たゆたうガムラン

 マンクヌガラン王宮に入る時は「東側の門から入るといい」と「歩き方」にある。
 なるほどその通りだ。東門からだと、一瞬民家に迷い込んだような感じがするが、そのまままっすぐ歩けばすぐに王宮に入れる。料金所を通過することなく。
 屋根の下、と言っても壁はなく、大理石の舞台と柱と屋根だけで構成されている空間の中で、ガムランと舞踊の稽古が行われていた。影の下にいると、とても涼しい。
 ガムランと睡眠は似たような性質を持っている。はじめは覚めていても、気づくといつの間にか引きずり込まれ、そしてガムランであるということは例え認識できたとしても、絶え間なくやってくる空気の震えは僕を捕らえて離すことはない。夢の中で意識的に行動できないのと同じもどかしさと、快楽。
 楽器を担当するのは中年以上の男性たちで、歌声は黒柳徹子のように髪を結わえたこれまた中年以上の女性。彼らの手は、太古の海の記憶を呼び覚ます。彼女らの口は、暖かな海水に体をゆだねるよう囁きながらも、それらが絶対に手の届かないものだという宿命的な哀しみをも奏でる。
 音楽がこれほどに良いものだと、生まれて初めて知った。
 Tシャツ(その内の2人は神戸祭りのシャツだった)を着た4人の若い女性は、常に中腰で、体はしなやかなS字曲線を描く。細い体に巻かれたサロンはちょうどくるぶしの辺りまである。腰には黒い帯を巻き付け、そこから垂らされた細い布を手首で操る。4人の体は、遥か天空から目に見えない細い糸で操られているように同一の舞いを舞った。
 彼女たちは、とても美しかった。

踊りの練習
 ひとつの踊りが終わると、師匠が直接に「このように踊るのだよ」と教えていた。
 練習風景だけど、すばらしかった。
 バスターミナルまでベチャで出て、「あっちだ」「こっちだ」とスムーズに乗るべきバスを教えてもらい、サンギランへ向かう。ソロから18キロ北に離れたこの土地では、1936年にジャワ原人の頭骨が発掘されている。ジャカルタの国立博物館にはレプリカが置かれているだけで、本物はそこにしかない。
 暑さの中、高校生がどかっと乗ってきて、一挙に混雑する。うつらうつらとしていたら、「サンギラン!」と車掌が声をかけてくれた。
 がらんとしたT字路に「右へ4キロ」という標識があった。近くの数人が「モーターバイク?」と言うが、歩いていくから構わない。歩きながら何度かミニバスに追い抜かれたが、どの車も高校生たちでいっぱいだった。人のかたまりにタイヤが付いて走っているようなほど。
 快晴の空の下、夏休みの午後の運動場のように乾いた道を歩き続ける。まれに民家が立つ他は、畑や草むらしかない。たまに道ばたからカサカサという音が聞こえてくるが、ニワトリか大きなトカゲだ。
 するとまた標識があったので、それに従って右折する。バス停から45分、炎天下をのんびりと歩いた。
 博物館のケースの中には、マンモスの骨やワニの頭骨のようなものが展示されていて、ピテカントロプスアフリカヌスなんかもなぜだか陳列されていた。
ジャワ原人の頭骨
 英語の説明がないため、いったいどれがジャワ原人なのだろうとしばし首をひねったが、ソロの観光案内所でもらったパンフレットの写真と見比べて、これであろうと推察した。しかし、そのパンフレットには「世界的に名高い」ジャワ原人などと記述されており、このサンギランの地もおすすめスポットにまでなっていたのだから、せめて最低限の英語表記はほしいところだ。入り口で名前などを記帳させたオヤジもほとんど英語はだめだった。
 あわよくば僕も世界的な発見をと、辺りの土地をうかがってみたが、僕が見つけ得た化石は、みやげ物屋の棚に並ぶものだけだった。店番をしているおばちゃん達はどこかで休んでいて、たまに僕のような観光客がやってくると、走ってきては「これはどうだ」と商品を見せる。とは言え、いくつかの化石やきれいな石がごろごろと板の上に並んでいるだけで、別段ほしいと思うものはなかった。
 あまりに暑いので、博物館を出てすぐの店の軒先でエス・テ(アイスティー)を一杯。静かで、風が涼しくて、ニワトリが走り回っている。
 バスを下りてからずっと歩いてきた道を、逆に歩く。後ろからエンジン音が聞こえる度に、ミニバスではないかと期待して振り返ったが、それはトラックだったり乗用車だったり。ようやく黄色いミニバスに乗り込むことができたのは、半分ほどの距離を歩いた後だった。
 乗ってすぐに料金を払ったのは間違いであった。500ルピア札を差し出したが、僕としては距離を知っているだけに、今までの感覚からおつりが出るだろうと判断した。しかし、車掌は何も出さない。「500なの?」と乗客のおばさんに問うたが、誰しも笑ってうなずいた。
 それでも走り出して5分ほどして、どうしても納得のいかない僕が「やっぱり、多い。おつりを返してくれ」と言うと、あっけないほどすぐに100ルピア貨が渡された。これなら、やはり本当に彼に支払いすぎたのではないかという思いが強まった。さらに主張すると(根拠らしい根拠はないのだが)、さらに100ルピア硬貨が一枚出てきた。しかし、最初の一枚はともかくとしても、2枚目は僕があまりにしつこかったらそれを追い払う意味で払った、そんな空気があった。
 はじめてのバックパック旅行であった昨夏の東南アジア、二回目となった春のインド・ネパール、そしてこの三度目の旅。いくつかのことを経験し、学びとってきたつもりだ。特に今回は前の二回と比較しても、ある程度止揚された僕があったように思う。
 けれども、それによって確固たるものを築いたのではい。むしろ自分自身が縛られていた枠の存在に気付き、単にそのいくつかを外したに過ぎないような気がする。だから、逆に「分からない」ことが増えていく。
 昨夜と同じようにバスターミナルからかなり歩いてゲストハウスに戻った僕は、水を欲したけれど、ぐっとこらえた。とりあえずはシャワーを浴びて、髪の毛に入り込んだ砂埃をきれいに水で流した。
 そして渇望を水などで癒すことはせず、食堂で「ビールを」と注文した。
 ここで働いている三人姉妹(だと思うが、定かではない)の一人が「サンミゲルしかないけど」と返事をよこしたが、「オーケー。それを一本。それに……」とぱらぱらとメニューを眺めて、「フライドテンペも」と頼む。
 テンペというのは、大豆を発酵させたもので、豆腐にもそして納豆にも似ている。かき餅ほどの大きさで、一見すると豆腐の薄切りのようだが、いくつかの大豆が原型をとどめている。それに塩をぱらりとふると、ビールのつまみとしてなかなかいける。
 相変わらずもう何度目だか忘れた「風の歌を聴け」を三分の二ほど流し読みしつつ、ツーリストインフォメーションでもらったガイドマップを眺めた。もはや「風の歌……」は内容も文章もほとんど頭に入っているし、ソロからの観光はもういいかなという気がしていたのだが、手近にあった活字がそれだったから仕方がない。
 活字中毒、である。ひどい時には自分で書いたばかりの友人連中へのハガキの文面を読み返したりもする。けれど、どれだけ活字に飢えても、旅行保険の約款だけはめくる気にならないのだ。
 先ほどの女性の兄、という人が日本語で話しかけてきた。観光地にありがちな安っぽいものではなく、ある程度しっかりとした学習の結果としてではないと使えない、見事なものだった。
 「京都のどこですか。七条?」
 この質問は、さらに僕を驚かした。カオサンで「I'm living in Hyakumanben!(百万遍)」と言われたのも意外だったが、まさかジャワ島のまんなかでインドネシア人の口から京都の地名を聞くとは思ってもいなかった。
 彼は日本の企業に研修に行き、それ自体は浦和だったのだが(これは、僕が生まれた土地だ!)、滞在中に観光した中に京都も含まれていたのだった。彼が見せてくれたアルバムには何と「河原町三条」のバス停が写っている写真まであった。
 さらに、「日本のCDを持っている」と言う彼がかけてくれたのは、小田和正のアルバムだった。ちょっとした思いつきから「ラブストーリーは突然に、って入ってる?」と尋ねた僕のリクエストにもこたえてくれた。
 特定の曲が特定の記憶に結びついている、というのは誰しも経験があることだと思うが、僕にとっては延々とリピートされる「ラブストーリーは突然に」は、中学時代のある思い出と、それにまつわる感情を蘇らせてくれる。
 彼がいろいろと説明してくれたところによると、酒の工場やガムランの楽器の製造工程などを見学できるらしい。貸し自転車が一日2000ルピアとのこと。
 僕の最終目的地はバリ島で、出発の日まではまだ一週間ほど残っていた。ここから直接にバリを目指しても構わないのだが、どうもバリは長居したくなる土地ではなさそうだという勘がしていたから、この時点ではジャワ島の北東にあるマドゥーラという島へ行くつもりにしていた。
 しかし彼の話、特に「酒」という単語にひかれて、もう少しここに滞在しようかという気になり始めた。そう言えば「市役所の方で、明日の晩にフードフェスティバルがあるのよ」とビールを持ってきてくれた彼女に誘われたばかりでもあった。
 ワヤンクリッ、ワヤンゴレッ、ラーマーヤナ舞踊、ガムランなどのインドネシアの伝統芸能がいたく気に入った僕は、この街で演じられるワヤンオランにも興味を持った。オランとは、オランウータンのオランと同じで、人という意味を持つ。人形や影ではなく、人が演じる舞台。
 ぜひいい席で観劇しようと、一時間ほど前から会場の前で待っていた。カウンターが開くと真っ先に1000ルピアを支払って、最前列に座席をとった。
 しかし、隣に座った男のタバコの煙が僕を不快にさせたのをきっかけに、会場を後にした。
 舞台の背景画は銭湯の富士山よりも安っぽい。前方のドアから係員が何度も出入りし、平気で舞台を横切る。スポットライトはぶれるし、ついたと思ったらすぐ消える。衣装はあまりにも安物で、つけ髭なぞは黒い紙ではなかったか。役者は自分のセリフがない時に、上体を揺すってみたり、アクセサリーをいじくってみたり、あるいはカツラの具合を調整している。踊りの動きはそろっていない。そのいずこにも、一片の優雅さを見出すことは不可能だった。
 地方都市のストリップ劇場的(行ったことがあるわけではないのだが)な、どうしようもないやるせなさが、空気中に黴の胞子のごとく漂っている。
 王宮で見た舞踊の練習風景の方が、よっぽど素晴らしいものだった。3万5千払ったラーマーヤナ舞踊と比べるのは無茶だが、大した時間つぶしにすらならなかった。むしろ期待に胸ふくらませながらまとわりつく蚊を追い払っていた待ち時間の方が長かった。
 どうしようもない気持ちで、かと言って眠るにはまだ早いから、近くの食堂街でギンギンに冷えたビンタンを一本飲んだ。そして、ソロそのものに対する興味が急速にしぼんでいる自分に気付いた。よし、やはり明日には出発しよう。


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