日本人として、旅人として

 戦争博物館で、日本軍の為したことを知る。捕虜の労働の過酷さを端的に示す説明があった。「彼らには年に一度、天皇誕生日にのみ休日が与えられていた」
  JEATHとは、Japan、England、Australia、Thailand、Hollandの頭文字をとったものだ。DEATHと引っかけられていることは言うまでもないが、僕はさらにJリーグや、Jビーフなんかの連想から、「日本による死、あるいは日本の死」つまり、J-DEATHのような意味も込められているように感じられてならなかった。
 連合軍共同墓地は、整えられた公園のようだった。芝刈り機をかける人がおり、赤や黄色の小さな花が咲き、観光客が大きなバスでどっと訪れていた。

連合軍共同墓地
 黒光りする墓石には、名前、年齢、所属などとともに、家族からと思しきメッセージが彫り込まれているものがあった。「彼は平和のために戦って、そして亡くなった」というようなものよりも、「Always remembered and sadly missed by his mother, brother, and sisters.(母親、弟、それに妹たちの胸に常に思い起こされる。悲しみとともに)」というGW.E.Rashbrookに捧げられた一文がより強く僕の胸をしめつけた。
 またある墓石に刻まれた、22才(同じ年だ!)という文字も深く深く迫ってきた。僕が今ここで楽しみのために旅をし、いくつかの夢や希望を抱いている年齢で、彼は異国の地で、あるいは人を殺しそして殺されたのだった。その境遇を追体験することは不可能だが、未来に向けた全てが途絶された寂しさというものは、乏しい想像力で自身へ重ねてみることはできた。
 カンチャナブリーからバンコクの南バスターミナル、そしてサナームルアンまでは順調この上なく移動できた。そこからら3、400キロ北上して遺跡の街スコータイへ出るつもりだった。そのため、北バスターミナルへ向かう。
 白いブラウスにさらさらした黒の長めのスカート、一見すると日本の中高生の制服のようだが、ここでは大学生の服装でもある。もちろん、女性の。目の前のタマサート大学の学生に声をかけた。「このバスは北バスターミナルへ行きますか?」
 イエス、という返事に安心して54番のバスに乗り込んだ。
 小一時間ほどがたつと、僕の目には離着陸する飛行機が目に入った。次第に、カーゴ用の空港ターミナル、そしてあっと言う間に馴染みの旅客ターミナル。
 居眠りをしたつもりはなかったが、行きすぎたことは間違いがない。この空港に用があるのは、2週間ほど先のことなのだ。やれやれと、バックパックを背負って空港近くの、市街へ進む方向のバス停へ。
 路線図をにらんで、北バスターミナル行きのバスの番号をいくつか頭に入れてバスを待つ。2年前、始めてバンコクへ着いた時も、ここにいた。期待感と、「深夜特急」を追いかけている自分に対する興奮とでいっぱいだった。
 やってきたエアコンバスに乗る。車掌に「歩き方」の「北バスターミナル」というタイ文字を見せたところ、肯定の返事だったと思う。  しばし、冷気を楽しむ。
 隣の席の人に「北バスターミナルへ行きますか」と聞いてみても通じない。いやひょっとしたら僕が曲がりなりにもタイ語のつもりで述べたそのフレーズは相手に理解されたのかも知れないのだが、いかんせん、向こうが何を言っているのかさっぱりわからない。片手を挙げ、車掌に再び先ほどの「北バスターミナル」という文字を示す。
 彼女は、「何か書く物はありますか」というような仕草をした。僕が渡したボールペンで、「歩き方」の余白にかき込まれたのは、あろうことか違うバスの番号だった。
 すぐ次の停留所で下りて乗り換えを促された。ところが「どこへ行くの?」と英語で話しかけてきた人があった。
 どうやら車掌が僕のことを説明してくれたらしく、彼もターミナルへ向かうところだったので連れていってくれると言う。
 軽い世間話をしている間にバスはターミナルへ着いたが、かなり込み入った場所にあるような気がした。僕が知っていた場所から移転していたらしい。以前は確か幹線に面していたので、そのつもりでずっと辺りを見ていたのだが、これでは分からないのも無理はない。
 それでも目的の場所へ導いてくれた車掌と彼には大いに感謝をしたい。
 「ここでスコータイ行きのチケットが買えるから」と教えてくれた。「それじゃあね(Good for you!)」と彼は去っていった。
 彼の親切は、ものすごくありがたい。けれど僕自身はもう少し積極的になってもよかったのではないか。いや、そうであるべきだったのだ。例えばドンムアン前のバス停で幾人かに尋ねておくなどして。今までは実にいろいろなところで人に助けられてきた。その多くは相手の積極性によるもので、裏返せば僕の消極性になる。しかしこれからも幸運が続くとはまったく限らない。いくつかの偶発的な幸運によって、一人旅の自己責任の厳しさを失いかけていた。「旅慣れる」という言葉の悪い面が自身に芽生えている。気が緩んでいるのだ。
 チケットに示された発車時刻は20時。3時間半の待ち時間。とりあえずエアコンの効いた場所へ行こうと、ダンキンドーナツへ。ドーナツをかじって、巨大なカップに入った7アップをだらだらと飲む。辺りにはケンタッキーやセブンイレブンも建っていた。
 何百台、という表現でも誇張にはならないだろう。主にタイ北部方面へのバスが見渡す限り並び、そして僕と同じく発車を待つ人々でごったがえしている。
 すっと、全員が立ち上がった。そうか、前にもこの光景には出くわしたことがある。国歌の演奏がスピーカーから流れてきた。統一された動きをした塊としての人は、曲の終了とともにそれぞれの人へともどっていった。
 ターミナルへ人を運び、あるいはターミナルから人を運ぶ役割を担っているのは主に市バスである。クリーム色と群青とのエアコンバスや、赤い普通バス。いくつもの系統が間断なく流れている。その一つ、77という番号を掲げたものを見たとき、思わずくすりと微笑んだ。
 「シーロムへ行くバスは何番ですか」「77番です」
 3ヶ月だけ通ったYMCAのタイ語講座のテキストの例文。77は「チェッシップチェッ」というなんだか耳に残る音だった。それを目の前にしたものだから。
 日が完全に沈むまでにはかなりの時間がかかったような気がするが、いつの間にか遠くのビルに電光掲示された時計がくっきりと浮かんでいた。
 バスが走り出した。道路脇のランプは薄いオレンジ色だから、日本のナトリウムランプのようにさびしげではなかった。よく整備された道をバスは北上していく。いくつかの街で停車し、その度にわずかばかりの乗り降りがある。
 昼間の苦い経験と反省に基づいて、バスが止まる度に「ここはスコータイですか」と人に尋ねる。別に引っ込み思案な性格だとも思わないが、それでも見知らぬ人に話しかけるときは多少の躊躇と思いきりが必要になる。そこで踏ん切れるかどうか、というのが快適な旅かどうかの分岐点になるのかもしれない。
 夜中を過ぎ、うつらうつらとするものの、心の中に常に緊張感を残しているから、わずかな人のざわめきでも目覚める。ターミナルではなく、街の一角でバスは止まっていた。英語表記の看板が目に入った。スコータイ到着であった。
 時計を持っていないし、運転手の頭上の時計も止まっていたから正確には分からないが、午前3時くらいではないかと思う。不思議と眠気はなかった。いや「眠い」と感じられるような状況にもなかった。
 バスターミナルのベンチで日が昇るまで横になっていようともくろんでいた。だが、スコータイの停留所はチケットカウンターと10個ほどのベンチがあるだけだったので、宿を探す必要に迫られたからだ。
 しかしうまくしたものだ。モトサイと、バイクの前にリアカー(おかしな表現だが)をくっつけたようなサムローが3、4台客待ちをしていた。
 内の一人が、写真も入った宿の紹介の紙を見せてくれた。こういう観光地ではよくあるものだ。情報がある、というのはありがたい。とりあえずどこかに転がり込みたかったので80バーツという値段にひかれて、連れていってもらうことにした。もし気に入らないとしても、朝になってからまたどこかを探せばいい。時間が時間なのだから、多少のことには目をつぶらないとやっていけない。
 全くといってよいほど往来のない道路を走る。さすがに暑さは感じられない。
 僕の予想よりも長い時間かかって到着した。運転手が外から声をかけると、宿の人が出てきた。しかしそれでも「400の部屋しかない」と聞いて、よそを当たることにした。いくらなんでも僕の妥協できる範囲を超えていた。モトサイの運転手も、宿の主人もタイ語しかできなかったが「400」「部屋」という語が耳に入ってきて、状況が理解できた。
 「No.4ってどうだ?」と言ってくるので、他に選択肢を知らない僕としては頼るしかない。
 トウモロコシ畑の間の細い道を行く。何度か声をかけて、ようやく起きてきたおばさんは、どう見ても寝起きをたたき起こされたという顔つきをしていた。それでも、「だったら、蚊帳を張るわね」と部屋の準備をしてくれた。
 ところが、どすっという鈍い音がした。どうも、彼女がベッドから足を踏み外したようだった。
 とんでもない時間に訪れたにも関わらず、イヤな顔もせずに迎えてくれた。もてなしというのはこんなものなのだと思う。僕はとてもうれしい気持ちになり、そしてパジャマ姿の彼女から大切なことを学んだような気がする。
 サムローは入り口で待っていたが、彼女曰く「20バーツを彼に支払ってね」と。僕は50バーツは覚悟していた。また、同時に30あたりまで値切る心づもりもしていたのに。やはり、ここはバンコクのような大都会ではない。
 「チェックインの手続きは?」
 「後でいいのよ」と、僕に鍵を渡すと、再び彼女は家の中にもどっていった。
 部屋はそれぞれが独立した高床式のバンガローで、シャワーとトイレもついていた。これで100バーツはいい。木の格子窓には、カーテンが揺れていた。暗いからはっきりはしないが、辺りはずっと畑が広がっているようだった。
 結局、丸一日以上を費やして移動していた。眠たいので、汗にまみれたシャツの洗濯は後回しにして、とりあえず水を浴びて体だけはさっぱりとする。バスはずっとビニールシートだったため、太ももがあせもになっていた。次からはバスタオルでも敷いておくことにしよう。
 寝酒のメコンを口に含む前に、「ターミナルまで一緒に行ってくれた人、スコータイだと教えてくれた人、宿を探してくれたサムロー、ゲストハウスの女性に乾杯」とベッドの上で小さくつぶやいた。


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