イスタンブールという響
今日の一番にトプカプ宮殿に行くつもりで、路面電車の通りを南下していたのだが、気付くとアヤソフィアに先に着いてしまった。ちょうど修復作業中で、視界の三分の一ほどが巨大なジャングルジムにも見える作業用の足場に遮られてしまう。ビザンティン時代に建設されたキリスト教会であるために、壁面のモザイク画に描かれているのはトルコにあってイエスやマリアなどである。小片を貼り合わせて一枚の絵にするのは、気が遠くなりそうな作業だと思う。また、イスラム寺院に変貌させられた時代もあったため、ドームの中には、アラビア文字のカリグラフィーも掲げられている。
イエレバタン・サルヌジュと言ってもそれが何であるかピンとこないが、その実は宮殿である。しかもただの宮殿ではなく、地下にある。ただ立ち並ぶ豪華な柱の具合や、台座として彫られているメドゥーサの顔などからそう見えるのだが、実際には貯水池である。ひんやりとした薄暗い地下の空間をコリント様式の柱が保っている。水をたたえた上に通路をわたしてある。魚が泳いでいるが、豚のようにまるまるとした鯉のようだった。内部はライトアップされているのだが、赤やら青やらの照明が適当に点いたり消えたりしているだけで、むしろない方がよいくらいだ。
しかし地下というとやはり独特の雰囲気を持っている。小さな子どもが恐怖から声をあげて泣いていた。共感できる。僕も幼いころ、本屋の地下の噴水が怖くてならなかった。
7月から9月の水、土、日は夕方4時からコンサートとの垂れ幕があり、せっかくだからとその頃にもう一度訪れてみることにした。
青い色を好む僕は、ブルーモスクを非常に焦がれていた。だが、実際に中に入っても一体どこが青いのだとそのなの由来がすぐには分からなかった。例えば、壁一面が真っ青であるというような情景を想像していたのだが、内装が青を基調としたタイルで飾られているということだった。ステンドグラスから差し込む光と相まって明るい雰囲気に満たされている。これは観光用でもあるが、それ以前にイスラム寺院である。入場料などを要求されることはないが、出口では喜捨を募っている。強制される性質では全くないが、本当に気持ちだけ箱に入れる。
小腹が減ったので、トウモロコシをかじろうと思った。幾度かトウモロコシ屋台を目にしていて、一度は食べておこうと考えていたからだ。
「いくら?」「焼いたのは100、ゆでたのは150」「それじゃあ、焼いたのちょうだい」
そして僕は500札を渡した。お釣りとして返ってきたのは300だった。「おい、100なんだから釣りは400だろう」と言うと、「いいや、200だ」と返す。やれやれ昨日に続いてまただ。シルケジ駅周辺では、「100」という看板を掲げていた屋台を見ていたから、別に今急いで食べる必要もないと「じゃあ、いらない」とトウモロコシを彼に返した。僕の注文を受けて焼いたものなら、別の行動をとったかもしれないが、何本か並んでいる内の一本をひょいと手渡されただけだから、返品しても構わないと思った。同時に釣り銭として渡された300も台の上に置いた。
彼が嫌そうな顔つきで出したのが50の札だった。僕が最初に渡したのは500。釣りとして返されたのが300。その300とトウモロコシを返したのだから、500を返すのが筋というものだ。あからさまに彼は詐欺の類だった。「ふざけるなよ」と少々やりあって、しぶしぶ彼は500を投げてきた。昨日の路面電車の切符のこともあり、気が高ぶっていたから、本当は500が手元に戻った時点で終わっておけばよかったのだが、「警察に言うからな」と言って、彼と屋台とを写真に撮った。彼はと言えば悪びれる風もなく「お好きに」という感じだった。すぐ近くでパトカーが止まっていたので、事情を説明する。警官が「英語しゃべれる人、いるかい?」と付近の人に声をかけると、すぐに一人の男性が寄ってきた。事情が通じたので、パトカーがそのスピーカーから「おい、そこのトウモロコシ屋!」というように呼びつけた。とても威圧的な語調で。3回ほど呼びかけて件の彼がやってくる。通訳を買って出てくれた人は、僕の説明が警官に通じた時点でいなくなっていた。だから、この場には僕ら二人と警官、それにトウモロコシ屋だけだった。意思の疎通が図れないが、なんやかんやで「オーケー」ということにおさまった。
考えられることは3つある。まず、「一度買った物の返品は好ましくない」ということ。これならば、彼が返金になかなか応じなかったことが説明される。第二に「僕が50札を見間違えていたこと。実際に最初に返金されたそれは500だった」というもの。だが、いくら何でもそういうミスは考えにくい。第三に「彼は『100』と言って、実際には200を取る商売をしていた」ということが考えられる。渦中にいた僕としては、第三の推論が正しいのだと思うが、いずれにせよ僕はもう少しうまくやれたのではないかという悔恨が残らないではなかった。まずは、イスタンブールの観光地のど真ん中で何か食べようと思ったことからしてトラブルを予兆されるのだから、避けておいてもよかったのかもしれない。さらには、500が返された時点で終わりなのだから、自分の鬱憤を晴らすためだけに警察官など他者を巻き込むべきではなかったのだ。何も屋台の男が罪に問われたり、今後改心することを期待して警察官に声をかけたわけではなかったのだから。このことはある意味で醜い行為だ。
結局、腹におさめたのはドネルケバブをパンにはさんだものだった。シルケジの駅前すぐに、肉の塊が火にあぶられている。二種類あるが、白い方が鶏肉で茶色い方は羊肉。高さで50センチ、直径は30センチを越すほどの肉の塊が突き刺された鉄串を中心として回転するようになっている。もちろん、一塊りの肉ではなく、いくつもの肉片を重ねているのだ。羊肉はトルコに入って以来口にしない日はないので、気分転換に鶏の方を頼んだ。刀のような道具で焼けている部分をそぎ落とす。パンにその肉と野菜をはさんで、ソースをかける。コッペパンが二まわりほど大きくなったパンで、食感はフランスパンに近い。これでたっぷり一食になるほどの満腹感が得られた。
午後も観光は続く。今まで大体一日かければ、一都市の見所をおさえられたのだが、ここは違う。そしてどこへ行っても、必ず何かしらに驚かされる。タイとバンコク、インドとカルカッタ、アメリカとニューヨーク、例えばここに挙げたようなものは、国名と都市名の持つイメージというのはある程度等価なものとして感じられる。しかし、ことイスタンブールに至っては、明らかに「イスタンブール>トルコ」という不等式が成り立つように思える。それほどまでに魅力的な街なのだ。
考古学博物館は少々入り口が分かりにくいものの、トプカプ宮殿のすぐ隣にある。また、ここの入場券で、付属する古代東方博物館と装飾タイル博物館も見学することができる。館内は人が少なく、展示物が豊富で見応えがある。目玉はアレキサンダーの石棺だが、僕を捕らえたのはすでにその展示物の名前さえも失念してしまったが、背中に羽根の生えた人物のレリーフだった。「一体、世界で初めて人間に翼を与えたのはどのような人物であったのだろうか」という疑問がわいた。さぞや想像力と柔軟な発想を有していたのだろう。名も知らぬ古代の人に、僕は敬意を抱く。
午前中に買った半券を見せると、地下宮殿へ再入場することができた。琴と笛のような楽器が奏でられる。静かな地下の貯水池に音が反響する。心地の良い演奏会であった。
おやつは、待望の鯖サンドサンドウィッチである。はじめての東南アジアの旅の時に、「イスタンブールでは鯖サンド」と耳にして以来の憧れであった。実は昨夕もガラタ塔に上った後で食べる機会があったのだが、直前にぱくついたケバブサンドで満腹だったため、その機会を逃していた。川原さんがかぶりついて「うまい」と感想を言うのを横目に見ていただけに否が応でも期待は高まっていた。
夕方になるとガラタ橋のたもとに小舟が三隻ほど並ぶ。船の上では、鯖の切り身が焼かれもうもうと煙が立ち上っている。しかし、客の入りに明らかな差がある。
客の回転が速い船では、見事な連係プレーで、切り開いたパンにししとう、トマト、それに鯖をはさんで、はい、どうぞ。海との境に張られた柵の所に小さな台があり、塩とプラスティックの瓶に入ったレモンの果汁が置かれていて、これで適当に調味する。くし形に切られた紫タマネギが盛られているので、合間にこれをかじると口がさっぱりとする。サンドウィッチに鯖という取り合わせは、一見奇妙だが、豈図らんや。ついでにそばの屋台でのピクルスジュースを一杯。キャベツとキュウリのピクルス、それに浸け汁がコップに入っている。残念ながら、これは塩気がきつすぎた。
ここではまた、ミディエドルマスもつまんだ。ムール貝の中に、あっさりとした柔らかめのピラフが詰められている。レモンをぎゅっとしぼっていただく。
日が暮れるまでにまだ少々ある。人の流れに沿うと、バザールに紛れ込んだ。エジプシャンバザールだそうだ。デパートでよく見かける実演販売にやはりこちらでも人が集まっていた。その器械を用いると、くるくるっとブドウの葉を巻くことができるのだ。おもしろい、そして便利だと思う。
どうしたことか、何事かに用いる薬とコンドームを扱う小さな店、それに下着を売る店がやけに目に付いた。
日本語で「安くします」と書かれた紙を店頭に出しているお菓子屋で店員に話しかけられた。英語に不慣れで勢いに飲まれやすい、ある種典型的な日本人のふりをしようかと思ったら、川原さんにびしっと言われた。「店の人に悪いやん」
確かに。失礼しました。
いつもの店でビールを飲んだ後に、今日はさらに出歩いた。ブルーモスクのライトアップ見物である。日によって変わるのだが、今日はたまたまトルコ語だった。昔話が語られ、暗がりに尖塔と寺院が浮かぶ。
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