トルコの地図を開いて、どこへ行こうか考える。判断材料はささやかな知識と、ざっと眺めた「歩き方」の記述である。やはりカッパドキアの奇岩ははずせない。グルジアのヴィザを取得するためには黒海沿岸のトラブゾンへ立ち寄る必要もある。世界遺産に指定された、パムッカレの石灰の山とそこを流れる水も見たい。移動も含めた日程を考えると、あと一都市行けるかどうかである。首都のアンカラはおもしろみがなさそうなので除外。村上春樹が「雨天炎天」に書いていたワン湖のワン猫(彼の記述ではヴァン)も見てみたいとは思う。だが少々交通の便はよろしくない。ドウバヤズットにはノアの方舟伝説を語るものがある上に、高所からは遥かシルクロードが見下ろせさらにはイランの国境検問所も視界にあるという。旅への欲求の根元を揺さぶるような土地である。そしてトルコからヨーロッパへ旅立つ街は、アンタルヤ。ここからアドリア海を北上し、ヴェネチアへ向かう航路がある。僕は目星をつけたこれらの都市に、ボールペンで大きく丸を付けた。
 イスタンブールからパムッカレへ一直線に下りる。南西から北東への対角線を描くようにトラブゾンへ。グルジアに足を伸ばし、ドウバヤズット。カッパドキアを経由して、トルコの終点アンタルヤ。これが僕の立てた計画だった。
 川原さんと別れ、一人バスに揺られる。アジアを疾走するバスとは大きく異なり、ずいぶんとしっかりとしたもので、紅茶やミネラルウォーター、お菓子などのサーヴィスもある。ただ、コロンヤにはなじめなかった。ビンに入った液体を車掌が乗客の手のひらに振りかける。アルコールとレモンのような匂いがする。いや、より正しくは「レモンの匂い」の匂いである。トルコ人は顔や頭になすりつける人が多い。好奇心から最初だけは他の人と同じように手のひらにのばしてみたが、頭に刺さるような匂いには閉口した。それからずっと、コロンヤが振る舞われても断り続けた。
 出発は夜中だったので、ヨーロッパ側からアジア側へ架かる橋を渡るときに興奮がおそってきたものの、ゆったりとしたシートに身を沈めて割合に早めに眠ることができた。朝になってみると、でこぼこだらけの道路を走っていた。ワッフルのプレートを敷きつめた上を走るように、常に車体が上下しその度に、頭がぐらぐらとする。おかげで、二日酔いの夢を見たという夢を見た。
 オトガルで出会った客引きと交渉して宿へ。彼は自分の名前を「サナダヒロユキ」とおどけて言った。鼻と目の線が似ていると言えば似ている。なんと宿の庭にはプールもあった。
 草の匂い、熱をはらんだ風、うるさいほどの蝉の声。夏が来た!そう言えば今日から8月である。

パムッカレ
 一見すると雪山のようである石灰の山は、靴を脱いで上るように言われる。所々に監視員までいる。石灰が固まった小山の上から水が流れ、あちらこちらに池をつくっている。棚田にも似ていて、段階的に水がたまっては下の段へと下りている。以前はこのプールに浸かることもできたのらしいが、今は水の流れも制限され、池に踏み込むと監視員が笛を吹き、出るように指示される。流れに足を浸すと、あっと言う間にすね毛に石灰が堆積する。壁面をほとばしり流れる水を、シャワーのように浴びている人がいる。どうしたものかとためらったものの、やはり僕もその水を存分にずぶぬれになった。もちろん、あっと言う間にさっぱりと乾いてしまった。
 石灰棚の奥にはベルガモン王国やローマ帝国時代の遺跡が建つ。かつての建造物の陰で、日を避けて座っていたが、暑さのせいか空腹に流し入れたビールのせいか、頭がぼおっとしまるで自身の存在が昇華していく錯覚さえも襲ってくる。
 宿にもどり「暑いね」と話しをすると、「だったら、プールに飛び込んだらいい」と。だが、どうも濁っていて汚れた感じのする水にためらった。「パムッカレウォーターさ」と彼は言う。なるほど、あの山からひいた水ならば石灰が溶けているからこのどんよりとした白濁も汚れでないことが分かる。さっそくばしゃんと飛び込む。夏の幸せが体の中ではじけんばかりだ。少年時代の夏休みへの憧憬が今まさにここにある。ただ違うとすれば、冷えたビールがもはや苦い液体でなく、心地よく喉元をすぎてゆくということか。


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