50円ビール
アテネの次はどこかエーゲ海の島にしようと思っていた。さて、どこにしようかとぱらぱらと「歩き方」をめくっていて、ティノス島を選んだ。「まだ日本人はほとんど訪れていない」という説明が気にいったからだ。しかも、地図すらも付いていない。ページの上半分で説明をざっと、そして下半分には海の写真が。これだけがティノス島についての全てだった。
早朝6時。暑く寝苦しいユースホステルを後にして、昨日、ツーリストインフォメーションで知り合った川原さんの泊まるホテルへ向かう。
ティノスへ向かう船のことを教えてもらおうと出向いたインフォメーションで彼が話しかけてきた。坊主とスポーツ刈りの中間くらいのさっぱりとした頭で、にこやかに大阪弁を操った。勤めていた花屋を辞めて旅行に出てきたのだそうだ。これからアテネの近郊のビーチに行くつもりだが、一人で行ってもおもしろいものではあるまいから一緒にどうだろうと誘ってくれた。
僕は午前中に国立考古学博物館を見てしまい(それもまったく興味をそそられなかった)、何をして時間をつぶそうかと悩んでいたところだったので、二つ返事で応じた。
彼自身にもさして予定があったわけではなく、意気投合した我々はともにアテネを離れ、エーゲ海へ向かうことになったのだ。
アテネはそれほど魅力的でもないという意見で一致し、さらに互いにまだ見ぬエーゲ海に大いなる期待を寄せていた。
ピレウスの港には数多くの船が停泊しているが、僕らが乗り込むのは、期待を否が応でも盛り上げそうな「アフロディーテ」という名だった。
下船する人々を待つのは、宿の呼び込みの群である。それぞれに部屋の写真やパンフレットなどを見せてくる。ところがどれを見てもギリシア語で書かれていて、これではさっぱり分からない。ギリシア文字は僕に苦手だった物理を思い出させるから、少々とっつきにくいところがある。
とりあえず選んだのは、唯一英語で「貸部屋あります」と書かれていたGIANNIS(発音は確かめていない)という一軒。そう、これはホテルではなく、自分の家の一部を客に貸すといういわば民宿だった。よほどここに日本人はやって来ないらしい。客引きにきていた大柄なおばさんに「イタリアーノ?」と尋ねられるほどに。
着いた場所から5分もせずに到着。途中にはスーパーマーケットもあり、とても便利な位置。さらに5分歩くとビーチにも行けると言う。
3階建ての真っ白な建物で、窓枠や扉は真っ青に塗られている。それが太陽光をはねかえし、目がちりちりするほどにまぶしい。部屋の中も同じ色調で統一されている。窓からはヨットやクルーザーが停泊する港を見下ろすことができる。さらに、共用のバルコニーには赤紫色をしたブーゲンビリアが咲き乱れていた。これ以上、何を求めようか。
台所や冷蔵庫を使うことができたので、スーパーで食料や酒を買い、基本的に自炊をしていた。手っ取り早く、トマトソースのスパゲティばかりを食べた。台所にあったのは、ガスコンロではなく電磁調理器だったので、湯が沸くのに時間がかかった。麺がゆで上がる時間を見計らって、それに合わせてトマトソースをつくった。とは言え、単に設備が使えるというだけで、基本的なものから自分たちで揃える必要があったので、それほど大層な料理でもない。オイルサーディンやタコの缶詰などのちょっとした具を炒め、缶詰のトマトを放り込み、塩・胡椒で整えるという程度のものである。それでも、十分においしかった。
特に夕食の時は、バルコニーのテーブルにロウソク(台所の棚の中にたまたま見つけた)を灯して乾杯。それなりに幸せであった。無論、「男二人よりは……」という思いが互いにあったことは言うまでもないのだが。
川原さんと僕の気が合ったのは、一つにはビール好きという点である。「さすがに今日はちょっと控えよう」とどちらかが言っても、他方が冷蔵庫から冷えた缶を取り出してくると、矢も盾もたまらずに、結局は乾杯ということになってしまうのだった。
スーパーには、うまい具合に、一缶50円ほどの特売ビールが売られていたので、これをまとめ買い。オランダ製のそれを、僕たちは単純に「50円ビール」と呼んだ。バルコニーの椅子に腰掛け、パラソルがつくる日陰で小説を読みながら一本。窓から見える遠くの岬に沈む夕陽を眺めながら一本。海で泳いで、シャワーを浴びたあとにまた一本。どれだけ買い足してもすぐに底をついてしまうほどに、日がな一日のどを鳴らしていた。空気はからりとしてはいるものの、気温は高いからのどが渇く。ほとんど飲料水代わりである。
つまみは塩漬けのオリーブ。スーパーで量り売りされているので、適当なのを指さして100グラムほど買う。塩気がきついので、こりこりと一つ二つかじれば、ビール一本にちょうどよいくらいだった。
そして、海は、キレイだった。港の水ですら、底まで透けて見える。まるで手を伸ばせばひょいとつかめるかのように、魚の一挙一動も目の前にある。ビーチに至っては、これまで見たことがないほどに青く、そして透明。その青さも、熱帯の青さとはまた別物だ。熱帯のそれよりも硬質なものに見える。くっきりと青いのだ。
浜辺には片手で足りるほどしか人はおらず、観光地らしいものは皆無である。みんな好きなように泳いだり、本を読みながら身体を焼いたりである。
好きな小説をたっぷり、そして多少は余裕のあるお金さえあれば、1ヶ月でもゆったりと過ごすことができるだろう。海で泳ぎ、ビールを飲み、本を読んでいればそれ以上は何もいらない。
ただし食事だけは、わざわざレストランで食べてもさしておいしいものではなかった。これは僕が訪れたギリシアの街では、全てについて言うことができる。唯一気に入ったのは、イカのフライだが、これとてそれほど安いものではないのでそう頻繁に食べるわけにもいかなかった。その分、台所で自分たちの好きなように料理ができるのはありがたいことだった。
5日滞在したのだが、後半は強風に見舞われ海では泳げなかったのが少々残念。小さな石が身体にぴしぴしと当たってくるほどで、歩きながらも飛ばされないように気を付けなければ海に落とされかねなかった。
宿のじいさん(彼はいつも女性の宿泊客をつかまえては長話をしていた)が一度僕らの部屋に血相を変えてやってきた。彼の言うことには「エブリデー、バン、バン、バン!」
窓の立て付けが悪く、しょっちゅうバタバタと音を立てたことに怒っていた。しかしこれは僕らのせいと言うよりも、彼の責任だろう。僕らだってうるさい思いをしていたのだし。
確かに、ティノス島は素晴らしいところだ。アテネで感じたわだかまりは、青い海の前ではまるでそこに溶けてしまったかのように思えた。
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