ハードロックカフェ

 チェンマイの夜。僕以外に客のないハードロックカフェでビールを飲み、フライドポテトをつまむ。部屋で細々とやるのではなく、なんだか無意味であっても騒々しさが欲しかったのだが、完全に当てが外れた。それどころか、余計に寒々しい。痛々しいと言ってもよいかもしれない。確かに、スクリーンには何かのコンサートの模様が映り、やかましい音楽が耳に入る。カウンターの後ろの棚には、酒瓶がずらりと並んでいる。けれども、肝心の人の騒々しさはどこにもなかった。
 大きな都市だと大抵どこでもハードロックカフェがあることは知っていたし、その都市名とマークがプリントされたTシャツを着ている旅行者の姿を見かけることもしばしばだった。しかし僕は一度も足を運ぼうと思ったことはない。今まではそうだった。
 規模的にはタイ第二の都市であり、北部観光の目玉でもあるチェンマイは、僕が事前に考えていたほど面白味のある街ではなかった。
 400キロほどを鉄道に乗って、北の都チェンマイに到着したのは昨夜遅くと言うよりは、今朝早くだった。宿の人のトレッキングへの誘いを振り切りながら、ベッドに転がった。
 寒さのせいと十分な空間がなかったせいとで、夜行列車では十分に眠れなかった。だから、もう少しねばっていれば日が昇ったのだろうが、とりあえず僕は睡眠を選んだのだ。
 目が覚めたのは昼だった。まずは地図で市場を探す。何となくどこの街でも最初の行動は市場探訪ということが多い。第一に食事がとれる。第二に何も買わなければ、お金がかからない。何より、特に生鮮食品を扱っている市場というのには特有の活気があり、見て回るだけで心の底から何かしらがわき上がり熱中できる。ある種のエネルギーとも言うべきものが、身体に満ちてくる。これは大いなる快感である。
 ワローロット市場には衣料品が多かった。残念だが、こういう市場にはあまり興奮できない。地図で見ると割合に大きな範囲にあるのだが、ぐるっとめぐってみてもどこもかしこも似たり寄ったりであった。
 お、やるなあと僕が思ったのは一人の子どもの物乞いだった。おしなべて暑い国の人は、目敏く日陰を見つける。バスを待っていても、バス停そばに立つ街路樹の影に沿って人が並んでいたりする。ここで見かけた彼は、とある店の前に出ていた商品を積んだワゴンの下にいたのだ。それもただ、そこにいて物乞いをしていたというだけではなく、ジュースのカップを道端に置き、その上で自分はワゴンの中で背を丸めて眠っているのであった。
 旅をしながら身につけてきた(そうしようと努力してきた)基本的な姿勢の一つに「受け入れる」ということがある。在るものは、在る、と認めることだ。まずはそこから始まる。これは、積極的な姿勢というわけではない。むしろ、ともすればある事物を黙殺してしまいかねない自分のあり方を否定し、努力によって正面きって向かい合わせようという消極性の否定に過ぎない。これは時として、暗く重たい作業である。しかし、自分にとって都合のよい面だけを選択し、いつの間にかその心地よいものだけで自分の世界が満たされているということにはなりたくない。
 そして、その上で得た感情も自分のものとする。それを素材に反省をすることもあるが、後悔はしない。過ぎてしまったことをどう思おうと、それはもはやどのような形にも変化することはないからだ。現在と将来において活かすことのみに意味がある。
 昼寝をしている子どもを見て(あるいは彼は空腹だったのかもしれないし、病気で寝込んでいたのかもしれない)、その瞬間僕は「うまいことやるもんだな」とニヤリとした。
 彼の姿が視界に入ると、目をそらす人がいるかもしれない。しかし、僕は見た。あるいは彼を見た上で、貧困に立ち向かおうと決心する人もいるかもしれない。人の店のワゴンの下で寝るとはなんてふてぶてしい子どもなのだと憤慨する人もいるかもしれない。けれど僕は感心したのだった。
 蒸したもち米(カオニャオ)と唐揚げを買い、さほどきれいでもないピン川のほとりで昼食。さらにビールを飲んで、クィティオまで食べたのだが肉体的な満腹感は得られたものの、気分的には満足とはほど遠いところにあった。
 ターペー通り沿いには英語の看板などを掲げた店が多い。レストラン、旅行代理店、みやげ物屋、「エスニックな」雑貨や衣料を置く店などだ。しかしどれもどちらかと言うとひっそりとしている。
 市場へ行っても、街歩きをしていても、メインストリートを歩いていてもぱっとしない。日が暮れれば、夜市が立つようなので、それまでどうしたものか。
 多少でも気持ちよくなれるだろうと、歩きながら出会ったタイマッサージの店に入る。浴衣のような軽い綿の服に着替えて案内された部屋に入ると、カーテンが引かれているため薄暗い中にマットがずらっと並んでいる。2時間みっちりと、足の指の一本一本から頭のてっぺんまで伸ばしたり揉んだり。まったくもって痛みはない。力尽くではなく、その筋肉があるべきところへじわりじわりと導かれるように。
 最後にお茶を一杯ごちそうになって外に出たら、すでに夕方になっていた。ちょっと体が軽くなった気がする。
 ちょっと早すぎる気もするが、夜市へ向かう。
 少数民族が伝統的な衣裳をまとい、道行く観光客に手にしたアクセサリーを売っている。やはり、団体の観光客を数多く見た。
 しかし、アカ族相手に歓声を上げながら写真を撮る人々と違い、僕の目には何もおもしろいと思えなかった。歩を進めるにつれ、気分が沈む。何のせいで、というわけでもないのだが。酒でも飲んで気を紛らわそうと思わざるをえなかった。あるいは、事前に僕が勝手に想像していたチェンマイの姿がそこになかったからなのかもしれない。
 そして僕は奇妙な沈鬱のハードロックカフェで、ビールを飲みジントニックを飲んだ。飽きたらず、宿の近くのコンビニで酒を買い足し、屋台で丸いソーセージのようなもの(米や臭みのある香辛料などが腸に詰められている。小さな青トウガラシとキャベツの葉をかじりながら食べる)を求めた。ゲストハウスの部屋で、一人アルコールを流し込みながら、睡魔の訪れを待ち続けていた。一晩眠れば、気分も変わるかもしれないと期待して。


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