静かな寺院

 第二次世界大戦の果てた日。
 宿の主人の「朝食をつけよう」という言葉の意味したものは、トマトとチーズを挟んだホットサンドイッチとグラスになみなみと注がれた紅茶であった。
 ここから直接ボロブドゥールへ行くバスはないので、ひとまずジョグジャに戻る必要があると聞いた。ソロ通りを通る大きなバスに手を挙げて乗り込んだ。ジョグジャの南にあるバスターミナルに着いた。
 行き先別にミニバスが並んでいて便利だ。ボロブドゥール行きのバスの一番後ろの席に陣取った。荷物を後ろの隙間に置けるし、物取りなどがあったとしても横だけ注意しておけばよいからだ。出発を待っていると、水やジュースの物売りに混じって、どうもエロ本らしきものを新聞紙の陰に隠すように見せるやつがいる。彼としては僕の注意をひいて売りたいのだろうが、表紙を見ただけでげんなりするような色褪せたイラストが描かれた小冊子だった。やはりイスラムのお国柄だろうか。
 宿をで「ジョグジャからボロブドゥールまでは1000ルピア」と聞いていたので、お札を一枚渡すと「1500だ」と車掌に告げられた。「え?」と疑うと、「公共バスだったら1000だ」と言われた。
 そこであと500渡したら、今度は「2500だよ」と言ってくる。「ほんまに?」とか言ってたら、なんだか車掌は離れて行ってしまった。
 車内の様子を見ていると、どうも皆さん近距離の移動にミニバスを利用していて、それぞれ数百ルピアづつ距離に応じて支払っているようだった。
 こういう情報は非対称的だからよくイマイチつかめない。地元の人はもちろん誰しも料金体系を知った上で使っているから誰も気に留めないのだろうか。まあ、いいや。
 ジョグジャのターミナルに着くと、さっそく名刺のような宿の紹介のカードを持った客引きが来る。
 「ロータスゲストハウス」「1万。朝食、お茶付き。ベチャで送るよ」
 1万はちょっと高いし、それに朝食もいらない。とりあえずターミナル横の道を歩くといくつかロスメンがあるらしいので、歩き始めた。ロータスゲストハウスの人はかなりしつこくて、「そっちの宿は遠い」などとさかんに気を引こうとする。けれどそれはこっちの問題だよ。
 適当に左右を見回しながら歩くと、それほどの距離を行くまでもなくT字路に突き当たった。そこの角にボロブドゥールロスメンという宿を見つけた。シングルで7500。悪くない。部屋も、建物の造りも安宿っぽいせせこましさがなくてよい。ロビーの部分は吹き抜けになっていて、そこの家族の居間と共有されているようだった。
 メインディッシュのボロブドゥール遺跡は明日丸一日使うことにして、今日のところはムンドゥッ寺院まで出かけようと思った。3キロほどなら歩けるだろうと踏んだが、真昼で暑いので結局ターミナルからミニバスに乗った。大きな荷物のおばちゃんが数人と、制服姿の女子高生が乗っていた。
 「ムンドゥッ」と言って降ろされたそこには、遺跡のようなものは視界に入らない。うろうろしていると、「ボロブドゥール12キロ」という標識に出くわした。おいおい。
 逆方向に走るミニバスの助手席に乗り込んだ。直角に白煙をなびかせる火山が、ヤシの森の彼方に見えた。空間には光の粒がぎゅっと詰まっていた。
 「ここで曲がるから降りてくれ。遺跡は1キロ先だよ」ということを運転手のジェスチャーやら、なんとか英語のできる人やらを交えて理解した。

スハルノのインドネシア
 降りたそこには、笑える壁画があった。スハルノが、「さあ、明るい未来を目指して」とでも言わんばかりに彼方を指さし、国民が一様にその方向を見ている。先頭は軍人で、遠近法のためその後に段々小さくなりながら農民や学者が続いている。
 あー、いいな、ムンドゥッ。どしっとした造りだけどつつましやかだ。枝から蔓を幾本も垂らし、自身もその蔓が密集して一本になったような大樹の下のベンチに腰掛けて絵はがきをしたためる。ボロブドゥール寺院の絵はがきだ。青暗い早朝の光の中、逆光になったストゥーパが黒々と浮かんでいるものと、山火事のようなオレンジ色の夕陽の中同じ真っ黒に立つストゥーパの写真との2枚。
ムンドゥッ遺跡
 人もほとんど来ないし、風が木々を静かに揺らして吹いていく。入り口付近にしつこい物売りはいたけれど。
 基壇を上がって壁面の彫刻をぐるりと眺めていたら、裏手に二人の女子高生が寝転がっていた。一人がこちらに気付いて「ちょっと、ちょっと」というような仕草でもう一人を起こす。彼女は飛び起きてスカートの裾をぴっぴっと引っ張った。
 次にパオンという遺跡を目指す。ベチャでもいいなと思ったので、一台だけそこにいた丸っこい親父に声をかけたら「悪いな。人待ちなんだ。中にいるんだ」と。
 てくてく歩いていたら、ちょうどプロゴ川にかかる橋の手前で「ハロー」と先ほどの親父がベチャをこいで僕を追い抜いていった。思わず片手を挙げてにっこりとした。
 何かのつっかえが取れた。にっこりと微笑みたい時、挨拶を返したい時、咄嗟にはできなかったことが何度かあった。それだけに、一つのことを完遂できた気がする。
 パオン遺跡はさらに小さかった。
 宿に戻る道すがら、缶ビールを一本飲んだ。顔をゆがめるほどに「くはーっ」
 まだ日のある内にマンディをして、久々に短パンも洗濯すると水が真っ黒になって驚かされた。
 夕方、辺りを散歩。表通りから一本入ると村、と呼ぶにふさわしいような風景だった。背中から夕陽を浴びながら土の道をを歩く。巨神兵のような妙に長い影がゆらゆらと写る。
 青空がきれいな夕陽っていい。金星が輝いていた。


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