発関空行きというのがほしかった。それ以外の候補としては、ジャカルタ発あるいは成田着でも構わなかった。ジャカルタ発なら、バリからバスで戻るか、あるいはバリは諦めてジャワ島をもっとめぐってもいい。東京に着くのなら、高校の時の友達にも会えるし、横浜の妹の家に転がり込むことも可能だった。
 出てきたものは、航空会社もガルーダ、大韓、日航、コンチネンタルミクロネシア、ユナイテッドなど様々で、値段も100ドル以上の開きがあった。
 しかし、ブキティンギで聞いた「ガルーダの学割を使えば388ドル」というのが最も安価なものだった。一軒で、その制度を利用できないだろうかと聞いてみたところ、当然ではあるが国際学生証が必要で、さらにガルーダの正規のオフィスでしか発券できないということだった。
 こんなことだったら、カオサンで100バーツの学生証を作っておけばよかった。「この街で国際学生証って、手に入らないかな」と期待をまったくかけずに、それでも尋ねたところ、思いもかけない返事が返ってきた。「この近くの事務所で手続きできる」というものだった。けれどもちろん「あなたの大学が発行している学生証が必要だけど」
 持っているわけはない。
 結局、400ドルでデンパサールから関空へ飛ぶコンチネンタルミクロネシア航空の切符をとることにした。グアムを経由して、午前中には関空だ。
 最初、値段を聞いた時には410ドルだったのだが、いったん他を当たってから戻ってくるとなぜか400ドルだった。もちろんここで「あれ、さっきは410だったのに?」などという失言はしない。
 人によるだろうが、僕は航空券程度の大きな買い物にはクレジットカードを使うことにしている。一つにはそれほどの大金を払ってしまうと旅が続けられないからで、もう一つには少しでも現金を持ち歩かないという安全面からの理由だ。
 「クレジットカードだと、4パーセントのチャージがつくから、銀行でドルをキャッシングした方がいいですよ」と言われた。しかもその店だと、ドル対ルピアのレートが高めに設定されていたので、多少手間をかけてでも、確かに店の人の言うとおりにした方がいいような気がした。
 けれどもキャッシングと言っても、直接にドルが出てくるのではなく、名目上はルピアをキャッシングしてそれでドルを購入するという手続きが必要だった。そこで、もちろん多少の損失も出る。何より、キャッシングの金利もある。
 つまるところ、経済に明るい人たちがあれこれと考えてうまい手段を作り出しているのだ。外国にあって、サインとパスポート、それにカード一枚でドルの札束を手に入れることができる便利さを享受しているのだから、文句も言えない。僕はただ感心した。
 しかし、キャッシングとは言え借金であることに変わりはないので、残りの日程も考えて100ドル分だけトラヴェラーズチェックで支払った。
 昼には発券できると言われたので、うまくいけば今日の内にジャカルタを発つことができるかもしれない。
 朝食には、ガドガド(ゆでた野菜にピーナッツソースをかけたもの)にご飯を混ぜたものを食べた。屋台のオヤジに「ブラパ?(いくら)」とやったら、やけに喜ばれた。
 「そうか、そうか。あんたはインドネシア語が分かるのか」「ちょっとだけだけどね……」と、ここら辺はすでに英語である辺りが僕もいい加減だ。言葉と言えども、値段を聞いてその数字を理解するという程度までできるようになっていただけなのだ。それでも、英語と日本語と身振りだけよりも相手の国の言葉を知っていると、もちろん便利でもあるし、それ以上に楽しい。
 とりあえず宿はチェックアウトして、荷物を預けて駅へ向かった。昨日の夜ずっと歩いてきた道の逆をたどるだけだ。ガンビル駅のインフォメーションはとても丁寧に発券システムについて教えてくれた。
 「前売りは翌日以降の切符だけです。20時40分のジョグジャカルタ行きの当日分は、3時にカウンターが開きます。けれど、混雑するから2時には列に並んでおいた方がいいでしょう」
 彼のアドヴァイスに従うにしろまだ昼前だから、とりあえず近くにある東南アジア最大のモスクであるイスティクラル大寺院へ行ってみることにした。
 もちろん短パンがよろしくないことは知っていたが、まあ観光名所なのだからサロン(巻きスカート)くらいは借りられるだろうという安直な目論見は当たった。
 にこやかな係員に案内(ひょっとしたら監視)された。壮麗、と言うべきか。彼はそのモスクについての色々な情報を教えてくれた。ただし最初にまず聞かれた「英語、できる?」と。やれやれ、それほどまでに日本人観光客は英会話が不得手なのか。この手の問いは、彼に限らず多くの人から発せられた。
 「モスクのドーム部分の直径は45メートルで、これは1945年の独立年を表している。月と星のシンボルマークは、ドームの上8メートルの所に設置されていて、ドーム自体の高さは17メートル。これは8月17日を示す。もちろん、独立記念日だ。ミナレットの先端までは6666センチで、これはコーランにちなんでいる」
 ドームの中は薄暗いがらんどうだ。今日は金曜ではないから、人の姿はあまりない。脇には五層の階があり、それは一日に祈る回数を示しているそうだ。正面の壁に巨大なアラビア文字が書き付けられていて、僕はそれについて質問した。
 「左端のは、モハメッドのプロフィール。真ん中には、モハメッドがアラーの使者であると書かれている。右はアラーという字だ」
 「あの正面はメッカに向いているんだよね」「もちろん」
 当然と言えば当然だが、最後には喜捨を要求された。こういう時にはそれこそ喜んで払う。漫然と見物しただけでは到底得ることのできない情報を語ってくれたことに対する僕なりの感謝だ。 確固たる宗教を持たない僕にとって、それが「喜捨」かどうかは怪しいものだが。
 お金を求められたらどうするかという原則はインドで身に付けた。僕が相手の行動によって何事かを得られたと感じた時、僕はお金を渡す。ただし、基本的な原則であって「ねばならぬ」というようなものでもない。
 バクシーシを求めて近づくその全ての手(手がない、使えない物乞いもいたが)に金銭を渡すことは事実上不可能だ。だから始めの内は「絶対に渡すものか」と意固地になっていた。それは楽な選択でもあった。
 けれど、ある時列車に乗っていて、床にたまったゴミをほうきで掃き出す子どもが何も言わず手を差し出した時、前の座席に座っていたインド人がいくつかの硬貨を手渡したのを見た。僕自身、確かに身の回りがさっぱりして気持ちよいと思っただけに、それを表明しなくてはなんだかおさまりが悪かった。そしてそのやり方というものを目の前で示された僕は、心の中の塊が一つ崩れて気楽になった。やがてその次に同じように列車の移動中に掃除少年がやって来た時、数ルピーを彼の手に渡した。
 旅における経験値の蓄積とレヴェルアップ(としか表現のしようがない)は、「いい加減になる。気楽になる」ということだった。それまでは気付かなかった、身にまとっていた鎖を断ち切った時の快感、これを得られるのも旅の魅力の一つかもしれない。
 物乞いにお金を出すだけで何を御託を並べて、という批判はあるだろう。僕にとっての問題は、物乞い対僕という構図における僕の位置や、あるいはそれを客観視したらどうか、という次元にあるのではなく、あくまでもっと個人的なところに存在する。
 さて、モスクの後郵便局でハガキを数枚投函するといい時間になっていた。バジャイ(小型の三輪タクシー)を拾って3台目で値段が折り合ったので駅へ。
 カウンターはまだ開いていないが、それでもすでに30人ほどの列ができている。そう頻繁に列車が走っているわけではないので、それぞれの列車によって窓口が分けられている。行き先や時間、それに等級などが示されているので便利だ。インドネシア語の表記はアルファベットだから分かりやすい。
 残り何席という表示がデジタルで示され、その数がどんどん減ってはいくものの、ともかく僕は希望通りの切符を手に入れることができた。
 学割の制度がある、と歩き方にあったので国際学生証は持っていないけどとりあえずは「ジョグジャまでエコノミークラスで学生一枚」と言ってみる。「そんなシステムはないよ」というのが返事だった。
 独立記念塔であるモナスという名の塔の上部には、35キロの純金を使って燃え立つ炎がデザインされている。それを眺めながらぶらりと中心部へ向かった。
 片側5車線あるタムリン通りは、排気ガスが凄惨だった。そしてその車を縫うようにひょいひょいと渡って歩く新聞売りの少年の姿が目に付いた。そんな道端の屋台で買ったマンゴーは甘かった。
 まだ3時だと言うのに太陽は夕陽のようにオレンジ色に霞んでいる。太陽光が赤く見えるのは空気中に舞った塵によるのだから、別段夕方に限ったわけでもないのだが、僕の目には奇異な空だった。
 サリナデパートでは2つの階を使って、インドネシアみやげがずらりと並べられていた。かなりちゃんとしたデパートだった。見るだけでも十分に価値がある。下手な博物館なんかよりよっぽど目の保養になった。
 ゴールデントゥルーリーというジャカルタっ子御用達のスーパーで水を2本と、洗濯用にブラシを買った。本当はマンゴスチンもほしかったのだけど、キロで4000ルピアもした。ブキティンギの倍以上の値段だ。仕方なく、トマトをいくつか買った。
 荷物も朝からずっとただで預かってくれたし、それにシャワーも再び使わせてくれた。なかなかいい宿だ。フロントのすぐ奥にシャワーがあり、20才くらいの宿の女性がマンディを終えてバスタオルを体に巻いただけの姿でドアを開けた時には驚いた。しかも彼女の口は歯ブラシを加えており、口の周りには歯磨き粉の白い泡がくっついていた。多少ドキドキして、多少うれしかったけど、何となくお互いに微笑んだだけで彼女はまたドアを閉めてしまった。
 夕食は魚介類の絵があれこれと描かれた、半分屋台、半分店のようなところでとった。僕が頼んだのは、ナマズの姿揚げ。絵を示して「これちょうだい」と言ったら出てきたのだ。20センチばかりの大きさで、内蔵は除かれているが文字どおり姿揚げだった。周りはパリパリ、白身はほっこりとしていて火の通し具合がちょうど良かった。もちろん、熱々のところを手で実をむしってはご飯と一緒に口に運ぶ。
 店の人ととりとめもなく話しをしたが、そのナマズの料理の名が「ペセル・レレ」だと教えられたので、覚えておこうとメモをとった。
 時間がまだあったので、手近な店でビンタンゴールドなるものを引っかけた。普通のビンタンとの味の違いはよく分からないが、今まで飲んだビールの中では一番冷えていたのがうれしかった。
 文字を追うには少々暗いが、そこで今日古本屋で仕入れたばかりの沢木の「王の闇」をぱらぱらとめくった。店の書棚を眺めていて思ったのだが、旅人(主に日本人男性)の隠れたベストセラーはフランス書院のシリーズかもしれない。安宿街にある古本屋の日本書の棚には、旅本や小説などに混じって、必ずと言っていいほど何冊か(時として何冊も)並んでいる。


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