ボロブドゥール寺院

 朝靄。驚いたことに吐く息が白く煙るほどの気温の中、午前6時開園のボロブドゥール遺跡へ。券売所の前には合わせて4、50人ほどが待っていた。多くは、バスで来ているツアー客のようだった。
 入場券を手にすると、まずは日の出を見るために方形6層と、その上部円形の3層からなる遺跡の階段をずんずんと上る。

朝のボロブドゥール"
 まるで降り積もった雪のように、ヤシの森にはちょうど木々と同じ高さまで真っ白な霧が立ちこめている。
 彼方の山の頂から、太陽がのぞいた。太陽の高度が上がるにつれ、辺りを囲む山の陰影は陰の部分が狭まってゆく。
 すっかりと姿を表した太陽からは発せられる光が僕の肌を射すと、すぐに熱帯の暑さを思い出した。先ほどまでの寒さが、まるで存在しなかったようにも思える。
 霧も晴れてゆく。
 70基のストゥーパは、宗教や歴史といった重々しいものを暗示する夢の象徴のように見える。そしてそのいずれにも、仏像が安置されている。70体の仏像にぐるり囲まれているかと思うと、これまた不思議だ。今まで知らなかった感動が、潮が気付かぬ間に満ちているように、僕の体をゆっくりと満たす。そして僕はその静寂の感動の中で揺られていた。
 「夕陽のボロブドゥールも見よう」そう思った。
 すっかりと朝が来ると、僕は最下段からじっくりと遺跡の見物を始めた。丘の上に石を組んで造られたこの遺跡は、先端に巨大なストゥーパを抱いている。段を下るにつれ、背丈大のストゥーパの数は増え、順に16、24、30基と設置されている。
ストゥーパ
 X字状に切り取られた石を積み上げてストゥーパは造られているために、ちょうと菱形になった格子からは、中をうかがうことができる。この形は、俗界の人心を表すのだそうだ。さらに上段のそれは正方形であり、安定した賢者の心を表す。さらに最上の大きなストゥーパには窓はなく、無の世界を表す。
 その格子から腕を差し入れて、仏像の右手の薬指に触れると願いが叶うと「歩き方」に書かれていたので、僕もぐっと身を乗り出して薬指を探った。ところが、どこかのガイドは逆に左手だ、と言っていた。
 四面の壁には、各々壁画が彫り込まれていて、ブッダの生涯や古代の物語について語られている。中に、「セーナ村で乳粥供養をするスジャータ」の図があった。ああ、僕は実際にここで語られている土地へ行ったのだ。
 壁はかなりの高さがあるために、閉ざされた廊下を歩いているように錯覚する。途中の段から見上げると、石壁の向こうにわずかに次の階が見えるが、最上段の一つ手前からは空が見えた。
 遺跡というのはそのまま放っておくと、時の流れによって崩壊していく。カンボジアで見たタプローム寺院などは、ガジュマルが遺跡ごとがっしりと根を張っていた。しかしここは全く逆で、しっかりとした補修の手が入っている。
 たまに日本語ガイドの説明を受ける観光客にこっそりと混じったりもしながら、僕は修復中のために立入禁止となっている以外の全ての部分を自分の目で見た。
 日本からのツアーに、バリ島とセットで組み込まれているらしく、久々に多くの日本人の姿を目にした。ストゥーパの周りを陽気に走り回る小さな二人。それを追う母親、さらにそれを追う父親。彼の手にはしっかりとビデオカメラが構えられ、彼は画面をのぞいている。失笑。
 日焼けを避けるためだろうか、下着のようにも見える奇妙な白い長袖を着込んだおばさんはご丁寧にズボンも真っ白。日本であなた、それをかぶって町中を歩けますかと思わず質問したくなるような、UFOのような形の帽子をかぶったおじさん。
 日本人の団体は……と一般化するほどの無邪気さは持ち合わせていないが、少なくともここで見た限りでは、そのほとんどに余裕が欠如しているように思えてならなかった。あるいは、初めから持ち合わせていないだけのことなのかもしれない。ガイドの説明が全てかのように、一様に同じ壁画で立ち止まる。同行の人に「写真を、撮りましょうか」と声をかける親切さも忘れてはいない。そして最上段からの眺めを楽しむと一気に引き返す。確かに、効率という点から考えると、この上なくすばらしい観光の方法だ。
 けれども一つだけ肯定的に評価したい点がある。まあ、それは日本人的視点からの考えなのかもしれないのだが。人がカメラを構えている時に、ちょっと足を止めたりあるいはそれに対して会釈をする。これは団体、個人に関わらず、日本人旅行者がよく行っていた。
 同じ敷地(広大な遺跡公園は、日本の会社も協力して整備された。そして、住んでいた人たちは別の土地へ移り住むこととなった)にある博物館では、保存や修復の方法なども細かく展示されていた。
 そしてここにも日本人団体がいた。どうやら同じツアーの二組の家族のようだった。みんな大きな声で楽しそうに笑っている。博物館の中で。そこの館員に「どうして、こうみんな日本語がうまいんだろうね」と陽気に感心していたお父さん、早くこの世から去って下さい。
 しかし僕の望みとは裏腹に、僕自身がその場を去った。「バリにも行くつもりだ」と語ると、「観光客の観光がおもしろいよ」と教えてくれた人がいたのだが、これ以上嫌な気分になるのはちょっとしんどそうだ。
 中庭では噴水の中に虹が出ていた。数本の柱に支えられた屋根の下にある舞台では、一人の老人がガムランをたたいていた。彼以外の演者の姿はなく、また他の楽器には覆いがされていたので、個人的な練習か何かだろう。しかし、虹の色とガムランの音は、僕の心にあさっりと平安を取り戻してくれた。
 無視したり、嘲ったりする前に、「かわいそうに」という同情の心を持つように自分を訓練しよう。山田詠美の「僕は勉強ができない」を読んだ僕は、そう考えた。
 一段高くなっているガムランの舞台に腰掛けて、ぼんやりとしていた。すると、オーストリアから北上してきて、ちょうど僕とは逆の経路を辿るように旅をして上海まで抜けようという人と出会った。彼と、団体観光客についての意見を静かに交換した。
 「ナシチャンプルーが好きだな。店によって味が違うのがおもしろい」
 今まで僕が口にしたことのないメニューを教えてもらった。僕はエスポカと、ミーアヤムの旨さを語った。
 「同日中なら再入場も可能」ということを聞いて、昼過ぎに一度外に出た。
 目に付いた食堂で、さっそくナシチャンプルーを試す。直訳するなら混ぜご飯とでもなろうが、日本語のそれとは違う。店の前のガラスケースの中に並んでいるおかずをいくつか取って、ご飯の上にのせる。そう、ぶっかけご飯だ。賽の目のタフゴレン(厚揚げ)、鶏煮込み、青菜。これで1500ルピア。
 宿に帰ると、夕方まで昼寝をした。
 そして、再び遺跡へ。早朝の荘厳な雰囲気は跡形もない。何より、人が多すぎる。
 最上部の一番大きなストゥーパに腰をかけて、西を眺めやる。昨日の夕陽よりは劣る。少々、雲が多かった。日没も雲に隠されてはっきりと見えなかった。しかし、太陽を抱いた雲の縁が輝く様は美しかった。
 日が落ちた。遠くの山並みはすでに黒い影としてしか目に映らない。空の色を表す言葉を探している内に、刻々と夜が全てを満たしていった。それは黒くなってゆくと言うより、青が次第に濃さを増していくような、そんな変化の仕方だった。
 ピピピピとこの場にそぐわぬような鋭い笛の音が耳に飛び込んできた。トランシーバーを持った警備員が、人を誘導していく。閉館の時刻だった。去るのが惜しい気がして、結局僕は最後の一人になって階段を下りていった。
 一日の3分の1を遺跡のそばで過ごした。


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