トルコに行ったら……

 他の宿泊客をオトガルまで送るバスに便乗できた。オトガル、というのはトルコ語でバスターミナルのことである。9時半に着いてイズミル行きのバスを探すと、ちょうど10時発の切符がとれた。かなり頻繁に出ているようだ。
 緑なすというほどではないにしろ、車窓から見える景色に植物の色が含まれているとほっとするものがある。アテネに入って以来、半日だけ過ごしたサモス島をのぞいては、どちらかというと乾燥した風景が多かった。
 バスがイズミルのオトガルに着くが、市内への出方がよく分からない。大きな荷物を背負って付近をきょろきょろしていると、周りの人が乗るべきバスを教えてくれる。ところが、値段がやけに高く不審に思う。しっかり確かめたところ、僕らが安宿街を目指すための目標としていたドクズエイリュル広場まで直通の公共のバスはないから、一台をチャーターしなくてはとのことだった。
 何もその広場である必要はないのだ。地図によると、近くに鉄道駅がある。駅ならばまず間違いなくバスはあるだろうと、とりあえず通りへ出てみる。人の流れに従うと、バス乗り場があり、ひっきりなしにやってくる。どれに乗ったらいいかは分からない。うまい具合に近くにあった案内所で、駅へ行くバスの番号をメモしてくれた。
 バス停近くの小さなブースで、トルコ人に倣って小さな乗車券を買う。それっと目的のバスへ乗り込んだ。ところが、降車するときになって、乗客はその切符ではなく小銭を直接支払っている。切符を見せたが、「それではない」との返事。運転席の上方に貼ってあるステッカーを指さされ、そこに書かれている金額を支払うことに。
 市内を行くバスというのは便利であることには間違いないのだが、はじめての時にはなかなか難しいものである。これが電車や長距離バスならば、事前に切符を購入して乗り込めば目的地へ連れていってもらえるのだが、バスあるいはミニバスであれば、料金の支払い方法が土地土地によって異なるからだ。
 安宿街でとりあえずはと飛び込んだ一軒のホテルで、あっさりとそこに決めた。ツインの部屋で三百万トルコリラとの言い値を、関西人らしさをいかんなく発揮した川原さんのにこやかな交渉のおかげで百二十五万におさまった。一人分が7、8百円というところだ。
 トルコリラは何せゼロが多い。下三桁のゼロを三つ切ったくらいで実用的な大きさになる。紙幣も、そのゼロ三つはそれ以外の数字と比べて目立たないような印刷になっているし、店の値札や人が会話をするときでも省略されることがある。
 ところで、この宿の主人は英語が通じなかった。筆談と笑顔で値段は決まったものの、そのあとで彼が何事かを言っていた。運良くチャイの出前に来ていたお盆を片手に持ったおじさんが、簡単な英語になおしてくれた。前金で払っておいてほしい、とのこと。ところが手持ちがなく、しかも今日は日曜だった。両替したらすぐに支払うから、ということを伝えてもらい、ともあれ部屋の鍵を受け取った。
 バスの出発時にスタンドで売られていたチーズパイをつまんだだけの我々は、ホテルを出てすぐで人が大勢昼食を食べていた店へ。料理は建物の中の厨房でつくられているが、客席は道路に出された机である。少々英語の扱える若い店員が「みんなが食べているオムレツがお薦めですよ」と教えてくれたので、素直にそれを注文する。居酒屋などでさいころステーキがのって出てくるような小さなフライパンに、サラミと卵とトマトが。オムレツというよりも、ごった煮という様相。これがめっぽうにパンにあうときたものだ。トルコで食事をすると、パンがついてくる。たいて、食べ放題である。あっと言う間に平らげた。
 すっかり満腹して気をよくした僕らは、市内観光に出かけた。大きな通りを歩きながら、もし銀行が開いていればときょろきょろとしていたのだが、やはりどこも閉まっていた。
 海辺の公園を歩いていると、パンツ一丁の子どもたちが噴水に飛び込んでいる。気持ちよさそうだ。人が集まっている中を、ジュース売りが歩いていた。背中に銀色の瓶を背負っている。注文があると上半身を大きく傾けて、細長い口からガラスのコップに注ぐ。どういう構造かは分からないけれど、よく冷えていておいしそうだった。ちょっとした地下道をくぐると、そこでも商売をしている。地面に扇を並べて、お客を引くために何か歌を歌っている。すかさず川原さんが「オレのうちわはよいうちわ。一扇ぎすれば天国さ〜」と似たような節回しで歌い出した。愉快な人である。
 僕らがこの暑さを和らげるために選んだのは、噴水でもジュースでもうちわでもない。もちろん、冷えたビールだった。喫茶店とバーの中間のような店で、昼間からビールのグラスを傾けている人が少なからずいた。さっそく、僕らも席に着いた。エフェスという銘柄だった。大降りのグラスにサーバーから注がれる。白ビールに近いわずかに鄙びた香りが鼻を抜けるが、うまいと思った。
 続いて、地下鉄の工事中のような通りの脇を歩きながらアゴラへ向かった。川原さんが腕時計のバンドにくっつけていた方位磁針が役に立つ。
 アゴラ、とは古代ギリシアでいう広場である。しかし、現在イズミルに遺るそれは、民家に囲まれた野原に立ち並ぶ柱であった。観光客は、我々二人だけであった。案内板によると、地震により地面が沈降して当時は地上にあった市場の部分が、今ではちょうど地下一階分くらいの深さにあるのだそうだ。下りてみると、石のブロックをアーチ上に組んだアーケードの下を、今では冷たい地下水が滔々と流れていた。
 地図で見るとそれほどの距離はない城塞跡を観光の最終目的地として、さらに歩く。ところが、これがとんでもないほどの坂をえっちらおっちらと上らなければならなかった。僕らがひいひい言っている横では近所の子どもが走り回り、スカーフを巻いたおばさんたちが軒先で井戸端会議に興じている。
 ようやくたどり着いた頂上の城塞の上に立つと、今までの努力が十分に報われるほどの眺めが広がっていた。海にはいくつもの船が航行していた。町並みの中で、一際目をひいた建物は地図と見比べてヒルトンホテルだと分かった。街の中心に大きな緑地帯があり、そこは遊園地のようになっていた。それほど大きくはない観覧車が見えたが、日本では信じられないほどのスピードで回転していた。チャイハネ(喫茶店といった感じの店)で眺めの良さそうな席に着き、ぬるめのペプシで一息つく。誰かが凧を揚げていたが、それは僕らよりも下の空を泳いでいた。
 先ほど見下ろした街の中で、ホテルの大まかな位置をつかんだので、その方向へ向かってやはり民家の間を縫うようにした細い道を下りてゆく。物珍しさからだろう、子ども達がきゃっきゃっと集まってきた。その歓声を聞きつけて、次々と寄ってきたので、せっかくだからと彼らと写真におさまった。こう言っては何だが、とてもありがちな写真ではある。
 小さな子どもばかりではなく、十代半ばくらいの女性が3人ばかり二階の窓から僕らを見ていた。どちらかと言うと、彼女たちの写真の方が僕にはうれしい。
 そして、夕食である。どれだけ楽しみにしていたことか。ギリシアでは「トルコに行ったら……」というのが僕らの合い言葉だった。何もギリシアでぎりぎりまで切り詰めて最低限の食事をしていたというわけでもないのだが、おいしいと思える物は皆無であった。何だかぱさぱさしていたり、ぎすぎすしていたり。仕送り直前に冷蔵庫のあり合わせの物で適当につくったらできてしまった料理のような味ばかりだった。「歩き方」トルコ編の巻頭にカラー写真で紹介されていたトルコのロカンタ(レストラン、というよろもむしろ食堂)の料理の数々を、僕らは憧れの眼差しで熱く見つめていた。先日まで滞在していたクシャダシでは不幸にもヨーロッパ人向けに観光化されたレストランばかりが目について、熱い思いがかなうことなかったのだ。
 ここにいたって、ようやく見つけた。城塞からの帰りに、ロカンタが何軒か集まっている場所があったので、シャワーで汗を流した僕たちは、日が暮れるのも待ち遠しくそこを目指した。店の勢いや人の入りを入念に検討した結果、一軒のロカンタで歩道上に出されている席に着いた。料理はまるでショーウインドーのような大きなガラスの向こうの大皿で湯気を立てている。はやる気持ちで、次々と指をさして選んでいった。
 テーブルの上に並べてまずは記念撮影。そして、突撃。ピラフの詰まった大きなピーマン、羊となすの煮込み、一口の大きさのハンバーグ、野菜の煮込みなどなど。材料としては、羊肉、ピーマン、ししとう、じゃがいも、なす、というくらいでさほど幅が広いというわけでもないのだが、味はそれぞれに違っている。スパイスの種類が豊富なのだろうか。
 合間にパンをかじる。フランスパンのようではあるが、それほどかたいわけではない。ぱりっとしたきつね色の皮のすぐ下は、やや塩気のきいたもちっとやわらかな歯ごたえである。一口大にちぎってそのまま食べるもよし、皿にたまったソースに浸して食べるのも得も言われぬ。テーブルにはまた生のタマネギとキャベツのような菜っぱが用意されていた。やや油っこくなった口の中を、生野菜でさっぱりと。
 これだけ満腹になって、二人で1100トルコリラ(下三桁のゼロを省略している。日本円で六百円ほど)。
 唯一惜しむらくは、食事にあわせてビールが飲めなかったことだ。道路を挟んだところにあった店で500ミリリットルの缶ビールを買って持ち込もうとしたのだが、あわてて店員に止められた。「ポリス」と彼は言う。どうも、指定された店以外でアルコールを飲んではいけないというようなことらしかった。テーブルには待ちこがれていたトルコ料理が並んでいるのに、店員の指示通り少々離れた道ばたでビールを飲み干した。
 しかし、いずれにせよ、大満足の夕食であった。


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