砂色の月

 宿の前からベチャに乗って、駅まで。
 「8時半の電車がある。カウンターは1時間前からオープン」と事前に聞いていたにも関わらず、開いたのは9時だった。
 二人掛けの対面の座席はビニール張りで直角のシートだが、横幅はゆったりとしていた。前の席には白いレースの縁取りのヴェールの少女と、途中から乗ってきたピンク色のヴェールの少女がいた。
 物売りが、その品物と値段を連呼している。ミネラルウォーター、コーラやファンタなどの飲み物から、袋菓子、弁当、タフゴレンなどの食べ物、さらには車内で販売する理由がよく分からないが、鉛筆のセットまで。中には商品を乗客全員に配っておいてから、後に必要ない人からは回収し、それが気に入った人は代金を払うというやり方もあった。
 タフゴレンでもつまんで食事にしようと、売り子が来るのを待っていたら、うまい具合に弁当屋が現れた。ご飯、ミーゴレン、肉、薄っぺらなタフゴレンが発泡スチロールの箱に入っている。
 列車の通路を行き来するのは、物売りだけに限ったものではない。物乞いもいる。
 タンバリンを叩きながら歌う子連れの女性、盲目で手を差し出すだけの年老いた男性。片手で抱えた木の箱にに丈夫な黒いゴムを3本わたした弦楽器と、タンバリンの鐘の部分を一つだけくっつけた木の棒で音をたてて歌う少年。彼らは、ひっきりなしに、というくらいやってくる。
 午後1時半、スラバヤのグブン駅に到着。
 ゴミが浮き沈みする川を渡ってツーリストインフォメーションを探す。
 若く明るい男性が応対してくれた。多少の日本語ができた。カウンターの中には高校の制服のようなものを着た女の子たちがいて、とてもかわいらしかった。
 バリに入るまでの時間つぶしの他に、マドゥーラ島へ足を伸ばす目的がもう一つあった。カラパンサピという競馬ならぬ競牛を観戦したかったのだ。8月の後半からシーズンが始まる。ジョグジャで出会った人がその練習風景を見たが、かなりの迫力だったと語っていた。
 しかしながら、インフォメーションで得た情報は、「次の大会は8月31日」ということだった。その日は僕はもう京都に戻っているはずだ。
 それから「マドゥーラ島は、観光客もほとんどいないですよ」とも教えてもらった。
 しかし、最も重要な情報は、マドゥーラ島の東のカリアンゲッから、ジャワ島のシトゥボンドへのフェリーは毎日出ている、というものだった。そこからはバスとフェリーを乗り継げば、1日でバリ島へ入れる。ある程度の観光地なら、最後の手段としてツーリストバスを利用するということも考えられるが、特にこのように観光客はあまり立ち寄らない土地ということならば、その先の交通手段については押さえておくべきだった。
 車線の数や、その上を排ガスをまき散らして進む車の数、立ち並ぶビルなどの外観からだけではなく、目に付いた屋台で食べたバッソ(汁そば)が2000ルピアもしたことからも、スラバヤがかなりの都会であることを知る。
 港に出るためにバスに乗った。トゥンジュンガンプラザ前から港への直通バスがあるはずなのだから(これも先ほど聞いた)、運転手に聞いたときに「ノー」と返事をすればよさそうなものを、そのバスが港へのルートを外れる所まで乗せられた。「ここで乗り換えだ」と言われて、ぽいっと下ろされた。自分がどこにいるのかがつかめない。
 仕方なく、とりあえずは道端でマンゴーを一切れ買って、その甘く冷たい果物で一息入れる。交通整理をしていた警官にバスを教えてもらい、ようやくとスラバヤ港へ。
 目指すマドゥーラ島は、目と鼻の先にある。フェリーは頻繁に行き来しているようだ。
 切符を買って乗った船内には禁煙の表示があるもののお構いなしに白煙が漂っていた。室内にいる気がしないので、足元がねちゃねちゃする通路に立って、離れ行くスラバヤの臨海工業地帯と、次第に近づく緑に覆われたマドゥーラとを交互に眺めていた。
 距離が近い割には思ったより時間がかかった。夕方と呼ぶには少し早いくらいに島に上陸。
 地図も何もないが、人の流れに沿って歩くと、市場の向こうにミニバスが集まっていた。相変わらず声の矢印に従って突き進むと、再奥がスメネッ行きの乗り場だった。
 大まかな島の地図によると、スメネッからフェリーに乗るつもりのカリアンゲッまでは20キロもないので、その後が動きやすいように思われた。
 しかしそのスメネッまでは100キロ以上あるようだ。とにかく、ミニバスに乗り込んだ。最初は5000だったが、4000になった。スラバヤでは3500だと聞いていたが、相手との会話の雰囲気からすると4000でも妥当のように思われた。この種の判断は、いつの間にか身に付いた勘が下す。
 田園地帯の一本道を走り続ける。時速100キロ近くは出ているんじゃないだろうか。前を走る車を次々と抜いていく。いつの間にか日は沈み、宵の明星がやわらかな空に輝いていた。
 すっかり夜になった。7時になって、到着したターミナルはまだ全行程の3分の2ほどのパメカサンだと言われた。
 運転手が、僕をスメネッ行きのミニバスまで連れていった。そして次の車の運転手に1000ルピアを渡していた。車掌は丸い眼鏡と目そのものの感じが、小学校の社会科の教育テレビに出ていたチョーさんによく似ている人だった。2台目のミニバスには、助手席と左側後部の窓にガラスがなかった。
 見た目通り、かなり年期が入った車で今までとは逆にこちらが他の車に抜かれていく。
 空を見上げる度に星の数が増え、天の川も見える。広がる畑の彼方、地平線の上には、砂のような色の月が浮かんでいた。満月からわずかだけ欠けている。
 隣の席の老女が、手にしたタオルに苦しげにタンを吐き、体を折り曲げていた。まさかここで死んでしまうのではなかろうかと不安になったが、自分が下りるべき所へ来ると、さっさと下りていった。
 途中でタイヤ交換などもあり、ずいぶんとかかってしまった。
 バスターミナルではなく、大通りの脇で下ろされた。集まっていたベチャは英語がだめだったが、なんとかホテルへ言ってもらうよう伝える。
 インフォメーションでの情報だと、スメネッの宿は5000ルピアくらいからあるということだったので、最初の9000の所は断って、他を当たってもらうことにした。
 その次は、鉄の扉に頑丈な鍵がかかっていて応答がなかった。その次は高すぎた。4軒目はフロントで英語が通じなかった。フェリーの情報も欲しいから、最初の所にするかと思って、さほど期待せず、ロビーでテレビを見ている人の輪に「英語できる人いないですか?」と尋ねたところ「少しなら」という男性が現れた。まさしく、天の配剤。
 部屋は割あい広く、マンディルームも清潔だった。
 英語のできるオヤジを解して得たところによると、フェリーは毎朝8時に出ている。そして港まではタクシーで1000だということ。ちゃんと朝でも拾える、ということを確認した。
 丸一日移動した汗と汚れを落として、何かお腹に入れたかったが、ベチャで走り回る間にも何も目に入らなかったから、今日の所はガマンして寝ることにした。


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