タバコ畑の昼と夜

 人の話し声や、中庭に止まっていた車がエンジンをかける音などで6時過ぎには半ば目が覚めてはいた。けれど「うるさいな」と思うだけで、起きようという気にはなれなかった。昨日の長時間の移動の疲れからだろうか。
 すると、最初は遠慮がちに小さく、僕が無視していると次第に大きなノックの音が響いた。
 「イエス?」と返事をして様子をうかがうと、フロントの男性が立っていた。何事かを伝えようとしているけど、彼の言葉を僕は理解するはずもなく、ただ「カリアンゲッ」という単語だけが耳に引っかかった。
 「いや、カリアンゲッに行くのは今日じゃなくて、明日なんだ」という意味のことを、できるだけ平易な英語で伝えた。「Today, no. Tomorrow.」
 納得したのか彼は立ち去った。おそらくは昨日ロビーで通訳してくれた人が僕がカリアンゲッからの船に乗ることを伝えて、親切心から出航に間に合う時間に起こしに来てくれたのだろう。うれしいんだけど、僕はもう一度寝る。
 数時間後、ベッドに転がっているのも退屈してくると、「覚めた」という明確な意識のないままのろのろと立ち上がった。
 この町の地理については何も分からないが、いや分からないからこそ、とにかく通りを歩いてみることにした。
 昨夜の暗がりの中ではホテルの前はかなり大きな通りだと思っていたが、片側一車線のそれほど広いものでもない。ベチャが多く走っている。ここのベチャは、自転車の前に腰掛ける台があり、全体的に長めの車体だ。そんなベチャがどちらの車線にも、すいすいと流れている。
 道路を挟んだ向かいには、青々と茂ったタバコの畑が広がり、数百メートル奥には木立に囲まれた家が数軒目に入った。さらにその向こうは、ふいに陸地が途切れ海が始まっているように見える。
 通りを東に向かって進むと、ちょっとした食べ物屋や屋台があった。屋台は単に道端に置かれているだけだったが、夜にでもなると明かりが灯るのだろう。
 10分ほど歩くと、曲がり角に「パサール(市場)」という看板を見かけた。次々とベチャがその角を曲がっていく。僕も足を向けた。
 長屋のように店がかたまって生活雑貨を売る区域を左に抜けると、野菜を商う一角に出た。長さは20センチもあろうかという唐辛子の赤色が強烈に目に飛び込んできた。
 海が近いからだろう、魚を売る店も多かった。生臭さと潮の香りが七三くらいで混じったそこの空気は、田舎のさびれた漁港を思い出させた。
 大きな屋根の下に集まっている肉屋では、プラスティックのバットにたまった真っ黒な血の上にのったレバーの固まりを見た。
 市場はやはり、食品が最もおもしろい。
 日本でみかけるよりもやや小ぶりで全体的に緑が濃く黒い縞があまり目立たないスイカが、何百と地面に並べられそして編んだヒモに入れられてぶら下がっていた。たかがスイカでも、これだけの数が揃うと圧巻である。
 大ぶりのマンゴスチンを、明日の移動に備えて買った。値段は5000、3000、4000、3500とすんなり交渉もまとまった。これくらいのやり取りならインドネシア語でこなせるようになっていた。
 市場を出て少し進んだ賑やかな十字路を左に折れた。別に理由はない。すると一本の路地に、金製品を扱う小屋のような店がずらりと並び、客があれこれと品定めをしていた。値札に20%と記されていたのは金の含有量だろうか。
 ホテルと同じ敷地にあった簡単な食堂で、ぬるいビンタンに氷をつっこんでちびりちびりと飲む。冷えてないから一息に飲んでもうまくないし、逆に冷えるまで待っていたら水っぽくなってしまう。難しいところだ。窓の向こうのタバコ畑では、収穫が行われていた。大きな束を頭に乗せた数人が、道端のトラックの荷台に次々と積み込んでいった。僕の耳にはたまに通る車の音くらいしか耳に入らないから、音を伴わない彼らの作業には、音声を消したテレビを見ているような非現実的な感触があった。
 夜。宿から市場までの地理はつかんだから、それほど明るいわけではないが夕食を求めに外に出た。
 少女と言って差し支えないくらいの子がぱたぱたと植物を編んだうちわで炭火をおこし、サテーを焼いている屋台で、3人ほど順番を待っている後に並び、「10本」と注文した。
 煙の中に火の粉の舞う様子を見ていたら、その彼女に何事か言われた。
 「お米も一緒に?」とそばにいた兄ちゃんが英語でその内容を教えてくれた。
 その彼も英語は「少しだけなら」ということなので、イマイチはっきりしない港までの交通手段について尋ねてみることにした。昨日は「タクシーで1000」と聞いていたものの、タクシーでそれだけの値段というところに少々合点がいかなかったからだ。しかし、彼が語ってくれたのはタクシーではなく「ミニバス」で1000ということだった。なるほど、それなら分かる。そのバスは7時に出るらしい。
 そこを越えたら現実問題としてかなりつらいことになる、という一歩手前で誰かから助けを得られることがどうも多いような気がする。それこそ「求道的」な旅などではなく、自分の楽しみのための旅をしているわけだから、それでいいんだと思う。困ることをすら楽しめる範囲にあることが望ましい。しかし、これは決して消極的な態度ではない。状況に応じてその範囲をいかに自在に伸縮させられるかは、自分次第なのだから
 宿の前のタバコ畑には、街灯の淡いオレンジ色の光が少し投げかけられていた。
 マンディした後、ロビーで英語のできるおじさんを探したが、即座に「ノー」と答えられた。今まで「あなた、英語できる?」と尋ねられた分だけ、この町で僕が聞き返したような気がする。


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